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一駅分の幸福  作者: ぽた
2/2

私の場合

「共感覚?」


 ある病院の先生が口にした言葉を、私はそのまま聞き返した。

 それと見て、まず間違いはないだろう。

 先生は、そう付け足して頷いた。


 事の発端は、学園祭での演奏だった。




 大学に入って早三ヶ月。

 秋にある学園祭のイベントの一つとして行われる、各学年から代表で一人選出してコンサートを行う"天上(てんじょう)の舞踏会"で、特待生で入った私が選ばれた。


 中学の頃、黒髪眼鏡という地味な見た目だけで虐めにあい、そのせいで性格が少し曲がっていた私は、一年生だし、初めは見せしめ、あるいはなんとなくで選ばれたのでは、なんて疑った。

 しかし、後から先生に話を聞くと、代表は教師間の会議を経て選ばれるらしかった。

 夏休みまでの間で一人一人を吟味し、選ばれると。

 そんなことを聞いてしまっては、少し考えて、私は結局舞台に立つことを決めた。


 選曲は個人の自由。

 最大四曲で、バラバラでも、組曲でも良い。

 夏休みの間で仕上げ、それを舞踏会で披露するのだ。


 周りの同級生とあまり繋がりのなかった私からしたら、それは割と地獄だった。

 私の事を知らない大半の人間に向けて、いきなり演奏を聴かせるなんて、それほど怖いことはない。


 なんて愚痴を垂れながらも、決定してしまったからには、やり遂げる義務がある。


 あれやこれやと迷った末、私はドビュッシーの"版画"三曲に決めた。

 内二曲は高校生の頃に弾いたことがあったから、夏はそれらを復習しつつ、最後の一曲を仕上げるだけ。


 不安は募るばかりだけれど、今はやれることを百パーセントやるだけだ。




 そうして迎えた、舞踏会当日。

 せっかく無理して着込んだ華やかなドレス姿の私を、唯一仲の良かった友人は「似合わないね」と笑った。

 私自身でも思っていたことだから怒りはしないけれど、流石に、ちょっと凹んだ。


「酷いなぁ。地味で眼鏡な私でも、一応女の子なんだよ?」


「女の子にも種類はあるってね」


「それ、ますます悪く聞こえない?」


「ふふふ。まぁ気にしない気にしない」


 友人は笑って誤魔化した。


「あと三十分くらいだよね」


「うん。今更だけど、すごく緊張してきた……胃薬持ってない?」


「人の字なら幾らでも。大丈夫、あんたならちゃんと弾けるって」


「その一言がプレッシャーなんだけどなぁ…まぁ、言ってても仕方ないか。席戻ってて、譜面見直しとくから」


「その意気その意気。頑張ってね、後で外の屋台奢ってあげるから」


「ありがと」


 礼を言って手を振ると、友人は舞台袖を去っていった。


「さて」


 宣言通り、ちゃんと最後まで仕上げておかないと。

 せめて友人にだけは、背筋を伸ばせる演奏を。




 そんなことがありながらの登壇。

 思い返せば、ガチガチに固まっていた私を、ユーモアで解してくれたのかも――なんて、都合の良い解釈かな?


 まぁいいか。

 人は皆、相手の真理なんて分かりはしないのだから。

 都合の良いように解釈して、飲み込んで、自分の力にするくらい、今は許してほしい。

 そうでないと、重圧に負けてしまいそうだ。


「一年代表――」


 アナウンスと同時に、舞台の幕が上がる。

 代表、なんて肩書き付きで名前を呼ばれると、また緊張感が襲ってきた。


 しかし、不意に視界奥に写った、最後尾でこちらを見つめる友人と目が合うと、自然に少し、それも緩んだ。


(大丈夫。出来る。弾ける)


 暗示をかけるように言い聞かせる。


「選曲は、ドビュッシー作曲"版画"です」


 曲名が読み上げられると、私は客席に向かって一礼。

 椅子に座り、目を閉じて深呼吸をする。


 少し呼吸も整うと、ようやくと鍵盤に指を置いて、


(よし…!)


