魔法使いの少女
昔書いた小説で読みにくいです。主に暗い雰囲気なので、苦手な方はちょっと注意してください。ハッピーエンドかバッドエンドかは読者各自の解釈に任せます。
妹が交通事故に遭ってから既に一週間は経っていた。今もなお妹は目を覚ますことは無い。手術は無事に終わっている。しかし、担当医からはもしもの事態を覚悟するように宣告されていた。
不甲斐無い兄である僕は痛切な表情を浮かべる両親を傍目に、何処か縁遠い人事のようだと錯覚を覚えた。
不燃な感情が渦巻いて過ぎる一週間。
僕の通う学校は妹が眠る病院に近かった故に、帰りに見舞いへ訪れることが日課となっていた。
久しぶりに訪れた全面が蒼い晴れの日も病院へ歩む目的は全く同じだった。
ただ、その日はいつもと違っていた。
病院の前にある広場。そこは患者達の心情を和ませる為か、色鮮やかな草花が咲き誇っている。普段なら脇目を振らずに素通りするのだが、この晴天日は僕を立ち止まらせるだけの事情が見つかった。
「あれは……うちの学校の」
僕と同じ制服を羽織った少女が広場のベンチに座っていたのだ。思わず気になった。何故なら深緑色のブレザーは白色のパジャマを半分ほど覆っている。つまり、単なる学生ではないのだろう。
「ん……?」
ベンチに座る少女が僕の視線に気づいて顔を上げた。彼女は自身の膝元に敷かれた紙に風景のスケッチを描いていたようだ。細い指が小さくなった色鉛筆を握っている。
唐突に彼女はスケッチを担当しない片方の手を持ち上げ、僕へ向けて手招きをした。
「僕?」
こくり、と首は縦に振られた。
断る理由も特に見当たらなかったので、ベンチに近づいてゆく。一歩ずつ進む度に彼女の印象がはっきりと顕になった。肉付きが良いとは言えず、四肢は痩せ細って骨ばっている。そして学生とは思えない無邪気そうな顔が最大の特徴だった。
ベンチの直前まで辿り着いた僕に、彼女は自分の隣を掌で叩いて招く。招待に応じる僕は腰をベンチに押し付けた。ぎい、と不快な音が一瞬だけ響く。
「君、○○校の生徒だよね」
「そうだよ」
「私もね、同じ学校なんだ。一度も行ったことないけど」
隣の少女は面白そうに微笑を作った。対する僕は笑顔を浮かべるべきか戸惑い、中途半端に頬を引き攣らせた。きっと妙な顔になっているだろう。
幸いにも彼女は気にしていなかった。
「ねえ、実は君にお願いがあるんだ」
少女は頬を淡い朱色に染めながら、口元をスケッチの紙で覆い隠す。やがて密かに声を発した。
「あのね、学校の話が聴きたいの」
突拍子な頼みに僕は瞼を数回開閉させた。
「……うちの学校の?」
「そう」
純朴な相槌に僕は丁寧に従った。誰かに語れるような武勇伝なんか経験していない。それでも僕の口は流暢に滑っていた。自分でも正直に驚いた。
僕と言う人間は人付き合いが苦手な方だ。友達も少ない部類に入る。当然の如く、初対面の少女と話せる胆力は身についてはいなかった。
このような僕が長く口を開いていられたのは偏に少女のお陰だ。どんな話にも一喜一憂する彼女の顔は形容し難い安らぎを与えてくれる。
「いいな……。私も見てみたいなぁ」
昨年の文化祭の内容を話す最中。僕は少女から携わる安堵感の正体に気づいた。
甘美な憧れ。
曇りのない純心が他愛も無い経験を色鮮やかに彩ってくれるのだ。心の奥底が微かに火照る。この少女にもっと語ってあげたいと僕は思うようになった。
しかし僕は病院に来た目的を思い出し、見舞いを果たさなければならないと彼女に説明する。返答は意気消沈した顔だった。
「もう終わり……か」
間髪いれず、否定を挟んだ。
「いいや。僕は明日も見舞いに来るんだ。その時続きを話すよ」
「本当っ?」
少女の顔に再度喜びが灯った。すぐに僕達は明日の談話を約束する。彼女は何度も約束の内容を繰り返し呟いていた。
最後に僕は自分の本名を語った。
彼女も名前を教えようと口を開く。
「私の名前はま……ほ……」
