違和感の渦
異世界?パラレルワールド?それとも現実世界?
そんな奇妙で普通な世界に存在する如月大和は記憶を失っている。
赤い空に抱く違和感、そして恋人である松本可憐にも抱く違和感。
その違和感の意味を知った時、その世界の秘密を知る。
普通でありながら普通でない世界のラブミステリー。
ここから見える空は赤い。そう、朝日が昇り、夕日が沈むまでずっと赤いのだ。雲は白く、空は赤い。そんな空に違和感を覚えるのは自身の記憶がないせいだろうか。気が付けばここにいる俺は、自分の名前すらわからない。自分が誰で、どこに住んでいたのかも、何をしていたのかさえ思い出せない。年齢も家族構成も、全て忘却の彼方へと消えているのだ。気が付けばここにいて、ベッドと簡素な家具しかない2DKの部屋に住んでいる。いや、隔離されていると言った方が早いのかもしれない。窓は全部で3つ、うち1つはベランダだ。どの窓からも見える風景は田舎の田畑であり、ぽつぽつと農家がある程度であとは全部山と川。のどかといえばそうなのだろう。だから、その景色にはすぐ飽きた。テレビもラジオも、インターネットもない生活だが不自由でもない。新聞も雑誌もないが問題ない。何故なら、文字が読めないからだ。記憶がないことと関係しているのかどうかはわからないが、文字が全く読めない。日本語、外国語、全てが認識できないのだ。とにかく文字が読めない。言葉はわかるからそれでいいのだが、だからといって退屈は消えてくれない。いや、日中はそうでもないからいい。毎日9時から18時までの面会時間に来てくれる幼馴染の松本可憐が来てあれこれ世話を焼いてくれるからだ。日常のこと、大学のこと、色んなことを話してくれる。政治のこと、社会のこと、世界のことを色々。記憶を戻すための行為なのかもしれないが、だからといって何も思い出せない。それはきっと、自分の中でくすぶっている違和感のせいなのだろう。何かが違うと誰かが呼びかけている、そんな気がしている。今日もまた、もうすぐ可憐がやって来る。壁にかかった時計を見れば午前8時50分、その真横に設置されている監視カメラももう気にならなくなっていた。そう、ここは病院だ。それも特殊な病院らしい。個別にあてがわれた部屋、移動には職員や可憐が付き添って決して他者とは接触できない。話すこともない。監視カメラはいたるところにあって、可憐によればかなりヤバイ人間も収容されているようでそれ用であるとのことだ。まれに部屋に侵入してくる者もいたそうで、だからカメラが全室に設置されているそうだ。箱庭、俺はここをそう呼んでいる。白い、四角い8階建ての建物。中をくり抜いた形で中庭があるが、人はまばらだ。それもそうだ、他者との接触が許されていないここで中庭にいても仕方がない。1人では決して出歩けないのだし、行く意味すらない。それに、この箱庭を囲む高さ4メートルのコンクリートの壁が周囲を覆っている。精神をやられた人間が脱走しないための処置なのだろうだが、全く記憶がなく文字すら読めない俺も同等の扱いだと可憐に聞いた際にはさすがに腹も立ったが、意味不明な言葉を叫んで暴れ狂う人間を見てそれも納得できた。ようするに、俺もそうなる可能性を秘めているとの認識なのだろう。なんせ記憶がないのだ、それが戻った俺がどこの誰で何をしていたかによればああなる可能性もある。けれど、自分は何故、可憐だけを覚えていたのだろう。全くないはずの記憶の中にポツンと彼女だけがいた。両親すら思い出せない、そもそも会いにも来ないことから死んでいるのかもしれないが、記憶を失ってここで呆然としていた俺の目の前に彼女が来た瞬間、俺は泣いた。そして可憐と呼んだのだ。無意識的だったのかもしれない。だけど俺は松本可憐を認識して、そして違和感を覚える。その違和感の意味は今をもって分からない。けれど、小学生からの幼馴染である可憐だという認識だけが俺の中のただ1つの記憶なのだ。自分が誰かもわからないのに滑稽な話だ、自虐的な笑みが絶えない。
*
可憐と出会った記憶はある。そして違和感。小学1年生の時、たまたま隣に座った可憐と話をしたのがきっかけだ。家も比較的近くて一緒に帰ったことでさらに仲良くなり、そして、そこから覚えていない。出会った経緯だけが思い出され、彼女が可憐だと、大人の、20歳の可憐も認識できていた。
「おはよう」
肩までの茶色い髪を揺らす彼女がノックと同時にドアを開けてやって来た。今日も時間通りだ。ここで目覚めて約一か月、彼女は面会に来たその日からずっと俺の傍にいてくれている。付き合っていたと聞かされたが、残念ながらその記憶はない。赤裸々なことまで色々話してくれたがどれもピンとこなかった。ただ、それでも違和感は消えない。
「おはよう」
「今日もいい天気だね」
そう言い、微笑みながら窓に歩み寄ってそれを開けた。梅雨を前にしたさわやかな風が部屋に流れ込んでくる。快晴のやや薄赤い空がそこにあった。
「前にも言ったけど、毎日来なくていいんだぞ」
本音を口にした。彼女が住んでいるのはここから電車で1時間ほどにある町だそうだ。施設からの補助金が出ているとはいえ、こう毎日来る余裕などあるのだろうか。金銭的には問題なくても、大学など影響は山積みのはずだ。
「冷たいなぁ・・・そう思うなら早く記憶を戻してここから出てよね」
