オッパイ
サラリーマンの聖地で、俺は久しぶりに旧友と飲んでいた。
「だからな……」
ガタンゴトン、ガタンゴトン
山手線の轟音が時折会話をかき消してゆく。
「だからな、俺は言ってやったんだ、役員報酬削ってでも社員の雇用は守るべきだ!!って」
大学時代の同級生だった孝俊は俺の倍ほどのペースで酒を飲み、焼き鳥にかぶりつく。なにか嫌なことでもあったのだろう、なかなかの荒れっぷりだ。
「ノーブレス・オブリージュってやつだな」
空っぽになったジョッキにキンミヤとホッピーを足してやると俺はかき混ぜながら言う。
「そーだ、ノブレス・オブリージョってやつだ」
仲間と立ち上げたITベンチャーの役員で、忙しくも金回りの良いそいつと入ったのは、キンミヤ焼酎とホッピー、それに焼き鳥しかないガード下の小さな店。零細の広告代理店に務める俺の行きつけだった。
「で、社長はなんだって?」
「それがだな、ベンチャーキャピタルから来たバカ女にたらしこまれた、あのおっぱい星人のクソ野郎はこう言いやがるんだ」
ポケットからセブンスターを出して火をつけると孝俊が深く吸い込んだ。
「企業は株主のものだ、従業員のものじゃない……って、くそっ」
どん、っとカウンターを叩いて悔しそうにうつむく。
「そうか、あいつがなあ」
社長の康介も同じ大学の同級生だ、知らない仲じゃない。
「人間ってのは変われば変わるもんだ、金ってのは怖いな」
俺もポケットからピースを取り出すとくたびれたジッポで火をつける。
彼らが会社を立ち上げたのは十年前、俺も一緒にやらないかと誘われた。卒業前年の冬、オヤジが脳梗塞で倒れた俺は断って、手っ取り早く勤め人になったのだが。
結局、孝俊と康介はSNSの黎明期、M1層向けに絞ったファンションSNSのサービスを時流にのせてIPOまであと一歩というところまでこぎつけたのだから大したものだ。
ビジネス雑誌でもSNSビジネスの時の人として、二人仲良くお前ら取材されてたじゃないか。
「変わったのは金のせいじゃない」
吸い殻をグリグリと灰皿に押し付けて孝俊がまたジョッキを空にする。カランと氷の転がる音が響く。
「あのブロンズマンソックスから来たバカ女のせいだ、康介のバカはオッパイに転びやがった」
女かよ。
「俺は会社を作りたかったんだ、みなで一緒に働ける会社を……なのに、あいつは、あの野郎は」
ドボドボとキンミヤを注ぐと孝俊はホッピーも入れずにジョッキを飲み干した。
「なあ、孝俊」
俺は氷がすっかり溶けて薄くなったジョッキを一口飲んで続けた。
「雌鳥が泣くと国が滅びるっていうがな、フランスも中国もモンゴルも、女が出張って来たらどんな大帝国だって傾く運命なんだ、」
まったく、オッパイってのは罪作りなもんだ。オッパイに惑わされ、ハメたつもりがハメられて、ガキができたらカアチャンなんていう違う生き物になって、男の稼ぎを全部もっていっちまう。
「でもな、最後に残るのは優秀な部下に支えられた国だけだ、裸になった王様がチンコ丸出しで偉そうにしてても、金がなくなりゃオッパイ一つ好きにできなくなんだから」
何を言うでもなく、焦点の合わない目で孝俊が俺の顔を見つめている。
「お前はどうしたいんだよ」
ガタンゴトン、ガタンゴトン轟音が鳴り響く。
ネットで社畜とバカにされている真面目な連中の生活を載せた列車が走ってゆく。
「俺か……俺はな……」
考えがまとまらないのか、孝俊は俯いて考える、無茶な飲み方をしたせいか、もう意識が飛びかけている、コクリ、コクリと船を漕ぎだす。
結局、奴がどうしたいのか聞き出せないまま、俺は孝俊をタクシーに放り込んで家路についた。
3ヶ月後、IPOに失敗して康介と孝俊の会社が大手携帯電話会社に売却されることになるのだが、それはまた後日の話だ。
「ねえ、どうしたの?」
ベッドの上で彼女に声をかけられて俺は我に返った。あの日以来、おれは時々考えることがある。その大きさに関わらず、どんな大帝国でも滅ぼすオッパイは実は人類史上最強の生物兵器なんじゃないかと。