覇者王道の夢
人間五十年
下天の内を
くらぶれば
夢幻の如くなり
一度生を得て
滅せぬ者の
有るべきや
彼の源平盛衰記で
哀れにも若き命を断たれた平敦盛を詠い乍ら
今戦陣へ発つ武将が居る。
其の顔は意外に静かであった。
其の見開いた眼の向こうに何が見えたのであろうか。
修羅の世界か
戦の後の豊穣の世界か。
如何にせよ
地獄も 浄土も
己の道の向こうにあった。
何の もののふと生まれて
躊躇すべきや只泥田に一歩踏み入れるべし。
もののふとして 修羅の巷を馳せ抜けるべし。
「蘭丸。」
「はっ。」
鋼のような呼び声に響き返す答は一つ。
外は雨。
乾いた白い土に砂埃を立てて、
車軸の様な俄雨が降り注いだ。
紺碧の空を見上げれば、
一幅の絵に大きな輪を鳶が描いていた。
静かな野原の小路を三十数人の童共が歩いて居た。
或子は侍の子であろうか。
また或子は如何にも百姓の小倅かも知れない。
やいの、やいのと、
甲高い声で騒いで居た。
道端の畑では大人が野良を耕し乍ら、
「又、始まった。それ、織田の殿さんの小倅の道楽じゃ。」
「家の権助は行って居らんかいのう。」
「行ってたら。」
「仕置きじゃ。」
「はっはっ。そりゃ無理じゃ。」
「あすこに居るじゃろが。」
「始末に負えん。」
此の辺りの童たちの《戦ごっこ》は、
中々大人でも驚嘆に値するものであった。
「矢張り、織田の小倅は、ただ者では無い。」
「父上。父上はござらぬか。」
張りの有る甲高い声が響く。
「お、若。殿でございましたらば、仏間へ…。」
「そうか…。」
「あっ。もし、今殿は…。」
すかさず、
「良いのじゃ。」
屋敷の廊下を我物顔にすたすたと歩く
信長を止められる者は居なかった。
織田家の城内の城主が暮す廓には流石に
其れなりの格の仏間が設えてあり、
城主は毎日、早朝の読経は欠かさなかった。
がらりと引き戸を開けると幽かに香の煙りが立ち込め、
経典三昧の主人が居た。
「父上。」
勿論そんな事で止まる筈も無かった。
「父上。」
ばさりと経机に経を置くと、
父親は息子の態度に眉を潜めた。
「何事じゃ。」
「父上三河の小童を儂に任せてくれ。」
「……。」
「彼奴、中々見どころがある。」
「何事じゃ。」
「三河の小倅、いつか役に立つやも知れぬ。」
ちらりと息子を眺めるや、
「お前がでしゃばるのは未だ早い。」
すると倅はカッと頭に血が昇ったのか、
真っ赤な顔して
「父上。」
「…。」
城の主人はなにものも無かった様に又読経三昧に耽った。
そして不満一杯の信長にちら、
と一瞥を与えるのみであった。
「蘭丸。」
「はっ。」
蘭丸は童子ながらも、
自分の有るべき役割を知り抜いて居た。
主人の轡を取ると、
「いいえっ。」
「はっはっはっはっは。そうか。」
「お前は何時から親元を離れて居る。」
突然何の事だろうかと複雑な心情の蘭丸に、
「ついて参れ。」
「はっ。」
青年とも、少年とも付かぬ年頃の主人は、
気侭であった。
しかし、更に幼い蘭丸にとって、
主人の気侭もまた魅力であった。
兄の様な頼りがいの有る物腰、態度、
地に付いた肝っ玉。
蘭丸にとっては眩しいものであった。
織田家の居城にも春が来た。
或日の事、春風と共に都より旅人が立寄られた。
「若。客人故挨拶を…。」
「堅苦しい事は嫌じゃ。」
守役の初老の武士は「いけませぬ。」
「分かった。」
日頃気侭な信長は挨拶も早々に客間を去った。
「爺。それより覇道、王道の違いは。」
守役の目はきらりと光った。
「手前若年より学びしに、応仁の乱よりこのかた、
民百姓の心休まる事なし。
古の大君曰く。天の君を立つるは、本百姓の為なり。
故に君は百姓を以て本となす。
古昔の聖王は、一人饑寒するも、