 一曲目”塔”弾き始めた。


 掴みは完璧。音も、よく伸びている。

 いける。

 我ながら不思議な自信の元、私は次々と音を紡いでいく。


 そうしてしばらく、私は自分の演奏に溺れた。

 あらゆる感覚のフレーズにさしかかっても、笑顔で、楽しく弾けていた。


 二曲目”グラナダの夕暮れ”も、同じく絶好調。

 失敗なんて、考えられない程だった。


 最終三曲目”雨の庭”は、速いトリルに対するアプローチがとにかくも難しい、上級の曲だ。

 しかし、ひと月以上丸々費やした時間は無駄にはなっておらず、一度覚えた前曲二つより、集中してミスもなく、最後の音を響かせることが出来た。

 

 最高の気分だった。

 初めて登壇したこんな晴れやかな舞台で、自分の大好きな曲を、こんなにも気持ち良く弾き終えることが出来るとは、思いもしなかったから。

 ただ、とりあえずのミスなく、最後まで辿り着ければ良い――くらいに思っていたのに。


 どうしよう。

 涙が出そうだ。

 私をここに立たせてくれた教師陣に、感謝を。


 普通演奏者は、舞台上から声を出して礼は言わない。

 でも、だからこそ、それをしてしまうくらいに嬉しい出来事なのだと、先生たちには伝えたい。


 席から眺める大勢の人からの喝采を受け、私は立ち上がった。

 これまでにない程、清々しい気分で舞台上を歩き、少し前に出て頭を下げた。

 そして顔を上げ、私を説得してくれた先生を見つけて、


「ありがとうござい――」


 ました。

 そうは続かなかった。


 私の視界を埋め尽くしていたのは、その周りにいる数名の先生だけでなく、その隣、また少し離れた傍の人――多くの人を取り囲む、紫色の(もや)だった。


(なに、あれ……)


 そう、心の中で問いかけ、何か答えを出そうを思考を巡らせている内、私はいつの間にか気を失っていた。




 私の意識を戻したのは、暗がりの中できらりと光る、友人の声だった。

 起きて、起きてと、何度も繰り返されていた。


 深く深く、海の底にいるくらい沈んだ意識は、次第にその声へと吸い寄せられるように浮き上がっていった。


「起きた…!」


 友人が叫ぶと同時、誰かが扉を開けて出ていったのが分かった。


 薄っすらと目を開けると、至近距離に友人の顔。

 泣き腫らした目元が、私のことを見つめていた。


「私、何が……白い天井……保健室?」


「五時間、分かる? あんたが眠ってた時間だよ…もう、ほんとに心配したんだから…!」


「五時間……そうだ、コンサート――」


 どうなったのか、何があったのか、尋ねようとした時だ。

 部屋のドアが開かれ、そこから養護教諭の先生が顔を出した。


「弾き終えはしたみたいだから、今は考えないで眠ってなさい。頭痛や吐き気は?」


「ありません……えっと、私は何を?」


「三曲目を終えて一礼した瞬間、倒れてそのまま担架。もう夕方よ」


「一礼――そ、そうだ…」


 一礼をして顔を上げた瞬間、何かが見えたのだ。

 何か――そう、靄だ。

 点々と皆を取り囲む、紫色の靄。

 それが見えた瞬間、気持ちが、居心地が悪くなって、それで意識を失ったんだ。


「靄――親、家にいる?」


「え…? はい、多分…」


「なら、今すぐ迎えに来てもらいなさい。知り合いの医者を紹介してあげるから、そのままそこに行って」

 

 強めの言い分に、私は大人しく「はい」と応えて母親に連絡をした。

 

