最初の一歩
あの日から多忙になった。まずは大家さんに鍵を失くしたことを説明し、怒られながらも新しい鍵を貰った。失くした財布には小銭ぐらいしか入ってなく、免許証やらカードの類は家に置いてあったので助かった。可憐を失って無気力になっていたことが功を奏したのだ。けれどお金はそうない。自堕落な生活をしていたこともあって、仕方なく親の遺産をいくらか引き出した。可憐の生活用品を買い、しばらく同棲となる。部屋を借りるにしても可憐にはお金がないし、働こうにも字は読めない、信号機も理解が違う。細かいことは同じなのだろうけど、なんせ色に関する文化が違いすぎた。あとは地下鉄だ。資源の違いか可憐の世界に地下鉄はなかったそうで、モノレールが主だったそうだ。地下鉄に乗ってはしゃぐ可憐に恥ずかしい思いもしたけれど、俺はなるべくたくさんこの世界を見せた。限られた生活の中でも可憐は喜び、興味を抱き、感動していた。なにより豊かな食べ物はかなりのショックだったみたいだ。食料も人工化合物で補うことが多かったあの世界と違い、自然の野菜が豊富なこの世界の料理は味がまったく違うらしい。俺としてはそう違いはわからなかったけれど、確かに施設で出されたメニューは全部で5種類ぐらいしかなかった。病院だからそんなもんかと思っていたが、元々バリエーション自体が少ない世界だったらしい。車はないがバイクがある俺は、可憐のたっての希望で海へと向かった。2時間ほどで海が見え、後部にいる可憐の、ヘルメット越しでもわかる感動の悲鳴に自然とニヤけてしまった。
「青い!青いよ!海が、青いっ!」
バイクを走らせて適当な場所に止めれば、可憐はヘルメットを俺に渡して浜辺へと駆け出した。秋のため人はまばらだ。可憐にすれば今年は夏を楽しめていない。梅雨前の世界から突然この秋の異世界へとやってきたのだから。それでも10月に入ったばかりとはいえ暑い。この気候には可憐も参っていた。あっちの世界の春夏秋冬ははっきりしているらしい。3月になれば徐々に暖かくなり、ピークも梅雨で一旦止まる。そして梅雨を越えて夏になれば暑いがここまで湿気の濃い夏ではなく気温も高くて30度だったらしい。体調を崩さないように気配りしているが、意外と可憐は順応している。10月なのに残暑の日差しにも耐え、元気にこの世界を学んでいるのだ。そんな可憐を歩いて追えば、サンダルを脱いで膝まである白いスカートを少しだけ持ち上げるようにして波打ち際に立っている。絵になる可憐さに思わずため息が出たほどだ。
「本当に青いんだね・・・・でも青い方が綺麗」
「逆に俺なんか赤い海は気持ち悪いよ」
「これを見たら納得できる。空も、青い方が綺麗だもの」
そう言い、海と空が同時に見える水平の彼方を見つめた。
「私、ここにいられてよかった。青い空と青い海、綺麗だもの。食べ物は美味しいし、面白いテレビもいっぱいだしね」
「文化の面ではこっちが上で、技術の面ではあっちが上か」
「環境の破壊具合は同じかな。やり方は違うけど・・・でも青い海は凄く綺麗」
海を見て何度も綺麗を連呼する可憐から少し離れて砂の上に座った。日差しがまだまだきついせいか熱いが、真夏ほどではなくすぐに慣れた。
「私、こっち向きかも!」
振り返った可憐がそう言う。いつか俺の前から消えてしまうかもしれない恐怖はある。あの小学校がトリガーとなる場所ならいいが、そうでないなら怖い。
「きれいだなぁ」
言いながら可憐が俺の横に座った。濡れた足に砂が付くがお構いなしで。
「私、決めたよ、あの話、乗る」
可憐はずっと海を見つめたままそう告げた。ここへきてから1週間、何度となく話し合ったことを。
「大丈夫かな?」
「言いだしっぺがそういうこと言わないの」
笑う可憐に笑みを返すしかない。
「この後、連れてって」
「そんなに早く?」
「善は急げ、だよ?」
「善なのかな?」
「うん」
満面の笑みを浮かべる可憐に頷いた。俺にとって目の前の可憐は死んだ可憐と同じなのだ。瞳の色がどうとか気にならない。ならば、大丈夫なはずだ。そう信じることにした。
*
いざとなると足がすくむと思っていた。だがそれは俺の方だったようだ。可憐はその家の前に立つ。決意の込められた赤い瞳に揺るぎはない。逆に俺は顔に出ているほど心配だった。果たして思惑通りに事が進むのか、とにかく心配だ。
「同じなんだね・・・屋根の色が違うけど」
「黒じゃないの?」
「赤」
「あの世界は赤が基本だったのかな?」
「そうだよ」
「血気盛んだったわけだよ」
俺はそう言うが心配を隠すための話題だ。
「じゃ、行こう」
「あ、お、おう」
