世界を越えて
同時多発テロの影響で坂上小学校に到着したのは施設を出て2時間後だった。幸いにも追手の影もなく、俺は校門から離れた場所に停められたワゴン車を降りた。これでこの世界ともお別れだが、最後の最後で色々衝撃的だった。それは信号だ。空の色もそうだけど、逆なんだよね。つまり、赤が進めで青が止まれ。黄色がなくて代わりに紫なんて違和感が凄い。赤信号で動き出す車はもう恐怖でしかなかった。やっぱ俺はこの世界で生きていけないと思ったね。字も読めないし、坂上小学校って文字ももう無茶苦茶だ。なんせこの世界の日本語は漢字とひらがな、カタカナが合体した奇妙な文字なんだ。しかも原型がない。けれど、ここは確かにあの坂上小学校だ。校舎もそのままで、場所も同じ。よく見れば微妙な違いはあれど気にはならない。たとえば、校門前から続くこの道は砂利道だが俺の世界ではアスファルトだ。そこは資源の違いのせいなのかなと思う。
「付き添いはしてやるけど、野暮なことはしないよ」
おっさんはそう言い、似合わないウィンクをしてみせる。苦笑する俺や可憐を見てにんまりと笑ったおっさんを従えて俺は校門へと向かった。砂利道が若干の違和感を与えてくるが気にならない。繋いだ手に力が入る可憐を見れず、俺は緑に塗られた校門の前に立った。少しクラクラするのはもう影響が出始めているせいかもしれない。だから俺はまっすぐに可憐を見つめた。赤い瞳が潤んでいる。違和感だったそれはもう気にならない。きっと可憐も同じだろう。
「死ぬわけじゃない」
「うん」
「生きてる俺もいる」
「そうだね。生きてる私もいるんだしね」
そう言って可憐は微笑んだ。涙に濡れた微笑みが痛々しい。
「好きだよ、可憐。愛してる」
「私も、大好きだよ。愛してる」
「だから、さよならだ」
「うん、さよならだね」
突然いなくなった可憐に言えなかったさよならを、目の前の可憐に告げられた。目の前の可憐もまた言えなかったさよならを俺に告げた。それは奇跡で、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。きっと後で大きなダメージを受けるだろうけど、でも、いつかはこれで良かったと思える日が来るはずだ。そう信じたい。
「忘れないから、赤い空の下にいる、赤い目の可憐を」
「私も忘れないよ。青い空の下にいる、黒い目の大和を」
そのまま同時に抱きしめあい、互いの温もりと香りを確かめる。可憐は可憐で俺は俺。違いは些細な部分で本質的には同じだ。だから生きていける。この世界に可憐がいるんだから。
「青い空、見てみたかった」
「違和感、ハンパないぞ?」
「でしょうね」
微笑む可憐を感じる。抱きしめていてもそれがわかった。だって、それは可憐なんだから。小学校から大学までずっと一緒だった可憐なんだから。だから俺はそっと可憐から離れる。可憐もまた離れるが手は繋がったままだった。
「会えて良かった」
「会えて嬉しかった」
あっちの世界の校門に来ればまたここに来れるのかもしれない。けれど、それを繰り返せば世界は歪みを見せるはずだ。おっさんの忠告は車の中で聞いている。歪みが大きくなれば、境界を超える俺にも影響が出るだろう。下手をすれば俺は消える。一緒にいるだろう可憐も。だから俺は二度と境界を跨がない。可憐には生きててほしいから。
「いつか、いつかまた会えるって信じてる、願ってるからね?」
「ああ。奇跡は1度だけじゃないよ」
そう言い、俺たちはキスをした。別れを惜しむ濃厚なキスを。それは黒い瞳の可憐と同じで優しく、時に激しいもの。きっと可憐も同じことを思っているだろう。どの世界であっても俺は俺、可憐は可憐なんだから。
「じゃぁ、行くよ」
「うん。いつもここから見てるよ。見えなくても、私はここにいる」
「俺もいる。だから、心配するな」
「うん」
最後のキスをし、そして繋いでいた手が離れる。俺はおっさんへと顔を向けた。マシンガンを携えたおっさんはにこやかに微笑み、それから軽く手を挙げた。
「家族に伝えることがあれば聞きます」
「俺は独りだ。嫁さんと子供に死なれて絶望して電車に飛び込んだ。なのにここにいる。家族が死ぬなって言ってるのか、それとも嫌われてるからあの世に来るなって言ってるのか。まぁ、神様の気まぐれかもな」
「俺を助けるために生きていた、って思ってて下さい」
「ヤだよ、ガラじゃない」