 私が起きるまでの五時間を、ずっと私の傍で過ごした友人には、しっかりと謝って学校を出る。

 去り際、またふと見えた友人の色は、灰色。




「共感覚――文字や言葉に色を見たり、形に味を感じたりする、超常的な知覚現象のことを言います」


「色…」


「ええ。貴女が見たそれは、人の感情。拍手の裏に隠された、本当の気持ちと言えましょう」


「本当の――あの、その色って、何が何だか分かりますか?」


「種類ですか。教えない訳にはいきませんが……きっと、少なからず、それは貴女を傷つけます。それでも?」


「はい。教えてください」


 少し強く出ると、先生は引き出しを漁り始めた。

 そうして取り出したのは、一枚、二枚と、多くの色が分けて載せてある、表のようなものだ。


 安心、不安、喜び、悲しみ、怒り――

 様々な感情に関する、単語と色が隣接している。


 先生からそれを受け取ると、私は迷わず紫色を探した。

 あれだけ多く見えた色、あの場にいた、沢山の人々が感じていた色。

 時分なりの最高の演奏を聴いた人たちの、素直な感情。


「紫色、紫色――」


 あった。


 紫色――不満。


(え――?)


 これは一体、どういうことなのだろう。

 私は咄嗟に目を擦って、もう一度紙面に目を落とした。


 紫色――不満。


(不満……不満? 不満って――え…?)


 整理が追い付かない。


 多くの人が、その色をしていた。

 その一部は先生にも視えていた。


 そりゃあ、やっかみや恨み節の一つも、生徒ならばあろう。

 学年や年齢など関係なく、音楽を奏でる個人を見た時、人はそれに善し悪しどちらかの評価をつけるものだ。

 しかし――そうだとするならば。

 一割程度の人には、それが見て取らなかった。いや、そも色というものが浮かんでいない人もいた。


 無色とは――


「無色とは、対象に――貴女に、興味がないことのあらわれです」


 その一言を機に私は、また意識を手放した。

 正確には、気が付けば、自分のベッドにずぶ濡れで寝ていた、という感じだ。


 どうやってか病院を後にし、どうやってか夕食を食べるか遠慮するかして、どうやってか着替え、どうやってか風呂をすませ――どうやってか、自室にいる。


『この表、コピーするって言ったら、受け取りますか?』


 そういえば、先生がそんなことを言っていた気がする。


 力なく転がって、私はベッドのすぐ傍らにあったバッグから、件の紙を取り出した。

 仰向けになりながら、それを持ちあげてみる。


「赤、緊張や怒り……緑、リラックス……黄色、幸運……青、冷静…………」


 どれを眺めても、全く実感の湧かない、気味の悪い限りの文字の羅列。

 一つ、また一つと、色と感情を行ったり来たり。


「あっ――」


 不意に見つけたのは、灰色。

 学校での去り際、友人に見た色だ。


「灰色は……」


 灰色――不安。

 