そこで短い躊躇いが生じた。僕は何事かと首を傾げる。彼女は小さく瞳をうつ伏せている。僕は具合が悪化したのかと危惧した。その不安を裏切って、一段と溌剌な声が周囲に響き渡る。
「私は魔法使い!」
悠久に劣らない時間が僕の内側で流れた。脳内で少女の言葉が反芻される。風が音を引き連れて吹いたのと同時に僕は全身を振り絞って発声した。
「へ?」
たった一文字が限界だった。
少女は気にも留めず楽しそうに困惑の自己紹介を続けた。
「私は何でも叶えられる魔法使いなの」
呆ける僕を前に少女は告げる。
「私のお願いを訊いてくれた代わりに――――あなたの願いを叶えてあげる」
偽りを一切感じさせない文句だった。何をどのように答えればいいか。僕は困惑したまま押し黙る。
自ら名乗りを上げた魔法使いは、一面の笑顔が良く似合う十代の少女だった。
* * *
魔法使いを自称する少女と出会ってからはや一週間。連日の雑談は滞りなく賑わっていた。僕達の間で飛び交う会話に初日のような堅苦しさは既に見当たらない。
互いの姿を見かければ声を掛け合う程だ。交友経験が乏しい僕にとって、彼女との仲は非常に貴重なものになっていった。
――この日も、彼女は見舞いから寂しく帰還する僕に声を掛けてくれた。
「あ、おーい」
背中へ降りかかる声に反応すると、後ろで長い廊下を車椅子に座って突き進む彼女の姿が見えた。僕は彼女が自分の下に来るまで立ち尽くす。少々の時間をかけて彼女はようやく辿り着いた。
「今日も会えたね」
彼女の様子は何処か普段より浮いている。この一週間、日頃から幼児の如き純心と明るさは持ち合わせていた。それにも増して今日は活発だ。
「やあ。…………何かいいことあった?」
「えへへ。分かる? 実はね」
はにかむ少女は車椅子に乗ったまま通った道の方へ顔を向けた。
僕が視線を追うと同時に、一人の看護師が長い廊下を早い速度で歩いてきた。二十代後半あたりの女性だ。魔法遣いの少女の双眸は彼女を捕らえている。
「ちょっと待ちなさいっ」
「あの人がね、……あ、工藤さん、て言うんだけど。久しぶりに病院の外を散歩していい、って言ってくれたんだ」
その直後に工藤さんと呼ばれる看護師が少女に追いついた。息を切らす看護師に僕は軽く会釈する。
僕に気づいた工藤さんは呼吸を整えながら挨拶を返してきた。
「どうも、初めまして。看護師の工藤です。この子の担当なんです」
「あのね、工藤さん。この人が私の初めての友達だよ」
改めて宣言されると気恥ずかしく感じられた。僕と少女を交互に見比べる視線が向けられる。看護師はやがて微笑を携え、僕の肩に手を置いた。
「話は聴いているわ。今日は彼女をよろしくね」
「あ、はい…………?」
反射的に僕は頷く。数秒、先程の言葉の意味に理解を注ごうとする。結果は不明。内容を確かめる疑問が僕の口を突いて出た。
「この子と一緒に外出して欲しいの。残念ながら私は忙しいからついていけないわ。要するに」
工藤さんの片目が小さく畳まれ、ウインクが僕に思い重圧をかけた。
「デートのエスコートをお願い、ね」
がらがらがら。車椅子の歩道を走る音が周囲に広がってゆく。僕は少女の乗る車椅子を押しつつ病院近くの公園を横切っていた。すぐ下を向けば景色に楽しむ少女が目に入る。
「デート、ね……」
「綺麗だねー。あ、あれ何の花だろ?」
口から乾いた笑い声が漏れる。僕達の外出は範囲と時間の制限がついた極めて窮屈なデートだった。公園には散歩に来た患者が溢れているので落ち着いた気分にはなれない。デートというにはいささか雰囲気に不満があった。
しかし、僕は花を愛でる少女の笑い声で満足だった。魔法使いを名乗るとおり、彼女の笑みは魔法のような効き目をもたらしてくれる。二週間以上前から胸に鬱憤としたしこりが溜まっていたのだが、少女によって緩和されてゆくのが分かった。
「ねえ、ちなみにお願い事は何にするか決まった?」