之を顧みて身を責めたり。
百姓の貧しきは則ち朕の貧しきなり。
百姓の富めるは、則ち朕の富めるなり。
未だ百姓富みて君貧しきものはあらざるなりと。
是は仁徳帝の御心にございます。王道にございます。」
若き信長は少し驚いた表情をしていた。
「若殿、先ほどのお客をお存じで。」
「いや、知らん。」
守役の初老の家臣は、これは驚いたとの素振りで、
「わざわざ大殿に、都から客人がいらした事を、
何とお考えで。」
真剣な話に何事かと若き信長はじっと目を向けた。
「先ほどの大御心でござる。」
「…。」
「今戦乱の世故、帝は勿体無くも、
日頃のお暮らしに、ひっ迫してござるのが、
若殿には見えませぬか。」
「大殿は見兼ねて至上の君へご献上でござる。
世の中の諸国大名は、
概ね此の下克上に虎視眈々でござる。
然るに我が大殿のご忠心は筋金入りでござる。」
「…。」
「何をしてござる。」
「…。」
「都へお登りなされぃ。」
「登って何とする。」
「あぁ、焦れったい。若殿らしくも無い。」
「御旗を戴き、早う此の乱世を救われるのでござる。」
「…こ、此の儂がか。」
「他に誰がござっしゃる。」
しんとした板の間。外では俄に雷鳴が轟き始めた。
果たして此の若き青年に、
応仁の乱以後の下克上に終止符を付けられるのであろうか。
その後の空耳抄…今日は安土城の竣工の日であった。
天守の大屋根に最後の瓦釘が打たれたのが此の日であった。
「権右衛門を呼べ。」
「はっ。」
城の大広間は丹羽、柴田、羽柴、
明智と歴戦の面々が居並んでいた。
拭き浄められた長い廊下には、
朝早くから明るい日射しがさして、
一面新しい木の香りが充ちていた。
「お~良い香りでござる。のう、柴田殿。」
「うむ、良いものじゃ。」
足音が聞こえて来た。
「大工頭の権右衛門でございます。」
「おうっ。見事であった。」
天下に二つと無い城の大工事が終り、
流石の信長公も大満足であった。
「一献取らす。」
「はっ。」
権右衛門は居並ぶ家臣を憚りながら盃を傾けた。
「是より目出たい舞いを…。」
「うむ。」
予てより城に招き入れていた舞師が、
広い中庭に招き寄せられた。
そこには特別に設えた舞台があった。
しずしずと舞台の上に登ると、静かに城主信長公、
家臣一同に一礼をすると、間もなく音曲が始った。
長閑な一時であった。名城も其の城主も、
何れ来る運命は知る由も無かった。
その日、安土城は激しい風に吹き曝されて居た。
広い天守の第七層の窓を一杯に明け放たせると、
突風が轟々と唸りを上げた。
時々戸板はぶんぶん音を立てていた。
「……。」
「強い風でござる。」
「奴は必ず来る。」
「御意。」
城主はこんな嵐の日、何者を待って居るのであろう。
「ほれ、見てみろ。」
「ほほう。流石は三河の侍。」
「ふん。こんな風等、物の数では無い。」
「はっはっはっは。ほうれ、あの家来共め。
風に吹かれて、くるくる舞いじゃ。
こりゃ見物じゃ。」
「さ、参るぞ。三河のがどんな顔して参ったか。」
「は。これ、早う支度じゃ。」
友遠方より来る、また楽しからずや
「む。鼓を持て。」
城主は突然云い出した。
「藤丸鼓じゃ。」
「はっ、某、無骨者で。」
一瞬主の顔色が変った。
「はっはっはっはっは。後に致す。」
「ははっ。申し訳無く…。」
「馬鹿者。益荒男は、戦陣で生き、死ねば良い。」
「ははっ。」
主は両足を投げ出し、ごろりと横になった。
安土の高い天井の格子と、
鮮やかな名工の技が目に入った。
「ほうっ。今気が付いた。
中々なものじゃ。武士であれ。
絵師であれ。一度、滅せぬ者とて無い。
何を為すかじゃ。」
「ははっ。御意。」
黒雲が重く垂れ込み、