「不安……」


 数秒後、その二文字が認識できるようになると、目元に溢れた涙が、頬を伝って枕を濡らした。

 これが正直な気持ちだと言うのなら、あの子は、言葉や態度ばかりでなく、本当に私を心配してくれていたということになる。


 ありがとう。

 ごめんね。


 そんな言葉が浮かんだ。

 しかし、どうしたことだろう。嗚咽すら感じる間もなく、それらはすぐに消えてしまった。


 中学の頃の経験。

 そして、何より強い衝撃であった此度の件。

 それらが重なって、膨れて、ただただ強いだけの暴力となって、私の頭の中を埋め尽くしていたからだ。


 もう、何も信じられない。

 もう、誰も信用できない。


 そればかりが、頭の中をぐるぐる、ぐるぐる。ぐるぐる回って、溶け込んで、それ以外何も考えられなくなっていった。




 数日後。

 私のピアノをみてくれている先生に呼び出されて、私は会議室へと足を運んでいた。


 まず聞かれたのは、昨日のことについて。

 養護教諭の先生はここにいなからと、私は「ただの貧血です」と答えた。

 すると、先生は何も疑うことなく「そうですか」と返し、本題だ、と話を切り替えた。


 やっぱり、私自身を心配なんてしていないんだ。


「本題なんですけど――この学校に、海外留学の制度があるのはご存知ですね?」


 私は頷いた。


「来年、二回生の夏季休暇中に実施されます。舞踏会に出た者を筆頭に数名、少数での留学です」


 そこまで聞けば、内容は理解出来た。

 つまり、私がその筆頭というわけだ。


「海外では、学ぶことも多いはずです。貴女が更なるステップアップをする為の、いい刺激となるでしょう」


 刺激、か。

 そんなことを言われても。


 筆頭、などという肩書の元で赴けば、自然いつかは人前で弾かされることになるんだ。

 前みたいに、勝手な弾き方をとか、自由過ぎるとか、そんな“不満”を向けられるだけの、ただのお遊び。

 都合のいい、体のいい見世物にされるくらいなら――


「……少し、考えさせください」


 それでも、私は気の弱い人間だ。

 強く出ることも、はっきりと断ることも出来ず、騙し騙し、薄く浅く、決断の余地を貰った。


 今回の話は、あくまでただの誘いらしく、期間という期間は、実際には来年の夏季休暇前だった。






 少し、不登校気味になってきた。

 私の現状を知る母は、特に怒ることもなく、あまり無理はするなと“青色”の言葉をかける。


 青色――冷静。

 今までずっと皆勤を続けて来た私のあまりの変わりように、驚くでも取り乱すでもなく、青色の言葉を投げかけて来る。

 機械的――もはや、ただのルーチンワークだ。

 そう言っておけば、いずれ私がまた皆勤に走るとでも思っているのだろうか。


 大間違いだ。




 冬が来た。

 舞踏会にも出て、海外留学の話も来ている私が不登校児とあって、周りは、知らない人までも奇異の目を向けて来る。


 私の所為じゃないのに。

 いや、そうなった私の所為か。

 でも、皆がそういう目で私を見るから。

 やっぱり、私がそう思っているから。


 ぐちゃぐちゃ。

 頭の中は、もう何が起こっているのか。


「お疲れ。ねえ、帰りどっか寄ってかない?」


 変わらず声をかけてくるのは友人だ。

 数日空けてを繰り返す私に、いつもこうして話しかけてくれる。


 そう。赤と黄色の混ざった“緊張”を孕んで。


 あなたは優しい人だ。それは分かってる。

 きっと、裏心なく私に話しかけてくれてるのだろう。


 でも、声を掛けんとする度に緊張するのなら、その度に周りの目が刺さって傷つくなら、もういっそ何も話してくれない方がまだ良い。


 私ではなく、あなたが。


「――ごめん、今日は病院に」


 嘘だ。


「そっか……ごめんね、気をつけてね」


 気付いてもいるのだろう。

 聞き返さないのだって、きっとあなたの優しさだ。


 控えめに手を振って別れると、また周囲の目が鋭く刺さった。

 私には軽蔑の目。

 あなたには、哀れみの目。


 苦しくないと言えば嘘になるけれど、友人に向けられるよりかは幾分良かった。


 学校を出てすぐのバス停に辿り着くと同時に、バスが丁度入ってきた。

 一拍遅れて、古臭く軋むような音を鳴らしながらドアが開くと、重い足取りで車内へと乗り込む。

 前の席は不安定に揺れて怖いから、いつも通り後方の、二人掛けの席は窓際へ。


 ほとんど人が居ないことを確認して、私は隣の席に荷物を降ろした。

 多くなって来れば、持ち上げればいい。


 バスが動き出して少しすると、大きな溜息が漏れた。

 心の底から、身体の内側から溢れて零れた、大きな“不満”だ。


 結局、私も唯の人間。一般人なのだ。

 皆が思うようなことを、同じように思ってしまっている。

 それでも周りのことが気になって溜息が漏れるのは、やっぱり私の性格がちょっと曲がっているからだ。


(ごめん…)


 そう心の中で友人に伝えてみたけれど、もう手遅れだった。

 そしてまた、溜息が零れる。


 するとふと、前の席から一風変わった空気を感じて、顔を上げた。

 学校指定と思しき、エンブレムの入ったカバンを脇に置いた、コートとマフラーに身を包んだ男の子。

 両耳にイヤホンを着けて、何やら音楽を聴いているらしいのだが――


(気持ち悪い――気持ち悪いくらいの、赤黒さだ)


 血が昇る赤と、前が見えなくなるという意味の黒を合わせた、“興奮”の色だ。


(何でこんなに……)


