幸福で塗りつぶす
こちらは「幸せな恋は宝箱と共に」の続編となっております。よろしければそちらからお読みください http://ncode.syosetu.com/n1876dw/
キリが付いたところで壁に掛けられた時計を見るとあと30分もせずこのアトリエの扉が開かれることに気づく。慌ただしく筆を洗い、パレットにラップをかぶせておく。新聞紙やら布やらが敷き詰められた床に人一人分が倒れられるだけのスペースを作っているところで、玄関の鍵が開く音がした。つけていた紺のエプロンを外す間もなく、床に倒れ込む。それからしばらくすれば、軽い足音がして恐る恐るといった風に扉が開けられる音がする。
「エノ、」
ああ彼女が来たようだ。床に倒れ目を瞑り、いつものように狸寝入りを決め込む。そろり、と近づいた彼女が顔を寄せ、薄い掌でぺシぺシと肩を叩いた。くすぐったいそれに思わず口角が上がりそうになるが、寝ている人間として笑うわけにもいかず、緩みそうになる口元に力を入れた。
「エノ、起きて。せめて着替え、いやベッドで寝て。」
本当は起きていることにまるで気づかない彼女は半ばしがみ付く様にして俺をアトリエから寝室へと運び出そうとする。これもまた決まりきったいつものことで、彼女に負担が掛かりすぎないようにそれとなく軽くする。けれど彼女はそのことにも気づいていないだろう。長い髪が首筋を掠めたがそれも一瞬のことで、限界だとでもいうようにベッドの上へと投げ出される。
今になってアトリエを換気するするのを忘れていたことに気づく。が、すでに遅い。もっともこの家の中に匂いをそう気にする者もいないのだが。
ぎしり、とスプリングが軽く鳴く。どうやら彼女がベッドに腰掛けたらしい。いつも通りじゃないそれに一瞬身を固くする。
「なに、してんだろう、私は。」
聞かせるつもりなどなかっただろう彼女の言葉。しかしそれは図らずとも俺にも言える言葉で胸に突き刺さった。
いい年して、俺は一体何をやってるんだ。
10近く年の離れた娘に構ってもらいたくて、毎度毎度寝たふりをしているなど。
改めて現状を言葉にしてみると悲惨だ。あまりの情けなさに涙もでない。もう40も手前だというのにこの体たらく。
朝倉小春。それが俺の側にいる娘の名前だった。
絵画の関係者でなければ絵筆さえ持ったこともない、いたって普通の女。昔からそうだった。昔、出会った時から色んな事が変わった。大学生だった彼女はもう社会人となり、国内で辛うじて名前の知れ始めた売れない画家だった俺は世間から評価されるようになった。活動する場所も、生活域も違うはずなのに、傍にいることだけが変わらない。つかず離れず、でもいつも傍にいる。それから変わらないことは、彼女の眼だ。
「あなたの絵がすごく、好きです。」
もう彼女はそんな風には言わない。ただその言葉を口にしたときのあの目だけは変わらなかった。こちらが申し訳なくなるほどの憧憬。眩しそうで、愛おしげな眼で俺の絵を見ていることを、果たして彼女は気が付いているだろうか。もし指摘すれば、意地っ張りな彼女のことだ、すぐに目を伏せてしまうに違いない。
正直に言って、俺はハルを持て余していた。いやそう言っては語弊があるかもしれない。ただ、これから彼女をどうしていくか、どうしていくことが最良なのか、まるで検討もつかなかった。
最初、10年ほど前に出会った時は、本当にただのファンだった。純粋に俺の描く絵が好きだと、世間の評価や絵画における技術もわからない、それでもただ好きだと。見ていたいと、ハルは言った。それが三流画家の俺にとって何より嬉しい褒め言葉であったことを、ハルは知らない。色眼鏡も選定も評価も何もない、彼女の率直で直感的な感想は支えになった。