おっさんは苦笑し、それから嬉しそうに微笑んだ。そのままがっちりと握手をかわす。
「帰れるあんたが羨ましいが、結局、帰れないと面白いなって思ってる俺もいる」
「最低ですね」
「ああ。だから、恩に着るな」
そう言うおっさんに頭を下げるとおっさんは数メートルを下がった。周囲を警戒するためか、俺たちを2人にしてくれるためか。だから俺は可憐に向き直った。
「さよなら」
「またね、だよ!」
「見えないけど、そうだな・・・・またな」
そう言い、最後の軽いキスをした。このままここにズルズルといられない。だから俺は可憐に背を向けた。涙は見せない、ではない。何故か流れなかった。全てに満足しているせいかもしれない。会えないはずの可憐に会えた。話が出来た。抱きしめあえた。キスできた。愛し合えた。そして、ちゃんと別れが言えた。だから俺は帰る。泣かないで。校門に近寄るだけで眩暈がした。来た時にはなかった現象だ。俺はそのまま緑色した校門に触れた。途端に眩暈が酷くなる。立っていられないほどぐるぐると世界が回った。赤い空がある。そして可憐が手を振っている。やがて世界が大きく歪んで目の前が真っ暗になった。だから俺は気づかなかった。何者かに襲撃されて血を流すおっさんや、俺をかばおうとした可憐に。
*
冷たい感覚が全身を覆っていた。その冷たさが意識を急激に覚醒させる。そうだ、あの時もそうだったと思い、体を動かそうとするが上手くいかない。けれどそれはすぐに収まると知っている。何せ一度経験しているのだから。だからまず重い目を開く。目の前にあるのは黒い道。そこで意識が急速に覚醒するのを自覚した。砂利道だったはずのそれは黒いアスファルトだ。俺はのっそりと起き上り、温かいよりは熱いと感じるそのアスファルトに座り込んだ。まずは空を見上げる。青い。そう、赤くないのだ。次に後ろ振り返れば、緑の校門がそこにある。字は漢字で『坂上小学校』という石のプレートが貼り付けられていた。読める、そう思いのっそりと立ち上がった。標識の字も認識できるが、今は何年の何月かが気になってしまう。戻ったはいいが浦島太郎では困るし、これまたよく似たそっくりの世界でも困るからだ。おっさんの話によれば並行世界は無数に存在するらしいからな。その前にまず確かめたいと思い、ゆっくりと校門に近づいた。やはりクラクラするがそう強烈ではない。あの医者によれば場所とアイテムがトリガーだと聞いた。なら場所はここでアイテムが校門だということか。でも小学生の頃はこんなにクラクラしなかったと思うが、校門が閉まっている時にここにいなかったからとも考えられる。色々な条件が重なっての境界越えだろう。でないと条件の幅が広がりすぎる。向こうから来る条件もそれだけ甘くなるってことだからな、そういうことなのだろうと思う。後日、一度校門が開いている時に来ようと決めてそこを離れようした時だった。校門の向こう側の少し離れた場所で何かうめき声のようなものがする。誰かがいるのかとあわてるが近寄ることはできない。頭をよぎるのは境界を越えた誰か、可憐か、それともおっさんかと思うが、もしかしたら別の世界の俺なのかもしれない。それともただ具合が悪い人間でもいるのか。気になるが近づけずどうしようか迷っていた時だった。這うような音が近づいてくる。俺は警戒しつつもそこから数歩だけ下がった。クラクラしない頭を冴えさせ、誰が来てもいい覚悟を決める。敵か、味方か。この世界の住人か、異世界の住人か。他人か、俺か。色んな思考が頭を巡る中、よろよろとした人物が前のめりにやって来て校門を掴んで身体を支えた。
「うそ・・・・だろ?」
体が震える。思考が麻痺する。ありえないと思う。俺は思考が停止して数歩前に出るが、クラクラするせいで思考が戻っていくのを自覚する。だから進みたい気持ちをぐっと押さえ、あえて数歩下がってその人物の名を叫んだ。
「可憐!」