 第一印象としては、変わったやつ、程度のものだった。




 少し暖かい春になる頃、気が付けば私は、彼を目で追うようになっていた。

 数日刻みの不良然とした登校習慣も治り、毎日通うように。


 親も先生も喜んでいたが、それはひとえに、帰りのバスで彼を眺めたいが故だった。


 と言うのも、いつもいつも同じ席に座ってイヤホンを着けているのだけれど、いつ会っても変わらない、ともすれば強くなっているのではないかと思える程の“興奮”の色を纏っていることが、不思議で仕方がなかったのだ。

 観察していれば、何か分かるかもしれない。そんなことを思っている訳でもなかったが、いつの間にか、それが一つの習慣のようになってしまっていた。


 が、今日は少し違った。

 運転手が変わったのか、信号機で足止めを食ったバスは、とても静かになった。

 ブレーキとか何かの切り替えとか、よくは分からないけれども、それはとても好都合なことだった。


 彼が着けているイヤホンは、それほど高性能ではないらしく、微かな音漏れが私の耳に届いたのだ。


(これ……)


 ふと耳を打った音に、私は高揚した。


 漏れていたのは、ドビュッシー作曲、版画より“雨の庭”の主旋律だったのだ。


(クラシック――好きなのかな)


 どうかは、分からない。

 尋ねてみればおのずと答えは得られようが――


 いつも色が変わらないのは、どうしてなのだろう。




 習慣を続けていると、分かったことが二つあった。


 一つ。

 彼はいつも、クラシックを聴いているということ。

 それも、ピアノの独奏か連弾か、いずれにしても楽器はピアノだけで演奏される曲ばかり。

 作曲者もバラバラに、色んな曲をかけている。


 二つ。

 彼は、自身が知らない曲ばかり聴いているということ。

 イヤホンから流れて来る曲に耳を傾けながらリズムを取るように少し揺れるのだけれど、それがいつも合っていない。

 変テンポの曲はごまんとあるけれど、そうではなく、外れては修正し、外れては修正しを繰り返すように、バラバラな動きを見せるのだ。


 いつも変わらず同じ色をしているのは、毎度新しい曲を聴いていることで、その新鮮さを楽しんで“興奮”しているから。

 新しいもの、知らないものを吸収して、いつも違う音色に触れているからだ。


(良いなぁ…)


 一つ後ろの席に座って眺めながら、私はいつしか、彼に対してそんなことを思うようになっていた。




 季節はまた一つ巡り、夏になった。

 惰性惰性で続けている学校は、ギリギリ単位を落とさない程度に進んでいる。


 しかし、その頃から、いや少しだけ前から、彼の色が少しずつ変化し始めていた。

 純粋な興奮の色から、薄い薄い桃色――“幸福”の色へと。


 そこでも一つ、分かったこと。

 彼が最近聴いている曲は、今まで聴いたものの中から、ランダムに再生されているということだ。


 それでも、飽きや退屈の色にならないのは――


 彼のことを、もっと知りたくなった。






 数週間が経った、大雨降りしきる梅雨のある日、私はまた、先生に呼び出されていた。

 習慣のことですっかり忘れていたけれど、今日は、明日を留学決定に控えた日だったのだ。


 正直なところ、まだ結論は出ていない。

 以前より少しは真面になったつもりだけれど、まだ何か、少し私の中で足りないものがある。


 そんなことを考えて言葉を詰まらせている私に、先生は、


「最近の成績は、はっきり言ってあれですが――まだ、貴女には力が残っているのだと、私は信じているのですよ?」


「……えっと」


「決断を下すのは、あくまで貴女自身。それに対して、私は反対も憤慨もしない。けれど、もし――もし、少しでも、まだピアノを弾いていたいと思うのであれば、此度の誘いを、どうか蹴らないで頂きたい」