少女が唐突に尋ねてきた。一週間前に彼女は何でも叶えてくれる、と言った。当時の僕に思い浮かぶものはなく今まで保留にしていたのだ。
「……まだ決まってないな」
「なんならこの国の大統領にしてあげようか?」
「日本に大統領はいないよ」
「……じゃあ、夢の国に連れてってあげる」
「お金を払えば何時だっていける遊園地だよね、それ?」
魔法使いの少女はしばらく黙り込んだ。顎に人差し指を当て、うーんと唸り出す。次に尋ねる彼女の声は老婆を彷彿させる響きだった。
「…………舞踏会に連れてってあげよう、灰被り姫」
「僕は男なんだけど」
「………………そう言えばこんな風に願いが叶う魔法少女のアニメってなかったっけ?」
「暗いアニメだよ、あれ」
「えー」
幾度も跳ね返される提案に少女は頬を膨らませた。張本人の僕は機嫌を損ねてしまったかと不安になる。
さすがに何かを頼もう。そう思索に集中する僕の目に一本の枯れ木が飛び込んできた。
その木を凝視しつつ、僕は口ずさむようにちっぽけな願いを呟いた。
「桜を咲かせたい」
少女が僕の方に不思議といわんばかりに両目を開いて向けてくる。公園の木々に実っている葉は大半が深緑だ。桜の季節は既に過ぎていた。それでも僕は一本だけでも淡い色合いを満開にして欲しいと願う。
風が頬を撫で、緑の匂いが鼻腔をくすぐった僅かな合間。
魔法使いは無邪気な声で答える。
「いいよ。叶えてあげる」
その了承を遮って、くるる、と空腹の合図が短く弾かれた。僕以外の誰かがお腹を鳴らしたのだ。当てはまる真下の人物へ、僕の猜疑を秘めた双眸が降りかかる。
「えへへ……」
顔を桜より赤く染めた少女が恥ずかしそうに笑う。次の瞬間、僕のお腹も音を立てたことで二人一緒に笑い出した。
「あ、あそこでパン売ってるんだ」
僕達を同時に笑わせた原因は焼きたてパンの香ばしい芳香だった。ワゴン車内で焼き上げ、路上で販売しているらしい。
「食べる?」
赤いエプロンを腰に巻き、焼きあがった商品を取り出す店員へ瞼を傾ける少女に問いかけた。彼女が見ている物は正確に表すとトレイに乗せられたメロンパンだ。食べたい、という衝動が用意に読み取れた。
彼女は小さく逡巡する。病院での規則があるのだろう。勝手に飲食することは禁止されているみたいだ。
「一口ぐらいは平気じゃないかな」
「う、うんっ」
同意する彼女が座っている車椅子を公園の片隅で停止させる。僕はポケットに入っていた財布を握り締め、早速パンを売るワゴン車へと駆け出した。途中、急いだ為か少し転びそうになった。気になって後ろを顧みれば少女が可笑しそうに笑っている。
恥を挽回しようと僕は一刻も早くパンを買ってきた。選んだのは甘い香りが漂うメロンパンだ。表面に付いた格子模様の焼き色が食欲をそそる。
「はい」
僕が食べる前に少女の近くへと差し出した。紙に包まれたメロンパンを目前にして、彼女は両目を大きく開く。最も熱心に見つめていた彼女に僕より先に口にして欲しかった。
手で譲りとって、食べる分だけ千切ってもらうのが僕の理想だ。しかし、車椅子の上で少女が取った行動は想像を用意に飛び越えていた。
「あーん」
なんと、雛鳥のように口を開けてきたのだ。
僕は瞬時に意味を悟る。僕自身の手でメロンパンを食べさせてと要求しているのだろう。
外出時間の制限も迫ってきている。ここで躊躇う時間が惜しかった僕は手を震えさせながらメロンパンを慎重に突き出した。
ぱく、と一口分の穴が空く。
「うん、おいひ」
咀嚼しながら喋る少女を余所に、僕は顔が火照る感触に慌てていた。少女を追ってがむしゃらにメロンパンに噛み付く。そこで僕がこのパンを一口分千切っておけば良かったと後悔した。
甘い味が味覚をゆっくり満たしてゆく。この三百円にも届かないメロンパンが今日の最後の幸福だ。この時間が過ぎてしまうことを残念に思いながら、僕は晴れた空を見上げた。工藤さんが少女の外出を許してあげたくなるような暖かく清々しい天候だった。雲の一つが病院の方角へ飛行機雲を伸ばしている。晴天の彼方まで延びた真っ白な線を追いながら、僕は再び車椅子を押し始めた。