偶然の出会いだったが、緩やかに親交は続いた。時々連絡して、個展があるときはチケットやパンフをやると心から喜んでくれた。その時描いている絵の話をすれば聞き入ってくれる。遠慮がちに「絵が見たい」と言った彼女を家に招待すれば俺のことなどそっちのけで食い入るように絵を見ていって、気恥ずかしさを苦笑いで隠した。戯れに落書き程度の絵を渡せば顔を真っ赤にして大切そうにそれを受け取った。
『榎木津さん、』
『エノさん、』
『エノ、』
自覚した時には何もかもが遅かった。
生活に入り込み、居住空間に入り込み、意識の一画を占拠するようになっていた。もはや切り離すことなんてできないくらいに。この絵を見たらハルはなんて言うだろうか。この景色をハルが見たらどう思うだろうか。これをあげたらハルはどんな風に笑うだろうか。
全く腑抜けの阿呆のようだ。馬鹿馬鹿しいほど青臭く、餓鬼臭い。そういったものに興味はなかったが、こんなにも脳内を侵されていて、その正体がわからないほどの朴念仁ではなかった。
10も年下の娘に対する、口にすることも憚られるような甘やかな思い。
不埒な自分に思わず自害したくなる。
ハルは俺の側にいてくれる。好意を向けてくれる。だがそれを勘違いしてはいけない。ハルが好きなのは俺じゃない。俺の描く絵だ。彼女にとって榎木津達磨という画家は絵の付属品に過ぎない。
勘違いしてはいけない。間違えてはいけない。この思いを表に出しては、いけない。釣り合うはずもないのだから。しがない絵描きが、彼女に与えられるものなんてたかが知れている。少なくとも、彼女がこれから歩むだろう未来と天秤にかければそれはきっと羽のように軽い。
好きだ。けれどままならない。欲しい。けれど手を伸ばしてはいけないと理性が言う。
俺は、ハルを幸せにできる気がしない。俺にできることと言えば絵を描くことくらいで。しかもいつでも彼女を最優先にできるかと言えば、沈黙せざるをえない。集中していれば他の何も目に入らない。事実、絵を描いている最中、アトリエに入ってきていたらしいハルにまるで気づかず数時間放置してしまったこともあった。その間、彼女は声も掛けることなくただ俺や絵を見ていたようだが、面白いものでもないだろう。そんな男が求愛するなど、笑わせる。
だが、諦めることも突き放すこともできなかった。
飼い始めたペットが懐く様に少しずつ距離が短くなって、気安く触れるようになって、混じり気なく笑う彼女を、どうして遠ざけることができる。
せめてもの抵抗に、幼子の扱いをするかのように「嬢ちゃん」などと呼んでみるが、そんな呼び方だって限界がある。むしろ劣情を抱きながらそう呼ぶことへの引け目の方が強く出る。そのうえ子ども扱いが裏目に出たのか、唐突に抱き付かれることさえある。
いつかには、家の中を露出度の高い格好で歩き回り、あるときは風呂上りに薄着で抱き付いてきたときもあった。もちろん、もう彼女は子供と呼べるような年齢ではなく、ことごとく心臓が口から飛び出るのではないかという危機にさらされた。危機管理能力があまりにもない、と叱りつけたくもなるのだが、それほどまでに気を許されているという仄暗い優越感が自分の中で生まれるのだから、手に負えない。
ただ、男だと思われていないというのは痛いほどわかった。いっそ父親や何かと思われているのではないかとも笑いたくなるが、あながち笑えない気さえしてくる。
ハルは本当に何も知らないのだろう。気が付いていないのだろう。自分に多少良くしてくれる、仲の良い年上の画家、そんなところ。
薄着をしているときに上着を掛けてやったのは風邪をひくからなんて身体の心配をしたからじゃない。風呂上りに抱き付いたとき、引っぺがして世話を焼いてやったのは親切心からなんかじゃない。数年かけて、理性の隙間を縫って堆積していったドロリとした欲望を、隠すためだ。決してそれゆえに傷つけないためだ。