「戻りそうにないからそう言ってんの」
「そっか・・・」
どこか残念そうにそう呟く可憐が微笑む。贔屓目に見ても美人だと思う。
「さて、今日はどうするの?」
「こっちが聞きたいね」
赤い瞳をくりっとさせた可憐のそれにも違和感だ。記憶の中の可憐は俺と同じ黒い瞳だったはず。なのに目の前にいる可憐の瞳は赤い。そう、空の色と同じ色。職員さんの瞳も赤い。俺だけが黒いのが気になったが、もうどうでもよかった。記憶とともに色彩感覚にも異常で出ているのだろう、そう思ったから。
「屋上にでも行こうか?」
可憐が微笑む。だから俺も頷いた。中庭はどうも苦手だ。2、3度しか行かなかったが圧迫感が凄い。何故だかわからないが狭苦しいイメージが胸を締め付けていた。だから、部屋からそこを眺めはしても足は運ばない。
「じゃぁ、行こう」
そう言うと可憐が手を引いてくれる。恥ずかしさはもうなかった。部屋を出ても可憐は手を離さない。ドアに鍵を閉めるのも彼女の仕事だ。廊下にたたずむ職員に会釈してそちらに向かうと屋上へ行くと告げるのも毎度のことだ。
「まるでテロリスト扱いだ」
苦笑気味にそう言う俺の言葉に可憐は戸惑ったような表情を一瞬みせた。そう、それは一瞬でいつもの笑顔に戻る。そうして2階分の階段を上がれば3重のフェンスに囲まれた屋上へとたどり着いた。ここから見える四方の風景にも飽きている。けれど他に行くところもない。赤い空、白い雲、そして緑豊かな大地以外に何もないのだから仕方がない。部屋にいてもすることなどない。本も読めないしテレビもない、ゲームも。
「退院はまだ無理なんだって」
不意に可憐がそう口にした。だから俺は頷く。頷くことしかできない。
「夏には退院出来て、海に行きたいね?」
そう言って微笑む可憐は美人だ。大学でもかなりモテているだろう。けれどそういう話ははぐらかされる。彼氏がこの様なのだ、そこに付け入る奴も多いだろう。だからはぐらかしていると思う。
「学校、行かなくていいのか?」
この質問も何度目だろう。だから、彼女はいつもと同じ答えを口にする。
「大丈夫だよ、心配しないで」
「でもさ」
「大丈夫」
優しい笑みに何も言えなくなる。だから俺は空を見た。薄赤い空は何故か綺麗に思えない。不気味で、間違っている感じがするだけだ。
「空って、赤い?」
「ん?」
この疑問を口にしたのは初めてだ。だからか、可憐の表情が曇った。
「空が赤いってのは、何か変だ」
俺はあえて微笑んだ。自分だけがおかしいと思われたくないから、そして、そうしなければいけない気がして。だから可憐も空を見上げる。
「いつもと同じ色だから、何も思わないけどなぁ」
「だな」
「でも、朝と昼、夕方で赤味も違うし、変と言えば変かもね」
そういう意味じゃないという言葉を飲み込んで微笑み返した。俺の中にある違和感がこの空の色を否定している気がして、でもそれを口に出すのが怖くて。
「海の赤味と同じ。浅いところ、深いところで違うもん」
「だな」
海が赤いと初めて知った。いや、忘れていただけなのかもしれない。なのに違和感が絶えない。何故だろう、それは間違っていると叫びたかったが、だからといって赤い色以外のそれらが想像できない。見慣れたせいか、それとも俺が記憶を失くしておかしくなったせいか。
「可憐には迷惑かけっぱなしだ」
「そうだぞ!だから早く退院して、私に恩返しすること!」
「了解です、姫」
本当にそうだと思う。この恩は一生かけて償わなければならないと思った。貴重な可憐の青春時代を無駄にしてしまっているのだから。恋人は記憶喪失で隔離中、そんな彼氏を見舞うだけの日々。償うに値する、そう思った。だから退院出来て社会に適応出来た時にはちゃんとプロポーズをしようと思い、そこで違和感。以前にもそう思い、挫折した気がする。本能的にそう思っただけで記憶が戻ったわけでも頭痛がしたわけでもない。挫折の理由も思い出せないのだから。
「せめて名前ぐらいは思い出したいよ」
「如月大和、それがあなたの名前」
「何度聞いてもピンとこないけどね」
「小さい頃は戦艦大和だぞ!それも宇宙戦艦だ!ってよく言ってた」
「恥ずかしいから思い出したくないなぁ」
その言葉に可憐は声を出して笑った。本当は思い出してほしいだろうにと思う俺も微笑む。可憐が笑いながらバッグから出した大学の学生証を見てもピンとこなかった。字が読めないのもあるが、そこにある自分の写真がどうにも馴染めない。自分は短髪だが、写真の自分は耳が隠れるほどの長さの髪だ。2年前の俺はこうだった気もするが、基本的に耳に髪がかかるのはどうも好かない。だから違和感しかないのだろうか。何よりその瞳の赤さが気になる。
「城西大学2年、如月大和。7月8日生まれのA型」
聞かされたその情報も他人のことのように思う。やはりどれもピンとこない。
「私と付き合ったのは高校2年の夏。花火を見た後で告白された」
「何度聞いてもベタだなぁ・・・俺っぽくないわ」
苦笑しか出ない。記憶のない俺が言うのもなんだが、俺らしくないと思う。
「でも嬉しかった」
そう微笑む可憐に違和感はない。なのに、漠然とした不信感が心の奥底でくすぶっている。可憐に対してか、自分に対してかわからない不信感は日ごとに大きくなっていくるのを感じていた。