「……飛行機雲だ」
病院までの短い時間、少女の目にはきっと蒼い海を左右に分ける道筋が映っていたのだろう。
* * *
僕は病院へ通う度必ず魔法使いに会っていた。いつの間にかそれが当たり前だと思う程の頻度だったのだ。だが、ある日病院中から彼女の気配が消え去った。僕は彼女が良く居る場所を何度も探し回った。少女をよく知る看護師の工藤さんも姿が見えなかった。探索に疲れた僕は会えないまま帰宅した。
そして、自宅で切羽詰った母親からある事実を聞かされる。
習慣が裏切られた日付は、妹の容態が急変したという連絡が来た日と重なっていた。
日が変わらぬ内に病院へ二度目の訪問を果たしたのは初めてだった。曇り空のせいか。家族全員で病院の入り口を抜けるのが重く感じられた。
僕達家族を運ぶエレベーターが来る時間にも堪えることが出来ない。僕は若さにものを言わせて階段で先に上がっていると宣言した。実際に見舞いに来た時、自力で上階に行くことは多かった。家族は僕に何の疑いも向けず、ただエレベーターの来訪を乞い続けた。
段差を上がる瞬間の空虚な音色。それは奇しくも僕が魔法使いに会う前の気持ちに引きずりこんでくる。頭を振り、僕は一心不乱に階段を昇り続けた。
息も切れかけた頃、ようやく妹が居る病室の一つ下の階に到着した。焦る僕の足が階段の踊り場から身体を追い出してしまう。出た先は病室と沈黙が並ぶ廊下だ。
「あ」
急いで階段の方へ戻ろうとする僕を一つの人影が強く引きとめた。見覚えのある看護師が何かを握りながら病室の前で立ち尽くしている。
あの少女に車椅子での外出を認めた工藤さんだった。一日中探していたのだが、奇しくも今になって発見してしまった。僕は自信の不運を呪った。急いでいるこの状況では魔法使いの居所を訊く猶予はない。
――そう思っていた。
彼女の顔が悲嘆に暮れていなければきっと素通りしたはずだ。後ろに位置する病室のネームプレートが目に入ってこなければ何も気付けずにいただろう。手で握っていた画用紙も見覚えのある物だと遠目では分からなかった。
誰かが亡くなったような工藤さんの表情。初めて見るはずの真穂という名前。そして、色鉛筆で描かれた絵。
胸の中で嫌な予感が渦巻く。それは僕に気付いた工藤さんの一言で確信に変わった。
「真穂ちゃんが……今日」
魔法使い。この六文字と頭二文字が重なる名を持つ少女の死を僕は知った。
僕の手に一枚の絵が渡された。持っていた工藤さんが言うには、少女が最後まで握り締めていたそうだ。僕は受け取った絵に恐る恐る目を通す。
――描きかけの桜が白い背景に聳え立っていた。これは少女が描いた桜なのだ。
僕の脳裏にある言葉が思い浮かぶ。
『桜を咲かせたい』
魔法使いへと僕が頼んだ内容だ。彼女は律儀にもそれを叶えようとした。けれども、絵に描かれた桜は花をつけていない。満開には程遠く、未完成な印象だけが抱かされた。まだ明日があると思っていたのだろう。桜色の線が画用紙の上から下まで一本引かれていた。
最後までこの絵に取り掛かった彼女の姿が易々と思い浮かんだ。きっと笑顔だったのだろう。けれども、僕は彼女に感謝だけを伝えることは出来なかった。
僕は知っていたからだ。彼女の嘘を。
「本当に何でも願いが叶うなら」
本名は知らなくても、魔法などこの世に存在しないことは常識だ。魔法使いだと少女がふざけて言ったことは重々承知していた。その上で僕は嘘に付き合った。
「……なんで」
そしてもう一つ。数日前。車椅子で外出した時、彼女は極力手足を動かさなかった。メロンパンを一口食べるだけでも僕を頼りにしていた。当時の僕は緊張で多くのものを見落としている。本来ならそこから気付くべきだった。今なら情報を頭に巡らせて用意に理解できる。
彼女は既に手足を動かせないほど衰弱していたのではないだろうか。
「…………どうしてっ」