そしてこの生ぬるい、雲をつかむような曖昧な関係を、生活を無に帰してしまわぬための、みっともない抵抗だ。
もしも、と空想したことがないわけではない。
もしも俺が画家ではない一般業種であったなら、堂々とハルに手を伸ばせただろうか。
もしも俺が早々に自分の気持ちに正直であったなら、この曖昧な現状を確かなものにできただろうか。
しかしながらそのもしもはことごとく空想であり、夢想でしかない。画家でなければ彼女と出会うことはなかった。正直であれば今のように傍にいることすらかなわなかったかもしれない。
ただ自分の熱情のままに彼女に手を出していたなら、苦いもので胸を一杯にしたまま腹を割っただろうことは確かだ。
俺にはハルを繋ぎ止めておけるものを何一つとして持っていない。
堂々とついて来いと言えるほどの甲斐性もなければ、目を瞠るような容姿も、聖人のような人柄も持ち合わせていない。唯一誇れる人並み以上の絵は、何も傍にいなくとも見られる。物理的に繋ぎ止める、なんて考えもするがそんな勇気も度胸もない。閉じ込めて、自分だけが愛でていられるなら、それはどれほど素晴らしいことだろう。けれどそんなことをすれば悲しみが先立つことくらい知っている。何より、もしそうすればハルはきっと屈託なく笑うことはなくなるだろう。
今、ハルは閉じ込めずとも、鎖で繋がずとも、俺の家へと訪れる。数多あるなからから居場所として選んでくれる。それは確かな喜びであり優越感だった。
例えるなら、入り口が開け放たれたままの鳥かごだ。鳥はいつだって来られる。いつだって出ていける。そして鳥かごが鳥を追いかけることは、ない。その時は、ただ晴れやかな彼女の門出を手を伸ばすことなく見送ろう。
結局は、情けない男の言い訳でしかないのだが。
絵を見せれば感嘆する。頭を撫でてやれば気持ちよさそうに目を細める。手を撫でると小さな手で俺の手を握る。抱き付く背中に触れればよりしかとしがみ付く。座って足を伸ばせば戯れに細い足を絡める。
生殺し、と言ってしまえばそれだけだ。けれどそんな葛藤さえ遠くに感じるほど、その一つ一つが暖かく多幸感に満たされる。その時だけは、一切の欲を忘れられる。もっと、なんてまるで望まず、ただ満たされていた。だからこそ足踏みしてしまう。もし身の程知らずにも一歩踏み出してしまって、一時ばかりの幸福感を永遠に失うことになれば、深く長く後悔の海に沈むことは目に見えているから。
幸福はハルと共にある、なんて平安貴族もかくやという言葉を心の中で言えてしまうあたり、俺の頭も相当湧いているに違いない。だが事実だ。
彼女といるだけで俺は幸福感を得られる。なら俺もまた最低限、彼女にそれを還元すべきだ。ハルは知らないだろうが、俺の勝手なルールが一つあった。
この家にいる間、ハルを絶対に泣かさない。
当然と言えば当然なのだが、馬鹿な俺にできる最低限だった。仕事で辛いことがあったようなら、話を聞いたり、労ったり、馬鹿な話をして笑わせたり。何か不満げだったらすぐにこちらから訳を聞いて、非があれば謝る。なければきちんとお互いに話し合う。そんな気遣いから感動モノの映画は見ない、酸っぱいものが苦手ですぐ涙目になる彼女のために酸っぱいものは置かない、なんていうくだらないものに至るまで、”泣かさない”という一点に集中して彼女と過ごしてきた。
笑う彼女が好きだ。目を細めて眉を下げる。それから口角がニィと上がる。思い切り笑うのを少し我慢するような笑顔はすこし子供らしさがいまだに残っていて、掛け値なしに愛らしい。
涙を流す彼女もきっと美しいだろう。けれど笑っている彼女の方がはるかに幸福だ。