 真剣な眼差し。

 はっきりと見える、黄色と薄い茶色の混じったもの。それは、“期待”の色だった。


 私がはっきりとしない間にも、先生は私のことを見捨てないでくれていた。

 惰性を引っ張っているだけの私を、まだ可能性があるのだと信じてくれている。


「明日――明日、必ず決断します。今日、本気で一度考えてみます。それでもし、私が勇気を持てなかったら……」


「ええ。私は、貴女の意見を尊重します」


「……ありがとう、ございます」


 深く深く。

 これ以上ないくらいに深く頭を下げて、私は部屋を後にした。


 すると、まるで「待ってたよ」とでも言わんばかりに、友人が声を掛けて来た。

 いつものように、“緊張”の色を纏いながら。


「今日、帰り一緒しない? 駅前に、新しいクレープ屋が出来たってクラスの子が――」


「ごめん…!」


 はっきりと断ると、友人は瞬間、少し寂し気な表情を浮かべた。

 今までなら、それを見送って終わっていたところだ。


 しかし、今日だけは。


「ちょっと、やらなきゃいけないことが出来ちゃった。だから、ごめん」


 ちゃんと言葉にすると、友人の色が変わった。

 複雑でぐちゃぐちゃとした“緊張”の色から、薄く淡い水色は“安心”の色に。


「――分かった。頑張ってね」


「うん。また、明日」


 舞踏会以来、一度も言っていなかった言葉。

 久しぶりに使うと心地良くて、彼女もまた、困ったように微笑んで「また明日ね」と返してくれた。


 大きく手を振って別れると、私は急いで下駄箱を目指す。

 先生との話が長引いて、これではいつものバスに間に合わない。


 そんな、焦る気持ちを覚えながらも、しかし心はとても澄んで晴れやかだ。

 きっとそれは、周りじゃくて、他でもない私自身の気持ちが変わったから。


 周りは一度も、変わってはいなかったのだから。






 今の私に足りないもの。

 それは、自分の演奏を「これが私の音だ」と言える勇気だ。


 あの一件で初めて、たまたま色が視えるようになってしまったから、私は怯えて閉じこもった。

 しかし、考えてみれば、本当ならそれ以前から、認める色も、認めない色も、どちらも混在していた筈なのだ。

 視えなくとも確かに存在するそれらに対し、自分を出して、出して、出し尽くして、初めてそれらに認めて貰えるのだ。


 今までずっと、そうしてきたじゃないか。

 ただ好きで、人前に出るのが恥ずかしくて苦手なのに発表会やコンクールに出場して、ただ自分勝手に、がむしゃらに頑張って来た結果が、天上への特待入学だったじゃないか。


 どうして忘れていたのだろう。

 いつから見失っていたのだろう。


 クラシックに対して抱く、純粋な楽しさ。

 忘れていたそれを思い出させてくれたのは、彼だ。

 初めて出会う音に興奮して、興奮したそれらに幸せを覚えていた、音楽を無邪気に楽しむことを知っている彼だ。


(あの子に会えば、きっと――)


 保障はない。

 けれど、その僅かに足りない距離を埋めてくれる可能性が、少しでもあるのなら。

 当たって、もし砕けたとしても、そこに悔いはないはずだ。




 軽くなった足は、まるで羽でも生えたかのように、迷わず私をバス停へと運んだ。

 強く打ち付けるような雨なんて、これっぽちも気にならなかった。

 そして、私が辿り着くと同時に、いつものバスが入って来た。


 一拍遅れて響くのは、わくわくの足音。

 開き切ったこのドアの先に、あの幸せな色が待っている。


 早く、早くと、せがむような早歩きで車内へ入ると、私は迷わず右側――後方に目をやった。

 いつもの席に、彼は座っている。


 それを眺めたくて、少しでもその幸せに触れたくて、私は彼の横を通って一つ後ろの席に座っていたんだ。


 でも、それは昨日まで。

 今日だけは――


 恐る恐る、一歩、また一歩と進んでいく。


 今日も変わらず“桃色”の彼なら、その答えをくれそうな気がする。

 不安はやっぱり拭えないけれど、それでも、明日の一歩を踏み出す力にはなるだろうから。

 勇気を得る為のほんの少しの勇気を、たまには自分から出してみよう。


 彼を観察するのは、これで最後だ。


 一つ、大きく深呼吸をして彼の隣に腰を降ろすと、私はそっと、その楽しげな肩を指先で叩いた。




「ねぇ。それ、何を聴いてるの?」


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