今にも一雨来そうな天気であった。
城の高台から白い羽織を身に付けた。
城主であろう人物が家来衆を数人従えて下って来た。
城の裏手の広い馬場には、
先程から奇妙な一団が控えて居た。
日頃見慣れぬ南蛮人達であった。
城主が見えると皆跪いて、敬意を表わした。
城主は軽く頷いた。
「それでは、あの者達の申す通り…。」
「……。」
黙って頷いた。
南蛮人のうち二人が、
五尺程の黒金の筒を傾けると、
何やら袋から取り出した火薬で有ろう粉末と弾丸を込め始め、
いつもの手慣れた技らしく、さっと遠方の的をめがけ、
構え始めた。
頭目と思しき男が、号令をかけると、
やがて火縄から火玉がぽとりと、
すかさず“ががーん”と雷鳴のような大音声と共に、
筒先から火を吹いた。
堪らず肝を潰す者も居た。
城主と云えば、一瞬も驚いた風を見せず、
ややあって、にやりと笑った。
「見事じゃ。」
やおら立ち上がると城内へ、
何事も無かった様に引き上げて行った。
「ノブナガサマノ…ゴキゲンハ?」
「悪ろう筈は無い。」
供の者が答えた。そして城主の居間では、
「何事でござりまする。」
奥方が青白い顔を心配そうに見せた。
「いや~、肝を潰した。声も出なんだ。
はっはっはっは。」
宵の内は穏やかな風も次第に肌寒くなって来た安土城も、
やがてとっぷりと暮れて、
山陰から剃刀の様な細みの月が昇って来た。
「おい。」
「何じゃい。権エ門。」
「聞いたかやい。」
「だから何のこっちゃ。」
「今夜、殿さんが…。」
「ふんふん。」
「真面目に聞いとるのかい。」
「おりゃ、いつも真面目よ。」
「うん、何でも天守の広間に肝試しじゃそうな。」
「ふん。あのお殿さんなら、
何にも恐ろしいこたぁ無いじゃろう。」
「そうか。何じゃ詰まらん。」
巨大な城の空間が一瞬どよめいた。
「おうっ。儂一人で良い。」
「殿手柄の一人占めはいかん。」
「何が手柄じゃ。」
「儂が自分の城の中を、どう歩こうが儂の勝手じゃ。」
「まあ、そう仰らず此の藤吉郎めにお任せを。」
「さる、余計な事を。」
「勝家どの、貴殿が参れば、妖怪共が肝を潰して、
皆して出て来よらん。」
「はっはっはっは。こいつら奴。
何か詰らん気分になって来た。」
急に興味が醒めたのは他ならぬ信長公であった。
天下の名城『安土城』と云えば信長公。
それは秋の良く晴れ渡った日であった。
安土の天守第七層の窓から、
城下の街並が明るい日射しを浴びて、
光っているのが見えた。
今日は珍しく客も無く、長閑な一日であった。
窓から身を乗り出して眺める信長の手に、
真白な鷹が舞い降りた。
純白の羽が蒼い空にぱっと散った。
「おおっ、来たか。」
近くで鷹匠が何気なく観ていると、
公のお気に入りの鷹ではあったが、
何を間違ったか、手の上にそそうをした。
それを観ていた鷹匠は驚いた。
しかし、
「おっほう。中々元気が良いわい。
蘭丸手ぬぐいをもて。」
云われる迄もなく、既に蘭丸は懐中の手ぬぐいを差し上げた。
その時居合わせたお伽衆の物部荘平は、
思わず怪訝な素振りを見せてしまった。
流石、信長公は気が付いた。
「鳴かぬなら、殺してしまえ時鳥。…はは、誰ぞ。
このような戯けた歌など儂が作るものか。
その方、儂が手の上にそそうをした鷹を殺すと見たか。」
「はっ、いいえ。」
「この儂とて無闇に殺生する訳もない。」
「鷹は猟に役立てば良い。糞をするのは当たり前じゃ。」
「のう、媛」
「ほほ、殿。荘平殿も驚かれておる。」
戦国の世の覇者信長公の普段着の姿を連想し、
あれこれ認めて見ました。
そんな筈は無かろう。
…ごもっともでも此れは小生の空耳抄。
楽しんで戴ければ嬉しいです。
平成十八年吉日
中仙堂