ハルを幸福にすることは、難しい。けれど笑顔にすることくらいなら愚鈍な俺にもできるから。
ただ、それすらも難しいと思い始めたのはここ数週間だ。何かが大きく変わったわけではない。だがハルがどこかぼんやりすることが増えた。笑顔がどこかぎこちなくなった。思い悩むように何かを言いかけては止めることがある。それについて言及しても躱されるばかり。
「ハル、」
「何?エノ、」
名前を呼べば笑顔で振り向くのはずっと前から同じなのに、ここ数週間は少し違う。ニィと上がるはずの口角があまり上がらない。言ってしまえば、どこか余所余所しいのだ。少しだけ、彼女の作り笑いに似ている。
焦りと、諦めと、落胆と、やり場のない自分への怒り。その笑顔を見ると遣る瀬無くなってしまう。憂いなく笑わせることすら、今の俺にはできない。何とかできなかったのか、きっかけに気づかなかったのか。もう彼女の居場所にすらなれないのか。そろそろハルは発つときなのか。そんな思いが浮かんでは消え、そして浮かび上がる。
狸寝入りをする俺の側へと、ハルがにじり寄った。
「エノ……、榎木津、起きて、」
その声は悲し気で、どこか真剣さを孕んでいた。久しぶりに呼ばれた本名はどことなく耳に違和感が残る。いつもの俺ならここで飛び起きただろう。すぐに起きて、悲しそうなハルの頭を撫でてやってあやすように名前を呼んで、どうか笑ってくれと拝むように優しい言葉で彼女を包んだだろう。
だが欲が出てしまった。それは繋ぎ止めたいという欲ではなく、諦めによるもの。冥途の土産を欲しがる者のものと似ていた。
力不足で不甲斐ない俺では、ハルの悲しみの理由がわからない。彼女が何を望むのかわからない。だから、このまま寝たふりをしていれば彼女は本音で話してくれるのではないのか、と。どうせこのまま終わるのであれば、どうかそれだけでも知っておきたかった。
「……達磨、」
沈黙の後に呟かれた名前。一瞬呼吸をすることを忘れた。今まで呼ばれたこともない、名前。言い慣れていないのかそれは少しばかりたどたどしく、どこか幼い。けれど一度、一度その名前で呼ばれただけで、俺の心拍数は急激に上昇した。どうか気づかれないよう、と願うがひたりと背中に掌が置かれる。その持ち主はもちろん一人しかいなくて。バクバクと打ち鳴らされる鼓動がもう彼女にばれてしまっている気がする。
「達磨は、私がいなくなったら、寂しい?」
唐突な呼び名に体温が上がっていたが、次の言葉で頭から冷や水をかぶせられた。
ああついに見限られてしまった。空虚な笑いさえ零れそうになる。
「たぶん達磨なら大丈夫だよね。なんだかんだ元気にやってくだろうし。」
大丈夫なわけがない。俺にとってお前がどれほど大きな部分を占めているか。ハルの眼に、声に、笑顔に支えられ続けてきたか。寂しい、なんて言葉ではすまされない。
「……ごめん、少しずつ荷物も持って帰るよ。」
持って帰る必要なんてない。ここはハルの居場所だ。たとえお前が出て行っても、いつでも帰って来られるように、気兼ねなく立ち寄れるようにしておきたい。時たまでいい、せめてハルが居心地よくいられるような場所に。
「そしたらきっとすぐに私のことなんか忘れるでしょ。」
忘れられるはずがない。いい年こいたおっさんの片思いの重さを見くびってもらっては困る。きっといつまでも引きずるだろう。他の誰かでも、美しい景色でも、美しい絵画でも、お前がいなくなったことで空いた空間を埋めることなんてできない。きっと、みっともなく情けないことに、居なくなってからも目が、耳が、鼻が、お前の名残を探すだろう。気が付けばお前のことばかり気にしているのだろう。何度も何度も、網膜の裏にその笑顔を映して、過去に縋り続けるのだろう。