動揺ありありの俺に苦笑を見せ、それからインターホンを押した。カメラがあるから向こうから来訪者が確認できる。つまり、驚くことになるのだ。その予想は現実となった。今日は日曜日、ならば揃っているはずだから。途端に玄関のドアが開かれる。履物すら履かずに飛び出してきたのは可憐の母親だ。門を開いていた俺たちの行動は正解で、母親は可憐に飛び掛かる感じで抱きついた。
「可憐!」
「お母さん」
声も同じ、見た目も同じ。死んだ娘が数か月の時を経て戻ってきたのだ。泣きじゃくる2人を少し離れた場所から見つめている父親の顔は青ざめていた。
「可憐、なのか?」
抱きしめられたまま可憐が頷く。父親はよろけながら、現実と虚構が脳みそを行き来するのを自覚しながらも母親越しに可憐に抱きついた。泣く3人を見る俺ももらい泣きだ。けれどこのままの状態を近所の人に見られるのはまずい。幽霊、亡霊、そっくりさん、どう取られてもこの先色々面倒だからだ。
「とりあえず中へ。詳しい話をしないと」
その言葉に父親が反応し、抱きしめあったままの母娘を促して家の中に入った。玄関に入っても母親は可憐から離れない。
「お母さん、私はもうどこへも行かないよ?だから、ね?」
その言葉に母親がじっと可憐を見つめる。
「可憐・・・目が・・・髪も」
「この可憐は俺たちの知っている可憐じゃないんです。でも、可憐なんだ」
「ど、どういう意味だ?」
「その前に1つだけ確認です。この子は可憐ですか?あなたたちの娘ですか?」
「当り前よ!顔も、声も・・・匂いも・・・可憐だもの」
「信じがたいが可憐としか思えない」
母親はきっぱりと、父親は動揺しつつもそう答えた。だから俺と可憐は目を合わせて頷き合った。
「今から話すことは真実です」
*
リビングで俺はあの世界のことを話して聞かせた。似て異なる世界。赤い空の異世界界。赤い瞳の可憐と出会い、そしてここへ戻れたいきさつ。さらには可憐までもが世界を越えたことを。父親はうなるような声を何度か出して自分を納得させようとし、母親はずっと可憐を抱きしめたまま茶色い髪を撫でて話を聞いていた。
「信じられんが・・・可憐がここにいる。信じるしかない」
「可憐が帰ってきたのよ」
「お父さんもお母さんも、私の知っている2人と瞳の色が違うだけ・・・・生きてるし・・・」
そう言って泣く可憐を同じように泣く母親がギュッと抱きしめた。
「正直、戸惑いました。ここへ連れてきていいのかどうか。でも、可憐の意思です。あっちの世界で可憐は1人ぼっちだった。ご両親も俺もいない世界だったから」
「可憐・・・」
「しかし、どうするんだ?戸籍はもうない・・・可憐は死んだ」
「そこです・・・裏ルートで戸籍を買うとか、危ないことは出来ない。もし警察にでも捕まれば可憐の存在自体が危なくなります」
「戸籍なんかいらないわ」
「だが、周囲への説明もいる」
「可憐でいいじゃない!」
可憐が帰ってきたことでそれに執着する母親は話にならない。だが、それは可憐が諭すことで少し冷静になれた。
「お母さん、これって大切だよ?だって私は死んだ人間。赤い目の松本可憐のそっくりさんで名前も可憐。ややこしいし怪しまれる」
「そうだなぁ」
父親は腕組みをして考え込む。沈黙の時間が流れるが答えは出なかった。とりあえず今日はここに泊まることになり、母親は可憐と離れたくないということで2人を家に残し、俺と父親が買い物に出かけた。すき焼きになったのは可憐のリクエストだ。
「こっちの世界の食べ物はジャンクフードでも美味いそうです」
「なら、すき焼き食べたらどうなるのか楽しみだ」
近くのスーパーへと向かう中でそういう会話をする。父親もあの可憐を娘と受け入れているようだ。
「しかし信じられん・・・異世界だのなんだの、空想のものだと思っていた」
「俺もですよ。でも、可憐がいてくれて、こっちに来てくれてよかった」
「まったくだ」
笑いあう父親の目に涙が光っていた。
「きっと引き合ったんだろうね。君が可憐を求め、可憐が君を求めた。だから世界を越えて2人は出会い、1つの世界にやって来た」
「意外とロマンチストなんですね?」
「まぁな」
すんなりとこの事実を受け入れてくれたこの人に感謝をする。実際に可憐がいたせいもあるのだろうが、あの世界とこの世界の可憐がほとんど同じだったこともその要因だったのだろうと思う。外見的にも内面的にも可憐なのだから。そして俺たちはすき焼きの具材を買って戻る。家では可憐と母親が思い出話に花を咲かせていたが、色々食い違うために母親も冷静になれていた。
「お母さん、一緒に準備しよう」
「そうね」
また泣く母親を促してキッチンに向かう。問題は山積みだが、こうして1つ1つ解決していくしかない。今日はまだその最初の一歩でしかないのだから。