自信の容態を意図せず、魔法使いは僕の為に努力し続けた。如何せん、全ては嘘。冷酷に突き詰めれば絵に描かれた桜は魔法ではない。しかも完成できなかった。
僕は思いを口にする。彼女の無念に僕が押しつぶされそうだから。
「自分の為に使わないんだよっ!」
その疑問に答えられる彼女はいなかった。
自己犠牲で生死を変えられることは殆どない。一介の学生に過ぎない僕はまさに不可能だ。だが、魔法使いは限界に達するまで嘘に徹した。そんな根気強さに僕は憧れていたのだろう。笑うときに笑う。それが出来ない僕はまだここに居る。
暗い病室から僕は静かに踵を返した。頭にかつて感じたことがない虚無感が押し寄せる。不安定な足取りで階段へ戻り、妹の病室へ再度出発した。
悲しくても泣けない嘘つきが、そこにも居た。
* * *
気付いたら僕は病室の前まで来ていた。両親の姿はもう室内にある。二人が揃って見つめているのは苦しそうに呼吸を繰り返す妹だ。周囲で懸命に対処する担当医や看護師に混じって、僕の足がおぼろげに前へ出た。
「……容態は?」
希望を貰いたくて口にした問いに、医者は淡々と事実を告げる。――今晩が峠だ。
母は床に泣き崩れ、父は何とかならないかと医者に詰め寄る。肝心の僕は泣きも憤慨もせずに、ただ妹をじっと見下ろしていた。頑張れ、と声さえも掛けられない。
僕の両足は病室の真っ白な地面に根ざしたかのようだった。頭の中で様々な感情と思念が渦巻いており、実践すべき事柄が見えてこない。
彼女に加え、僕は妹も失ってしまうのだろうか。考えてはいけないことだと分かっている。だが、この病室に滞在する限り避けて通れない道だった。逃げる気力もなかった僕に容赦なく予感が突き刺さろうとした。
「妹は……助かりますよね」
「全力を尽くしますっ」
近くに居た看護師が早々と返事を切り上げた。安心できる言葉を長々と返しても、時間の浪費だと判断したのだろう。切羽詰った状況だと改めて認識させられる。
近くにあった椅子へ僕は深く腰掛けた。気を利かせた看護師が用意してくれたものだ。両脇に並んだ同種類のパイプ椅子を見比べ、これからの長時間の健闘が自ずと予期される。
こつん、と僕はすぐ後ろの壁へ後頭部をくっつけた。小さな衝撃が脳内に浸透してゆく。僕の無能さがあまりにも惨めで、顔を誰かに見られたくなかったので天井を見上げた。汚れのない一面の白が双眸を奪う。
荒げる呼吸を傍で聞きながら、僕の脳裏には今日亡くなった彼女の笑顔が浮かんでいた。魔法使いならば僕にやるべき何かを教えてくれるかもしれない。淡い期待を持って望んだが、答えが出るには無限の時間がかかりそうだった。
――もう少しだけ、妹と話しておくんだった。
後悔が僕をしつこく苛む。交通事故から一度も目を覚ましていない妹に酷すぎる仕打ちだと僕は思った。
――でも、話せたところで辛いだけだ。残り少ない命を前にして笑顔を貼り付けることなど僕にはできないだろう。
共に滲んだ思想は魔法使いとの交友で至っていた。嘘を繰り返し、彼女は痛みを偽っていたのだろう。しかし、どちらも結末は同じなのだ。
眠ったまま、死を迎えるか。
起きたまま、死を迎えるか。
どれだけ中間を美しく繕っても、悲しい幕引きに全てが徒労に終わる。それならば、僕は何をすべきだったのだろうか。
「教えてよ、魔法使い」
胸中で呟いたはずの言葉を耳にして、僕の意識は常闇へと落ちていった。
瞼を開くと白と黒で構成された景色が目前に広がっていた。濃淡で色づけされた花々に、それらを愛でるためのベンチ。僕が座っている場所も観賞用の席の一つみたいだ。
僕は直感的に隣を見る。
真っ先に僕の学校で指定されたブレザーが目に入った。ベンチの端に座った痩せ細った少女が上着代わりに制服を着ている。彼女は膝元に一枚の画用紙を置いており、奇遇にも先ほど僕に手渡された絵と同じ内容だった。