むしろハルの方が俺のことなんて忘れるだろう。昔好きだった絵を描いていた人。そんな程度。アッという間に忘れて、自分の隣を歩くに相応しい男を見つけて、結婚して、子供を産んで、幸せな生活を送るのだろう。俺のことなんて、記憶の彼方へ埋もれていく。けれどもし、そのはるか先の未来で俺の絵を見たとき、馬鹿で愚鈍な画家がいたことを、心の片隅に一時止めておいてほしい。そしてその片隅から俺の存在が消えたとき、俺は本当の意味でお前のことを諦めることができるだろうから。そうしてようやく、俺の心もお前に手を伸ばそうとする仕草がなくなるだろうから。
「もう、ここへは来ないから。……ちゃんとご飯食べて、ベッドで寝て。集中することは良いことだし、あなたの描く絵も好きだけど、無理しないでたまには休んで。」
最終宣告のようだ。いや事実そうなのだろう。
なあ、その忠告の全部を無視したら、お前は心配してくれるか。仕方がない、なんてため息を吐いてまた傍に来てくれるか。なんて、全く女々しい。
休むことなんてできるはずない。休まず、描き続けよう。お前の生きる広い世界で、偶然お前の眼に俺の描いた絵が留まるように。たくさん描こう、誰もが唸るような絵を。お前の眼を輝かせられるような絵を。
忘れてくれ、なんていう奴がきっといい男という者なのだろうが、そんなこと口が裂けても言えるわけがない。だから黙るだけ。心の中では忘れないでくれと呟いている。そうか忘れないでくれ。愚かな画家がいたことを。かつて好きだった絵があったことを。そして思い出してくれ、俺が馬鹿みたいにぶちまける世界の欠片を拾い上げて。俺の描いた世界の欠片が、未来のお前に届くよう。
馬鹿で愚鈍で卑怯で臆病な俺は、絵を通してしか、お前に声を掛けられないだろうから。
「いままでありがとう、楽しかったよ、すごく。ずっと幸せだった。」
そう思ってくれているなら、救われる。だがきっと俺が幸せに感じていた10分の1もお前に返せていないことだけが、申し訳ない。
楽しかった、幸せだったなんて俺のセリフだ。仕事以外じゃほとんど外にも出ない、人とも話さないような俺に色んな機会をくれた。ただただ絵具に埋もれていくだけだっただろう俺の人生に、お前は寄り添ってくれた。それは俺の生涯におけるもっとも幸福なことで、これから先それを超える幸せに出会うことは決してないだろう。
一度たりとも愛してると言えなかった愛した人は、俺の手元からいなくなる。手を伸ばすこともできない臆病な男に、いくつかの言葉と、たくさんの幸福に満ちた記憶を残して自分の輝かしい未来へと歩き出す。
随分な寄り道をさせてしまった。大切な時間を浪費させてしまった。それでも申し訳なさよりも過ごした幸福な日々に欠片の後悔も抱かないのだから、救いもない。
夢は、もう終わりだ。
思えば身の程知らずな夢だった。身に余る幸福だった。阿呆な俺はそれを持て余しさえした。全く、馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、たぶん何度繰り返しても俺は同じ馬鹿をするだろう。
ハルの幸せを願うなら、もっと早く手放すべきだった。
ハルの幸せを思うなら、俺から言い出すべきだった。
それでも、手放したくないと、願わくば永遠をと、願ってしまった。その終わりが、これだ。
見限って、笑ってくれ。こんな男の側で時間を浪費してしまったと。これからその分を取り返そうと。ここを出て、光の当たる一般的で普通な幸せへと歩き出すのだと。
これから君の進む道は、綺麗なものであるに違いないから。
笑ってくれ。
「ありがとう、ごめんね、ありがとう。……大好きだったよ、エノ。」
