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五分間

十五万人の中で

作者: 工場長

 十八枚の鉄製の青い扉が一斉に開かれると中から勢いよく騎手を乗せた馬が十八頭飛び出していった。彼らはこれから二千四百メートルの青い芝生の上を「ダービー馬」の称号をめざして走る。

 「日本ダービー」、競馬を知らない人でも一度は聞いたことのある言葉だろう。日本競馬において最も有名で最も観客が熱くなるレース――。

 目の前を駆け抜ける馬たちに十五万人の観客が声を上げる。水野悟みずの さとる遠山茜とおやま あかねもこの中にいた。

 十八頭の馬が一コーナーを回り観客から遠ざかっていく。歓声が少し穏やかになった頃、茜が悟に声をかけた。

「私、今日始めて競馬を見るけど、すごく楽しいね。興奮してるよ」

 悟は笑顔で頷いた。

「そうだろう、なんだって今日は競馬のお祭りだから」

 表情は明るいが内心は激しく動揺している。彼はこのレースに「ある勝負」を一つしているのである。

 大学の入学式の日に初めて会ってから二年と二ヶ月――。時には友達と一緒に、時には二人きりでどこかへ遊びに出かけていた。

 授業のときも遊びに行くときもいつも一緒なので、周囲から「付き合っているのでは?」と囁かれているが、事実は違う。

 

 先頭を走るゼッケン五番の「ギブズイットアップ」が残り十七頭の馬を従えて先頭を走り、早くも二コーナーから向正面むこうじょうめんへと入る。先頭から最後方の馬までの距離は十馬身(約二十四メートル)。先頭走る馬の名前を知って悟は一瞬嫌な気分になった。

 十五万人の観客が十八頭の走りに大型スクリーンを通しながら固唾を呑んで見守るが、悟だけは茜を見つめている。彼女は競馬に夢中で彼の視線に気がついていない。

 中くらいの背に胸まである髪――。すらっとした鼻筋にしっかりと結ばれた唇。大きく見開かれた目、お世辞にも大きいとはいえない胸、その全てが愛おしく思える。

 これまでに何度も彼女に告白しようと決意したことはあった。しかし決意だけで実行には至っていない。

 だが今日の悟は違う。今日こそ茜に告白するぞ、という強い意思を条件付で持っている。


 向正面を走る十八頭の馬たちの後ろから二番目の辺りに悟と茜がともに馬券を買っている馬がいる。その名は「ミライチャート」。

 二人はこの馬の単勝馬券を買っている。一着になる馬を当てる馬券だ。悟はこのゼッケン十三番の馬が一着になったとき、茜に告白しようと決めているのだ。

 十八頭の馬は三コーナーを回り始める。先頭は相変わらず「ギブズイットアップ」。「ミライチャート」はまだ後ろから二番目の位置にいる。

 大欅の後ろを過ぎた辺りで茜が声を上げた。

「見て、私たちが買ってる馬が前に来ているよ」

 スクリーンを見るとオレンジ色の帽子を被った騎手に導かれて「ミライチャート」が前を走る馬を追い抜いている。後ろから二番目にいたのが今では真ん中の辺り先頭までの距離は五馬身(約十二メートル)ある。

 十八頭の馬はその位置取りを維持したまま四コーナーを回り、再び十五万人の待つ直線コースへ戻る。ゴールまでは五百二十五メートル。

 十五万人の視線が、大型スクリーンから直線へと戻った十八頭の馬に向けられ、彼らの興奮は最高潮へと向かう。

 先頭はまだ「ギブズイットアップ」。コースの最も内側――いわゆる「ラチ沿い」を走る。騎手は彼に残された最後の力を振り絞ろうと手綱を激しくしごく。

 その外側二メートルの辺りをゼッケン八番の「エイザーグッド」が追いかける。「ミライチャート」は十八頭の中で一番外側のコースを取る。先頭の馬までの距離はまだ五馬身(約十二メートル)。

 残り四百メートルを示す標識を過ぎた辺りで、「ミライチャート」の騎手はムチを高々と掲げ、激しく「ミライチャート」の尻を一度叩いた。

 その瞬間、「ミライチャート」の動きが加速を増した。先頭まであと三馬身(約七メートル二十センチ)。

「いけー! ミライチャート!!」

 茜が左拳を突き上げて激しく叫ぶ。悟も馬券を持った右拳を思わず突き上げる。

 「ギブズイットアップ」と「エイザーグッド」が激しい先頭争いをしている中、ゴールまで残り三百メートルを過ぎた。「ミライチャート」と先頭までの距離は一馬身半(約三メートル六十センチ)

 悟は馬券を握り締めながら今日の自分の決意を思い出す。


 もし、「ミライチャート」が勝ったなら茜に告白する。

 もし、「ミライチャート」以外の馬が勝ったなら告白はしない。


 「ミライチャート」が先頭に迫っていく中、彼の心はある決断へ動き始めた。

 残り二百メートルの標識を過ぎ、「ミライチャート」の頭が先頭争いをする二頭の腰の辺りの位置まで来たとき、悟は茜の左肩を掴んだ。

「えっ? なに」

 と、茜は言っているようだが、歓声にかき消されてよく聞こえない。ゴールまで残り百メートル。

 悟は茜の耳元へ口を近づけると、こう囁いた。

「君が好きだよ、茜」

 茜の肩がビクン、と揺れた。


「勝ったのは『ミライチャート』です。『ミライチャート』がダービー馬の称号を手にしました」

 十五万人の観客のうちある者は悲鳴、あるものは絶叫を上げる。しかし二人は互いを見つめあったまま動かない。

 

 「ミライチャート」が負けたら告白はやめようと思っていた。しかし、それを言い訳にするのは「ミライチャート」に対して、自分の気持ちに対して、そして何より茜に対して失礼だと思った。

 だから「ミライチャート」が最後の勝負に出た瞬間、悟も勝負に出た。「ミライチャート」の勝利を信じて、茜の返事を信じて――。

 十五万人の声の中、茜の口が動き出す。何を言っているか聞き取れないけど口の動きで分かった。

「わたしも」

 イタリア生まれの陽気な騎手が観客の声援に応える頃、二人は初めて唇を合わせた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] さわやかな文体で読みやすく、しっかりとまとめられてあり良かったです。またレースの臨場感にのせた悟と茜の心拍数が伝わってくる感覚が楽しめました。 [気になる点] 大変個人的で申し訳ございま…
[一言] もう!一息で読みました! いい気分になりました!恋っていいっすね〜 結末の予想はつくんだけど、上手に予想通りの結末に連れて行かれる楽しさったらないですわ。 騎手はデムーロ?(笑)
[一言] 知ってる私が見てもレース内容に違和感はなく臨場感が伝わってきます。 もう少しレースの中身を引っ張っても良いかなって思ったけど、知らない人が見ると逆にさっぱりな内容になりそうですしね。 告白を…
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