校門に手を置いて体を支えているのは間違いなく可憐だ。茶色い髪からあの世界の可憐かと思うが、違う可能性もある。俺はドキドキしながら何度か名を叫ぶが可憐はその場にヘナヘナとしゃがみこんでしまった。頭がクラクラするせいだろうか。かといって俺は近づけないし、門を越えようと手を触れればあの世界に逆戻りだ。それは避けたい俺は可憐に聞こえるようにそこにいろと叫び、全力で別の門へと向かった。正門の他に北側の北門と東側の裏門がある。裏門は塀も高くて門も頑丈だが、北門なら正門の小型版で乗り越えることは可能だ。まずは北門に向かい、門を確認してからあえてゆっくりと近づく。ここまで来てまた別の世界に飛ばされたんじゃたまったもんじゃないからな。とりあえず近づくがクラクラしない、となれば門を触っても大丈夫だろう。俺は恐る恐る門に手を伸ばす。クラクラしない、大丈夫だ、そう言い聞かせ、それに触れた。何も起きない。俺は一気に門をよじ登ってそれを越えた。やはり正門に触れると飛ぶようだ。とにかく門を越えた俺は全力で走った。駆けて、正門の反対側に立った。近づくにつれ次第にクラクラしてくる。校内校外どちら側でもこうなるが、まだ門に手をついてうなだれている可憐はそのままだった。そこにいるのはどの可憐か。でも可憐は可憐だ、俺は名を叫んだ。
「かれぇぇぇぇん!」
その絶叫にピクリと可憐が反応した。俯いていた顔がゆっくりと起き上り、そしてまたゆっくりとこっちへ向いた。その瞳の色は赤い。俺は息苦しさを感じながら可憐に駆け寄る。クラクラする頭をなんとか耐えて可憐を引きずるようにして校門から離した。何がトリガーで可憐がまた飛ぶかわからないが、とりあえず日影になっている塀の裏まで運んだ。
「可憐?」
「クラクラ、収まった・・・」
「可憐っ!」
思わず抱きしめた。何がどうなってあの可憐がここにいるのかわからない。だが可憐はここにいる。俺が力強く抱きしめたせいか、俺を抱きしめていた可憐の手が弱まる。だから俺も力を弱めた。けれど幻じゃない、本物の可憐がここにいる。
「空が・・・・青い」
ぽつりとそう呟いた可憐の声に反応して無意識的に空を見上げた。ついさっきまであったあの赤い空はもうなく、あるのはよく知っている青く澄んだ空だ。俺にとっては見慣れたその空も可憐にとっては違和感でしかないだろう。
「綺麗」
呟く可憐から少し離れ、俺は可憐の手を握りしめた。赤い瞳が潤む中、俺たちはもう一度強く抱きしめあうのだった。
*
正門は鬼門なのでぐるっと迂回しながら北門から学校を出る。世界は違っても構造は同じせいか、思い出話をしながら再度正門の見える場所にやってきた。思い出もほとんど同じだ。違うのは小さな日常の思い出ぐらいでイベントなどは同じだった。可憐と繋いだ手の温もりが幻でないことを告げている。それが無性に嬉しかった。だが気になるのは何故可憐がこちらに来たのかということだ。落ち着ける場所といっても財布もなければ携帯もない。向こうにいった時に没収されたままだ。仕方なく自宅に戻ろうとするが鍵もない。悩んだ末、自宅の大家さんの家に行くことにした。その道すがら、可憐にその経緯を聞く。あの瞬間、追いついてきた政府機関の者におっさんが撃たれた。可憐はとっさに消えゆく俺を守ろうと身を挺したのだそうだ。だがその瞬間、可憐の頭がクラクラし、次元の境界線が揺れ始める。そのおかげが、撃たれた弾丸は境界線で歪みを見せて消失したのだ。立っていられない状態になった可憐が校門に触れた時、誰かに引っ張られるような感覚に陥ったと言う。気が付けば倒れていて、頭のクラクラは激しいまま、でも立ち上がろうとして校門までやって来たという話だった。だとすれば、可憐にとっても次元を行き来する世界の越境アイテムは校門なのだろうか。しかし可憐は今ここにいる。謎が多いがあの小学校にはもう行かないと決め、俺は近くのコンビニに入った。不思議がる可憐に雑誌コーナーで待つように言い、俺は何気に新聞を手に取った。日付を確認し、次いで店内の時計を確認した。
「行った時と同じ日、時間もそう経っていない」
どうやら行って戻った時間は同じようで、可憐のことやここまでの経過時間もあっているようだ。ホッとした俺は可憐を伴って店を出る。
「こっちの字って一種類じゃないんだ?」
「ああ、そうだよ」
「読めない字って不思議・・・見たことない字ばっかりだし」
「カルチャーショックってか、違和感だろ?」
「わくわくするけどね」
そう言って微笑む可憐に笑みを返す。これから可憐は字を学び、こっちの世界の法則を学ぶ必要がある。信号とか、文化の違いは大きいだろう。でも問題はそれだけじゃない。大きなものが立ちふさがっているのだ。そう、戸籍だ。こっちの可憐はもう死んでいて葬式も終わって墓もある。すり替わることは不可能なのだ。
「まぁ、難しいことは後にしよう」
疲れもあるし、まずは可憐がこの世界になじむのが先だ。可憐が俺を支えてくれたように、今度は俺が可憐を支えよう。赤い瞳の可憐を、黒い瞳の俺が。