その言葉だけで、俺はずっと生きていける。一人だけでも、他の誰にも見向きもされなくても。その言葉だけを抱えて俺は生きられる。俺が決して言えなかった言葉を、ハルはサラリと口にした。過去形のその言葉は当然で、自分でも驚くほど、胸の中にすとんと落ちた。
大好きだった、なんて聞いても苦しいだけかと思っていた。けれどそれは幸福だった。過ごした過去と共に抱えていよう。もう全部終わったこととして。幸福な日々の最後の言葉として、これ以上に美しく相応しい言葉があるだろうか。
だからどうか笑ってくれ。幸福な日々の最後の一ページに相応しい笑顔を。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。自分勝手にもほどがある。でもこれだけは守ってきた。
『この家にいる間、ハルを絶対に泣かさない。』
最後まで守らなくてはいけない。これだけは絶対に。
だからたとえこれで最後だとしても、泣かせるわけにはいかない。震える掌も、戦慄く声も、放ってはいけない。
「ハル、」
名前を呼んでも、笑ってはくれない。茫然としたようにハルは俺を見ていた。大きな目に溜まった涙に唇を噛む。
もしハルが笑顔でここを離れられるなら、俺も笑顔で見送ろう。もしハルが怒ってここを離れるなら、俺はただ謝罪してそれを見送ろう。
でももしもハルが、泣きながら手元を離れるなら見送ることなんてできやしない。別離に涙を流すなら、少しでも惜しんでくれるなら、手を伸ばさずにはいられない。別れに泣くくらいなら、どうか手元で笑っていてくれ。
「……悪ぃ、俺なんかしちまったか?何かあるなら、言ってくれ、ハル。謝るし、治すから、なあ、」
口から出るのはどこまでもみっともなく、情けない言葉。それでも格好つけていられる場合じゃない。
俺の全部をやるなんて言えない。彼女の願うもの全部叶えてやることはできない。だがこの一瞬、何をなげうってもいいと思えた。今だけは全部やる。何を対価にしても惜しくない。
だからどうか、泣かないでくれ。
そんな願いもむなしく、耐え切れないとでも言うように目の淵から涙が零れ落ちた。思えば初めて見る泣き顔だとハッとする。泣いていても綺麗だ、なんて思うのもやはり一瞬で。泣き顔よりも笑顔の方がはるかに可愛いことを俺は知ってる。
「っおい、泣くな、ハル!何かしたか!?ってか何かあったか!?なあ、ちょ、泣くなっ、ハル、待て、良い子だから泣き止め!」
どうしたいつも、ハルは笑ってくれただろうか、と記憶をひっくり返す。
名前を呼んで、頭を撫でて、肩に触れて、宥めすかすように背中を撫ぜて、それから、それから、
「コハル……、」
幸せにする術なんて持ち合わせていない。どうした笑ってくれるかなんて、わからない。今ハルがどんな言葉を欲しているのか、わからない。何年も傍にいたくせに、そんなことすらわからない。それは泣かせたくない、そればかり考えていた俺の怠慢だ。
幸せを返そう。俺がハルからもらったものを。俺はハルに何をされて嬉しかっただろうか。何を言われ喜んだだろうか。
「好きだ、」
考えるよりも先に口が動いた。ずっと隠してきたはず、ずっと押し込んでいたはずの言葉は随分とあっさりと口から転がり出た。しかし一拍おいて正気に戻る。
言うべきではなかった。言うべきではなかった。しかもよりにもよってこのタイミング。確かにハルに大好きだったと言われ、俺は死んでもいいと思えるほど幸せだった。だが俺にとっての幸せがハルにとっての幸せであるとは限らない。むしろこのタイミングでは最悪だ。困らせたに違いない、別離を覚悟していただろうに、それに追い縋るような言葉。阿呆にだって限度がある。
幸か不幸か、ハルが顔を上げる。その顔は涙に濡れていたが、もう泣いてはいなかった。眼を大きく見開いて驚いたように俺を見ている。思わず目を逸らしたくなるが、それをするのはいい加減不誠実だろう。
泣き止ませることはできた、が今度は自分の情けなさに俺が泣きたくなる。
「……だ、」
「あ?」
「嘘だ。」
「はあ!?」
放心したような顔で呟いた言葉を拾えば、嘘だ、と。思わず顔が引きつる。拒否されたり、親愛だと受け取られたりすることは想定していた。だがよもや疑われることになろうとは微塵も思わなかった。
「嘘、嘘だ、あり得ない。」
「いやなんでだよ……、疑われる覚えは流石にねえぞ。」
「……じゃああれだ、妹とか、娘とか、そういう、」
「……年頃の娘捕まえといて、そんなわけねえだろ。」
「……嘘だ、」
堂々巡り、まるで信じてもらえないのだが、ズルズルと吐かされている気がする。がまた下手なこと言って泣かせるわけにもいかなかった。結局それも、終わりならば全部言ってしまいたいという浅ましさへの言い訳でしかないのだが。
「子供扱い、するじゃん、」
「お前が無防備なせいだろ。」
「……エノ、全然女として見てなかったでしょ、」
「男として見てねえのはお前だろうが。据え膳我慢する身にもなれ。」
「がっ、我慢しないでよ!?」
「……は?」
凄まじく都合のいい聞き間違いをした気がした。
「いや、違っそうじゃなく、て、ああああ……、」
暗い部屋でもわかるくらいに赤くなる顔。悶えるように顔を両手で抑えてベッドに倒れ込むハルを混乱しながら見送った。どうも、聞き間違いでなければ夢でもないらしい。バクバクと心臓が音をたてる。
こんなにも俺にとって都合のいいことがあるだろうか。ハルの言うことが本当なら、俺たちはずっとお互いにいろいろと勘違いしていたことになる。
「……なあ、」
「……何、エノ。」
「喰っちまってよかったのか?」
「…………ちゃんと好きでいてくれるなら、食べてもよかった、です……、」
羞恥心のあまりに死にそうになっているハルには悪いが、きちんと確認しておかなければ厄介なことになるのは経験済みなのだ。ぐったりとしている彼女の手を引き起き上がらせる。そのまま抱きしめようとすると抵抗するように両腕を突っ張られるがそれすらも愛らしい。
「……笑うな、エノ、」
「悪ぃ、あんまり可愛いもんだからなあ。」
「……甘やかさないで、死にそうになるから、」
「それは困る。」
覚悟も諦めも、もう何もない。見送れるはずがない、手を伸ばさないでいられるわけがない。彼女という要素の何一つとして手放したくない。気持ちを返されることが、これほどまでに喜ばしいことだと知った今、手放そうなんて欠片も思うことができなかった。酷く青臭いと人は笑うだろう。それでもいい。この幸福感を本当の意味で知っているのは俺だけなのだから。
「なあ、ハル。」
「……なに、」
「もう名前で呼んでくれねえのか?」
「っ、いつから起きて……!?」
「最初からだなあ。」
「全部聞いて……、ああああああ、なんでそんなこと……、」
「寝たふりしてるとハルが運んでくれるだろ。」
「はあ!?」
「笑って良いし呆れていいし、なんなら怒ってくれても構わねえから、」
頬に触れると未だ微かに濡れていた。
笑うのも、呆れるのも、怒るのも当然だ。それだけのことを、俺はハルにしてきただろうから。でももう誤解も何もなくなるように。
「俺の思ってきたこと、全部聞いちゃあくんねえか?」
何もかも種明かししよう。隠すことなんて何もなく。誤解なくあまりなく、すべてをやってしまいたいんだ。
たぶん、お前はどうであれ最後は笑ってくれるだろうから一番大事な言葉は一番最後にしておこう。
話し終わったときには、どこにも行くなと目を見て言えるようになっているだろう。
愛した女からの好意は、怯懦なんて塗りつぶしてしまうほど幸福なものだから。
エノハルはこれにて終了です
読了ありがとうございました!