突飛な遭遇に不思議と僕の心は落ち着いている。隣に座る彼女が僕と目を合わせてきても動揺はしなかった。しばらく無言で視線を交錯させると、彼女が人差し指を膝の上にある画用紙に押し付けた。二回、指が画用紙の一部分を叩く。
彼女はそこへ僕の視線を集中させ、いきなり口を開く。
「ほら、叶ったよ」
声に反応した僕が見た少女の顔は、白黒でも爛々と輝く笑顔だった。
瞼を開ける。白で固められた天井が目覚めた僕を出迎えていた。意識が夢と現の判断を曖昧にしており、僕は夢を見ていたのだと少しの間整理できなかった。耳の奥では夢で聴こえた声が残響している。あの言葉の意味は即座に思い当たった。
眠って何時間が経過しただろうか。今晩がまだ過ぎていないことを願いつつ、僕は妹の眠るベッドに注意を走らせる。
「っ」
小さく細い指が微かに曲がる瞬間を僕が独り占めにした。周囲の医者や看護師は状態の安定に緊張を解しているみたいだった。両親も担当医の説明に集中して気が付いていない。
僕は身体に掛かっている毛布を払い、ゆっくりと妹に近づいていった。誰にも譲れない役割を務めようとしたのだ。
手を伸ばし、動いた妹の指先に自身の指も絡める。
横たわっている身体が接触に確かな反応を示していた。肺の運動が大きく、呼吸の音がはっきりと聴こえる。
自分の両目から熱い何かが零れようとしていた。知らぬ内に枯れた別れがこうして別の形で実ろうとしている。
――妹の目が小さく開いた。病室の中がその反応に気付き、騒がしくなる。
頬に涙が流れた。顔から垂れる雫がシーツを濡らしてしまう。心底から嬉しかったゆえに泣かないようにと目尻を指で拭った。けれども、涙は止まらず逆に溢れ出してしまった。
家族が目覚めたことで彼女の死が一層悲しく刻み込まれた。歓喜と愁嘆が僕の心境で入り組んでいく。あの魔法使いに偽りなど皆無だったと今になって悟った。そしてありがとうさえ告げられずに別れたことが寂しくなる。
もう彼女の笑顔は得られない。もう感謝や告別も届けられない。
だからこそ、この瞬間は笑顔でいよう。奇跡のような場面に涙はそぐわない。
僕は魔法使いの少女を真似て泣きながらも精一杯の笑顔を浮かべ、妹の名前を呼ぶ。
「おはよう、さくら」
彼女の魔法は、僕の願いを叶えてくれた。
* * *
世間では桜が満開の季節になっていた。淡い色合いの花びらを見る度、僕は数ヶ月も前に嗅いだ線香の匂いを思い出す。
病院の近くにある公園でも花見客は数多来ていた。すっかり見舞いの常連となってしまった僕は車椅子を押しながら、桜の見物に紛れた見知った顔に挨拶する。時折、押される側の乗客は僕を意外そうに眺めていた。変わったね、と僕に言ってくる。
突風が吹いて、大量の桜の花びらが空に舞った。僕は魅惑的な匂いに噎せ返る。丁度目の前を桜が横切った。滅多に見られない行列だったので、僕の眼が釘付けになる。
息が詰まった。桜の大群の中に僕と同じブレザーを来た少女を確認してしまったからだ。
彼女は笑っていた。
殺那の間に桜で満ちた風景は切り開かれ、後には花見客以外誰も残っていなかった。呆然とした僕に向けて、またもや笑い声が飛んでくる。下の車椅子から寄せられた頬に花びらが付いているという指摘だった。
指先で頬の桜を摘んでみると、花粉特有の粉っぽい感触が伝わってくる。吹き続ける風に欠片を乗せたら青く澄んだ空へ一目散に飛んでいった。駆け上がってゆく軌跡の先では太陽が眩しく輝いている。肌を刺しそうな程燦々とした光だった。
すう、と深呼吸をして肺の空気を入れ替える。春に相応しい花の香りが美味しいと感じられた。
前へ進もうと車椅子の後ろに付くバーをしっかりと掴む。片足をしっかりと地面へ根付かせる。両腕に力をこめて、行くよと出発の合図を示す。
そうして、僕は一歩を踏み出した。
これは私がかつて書いた小説を直しもせずに投稿したものです。稚拙な小説なので読みにくいと思います。書き直そうとも考えたのですが、物語が別の系統へ向かってしまうので、一旦様子見をすることにしました。一応涙を誘うようなお話になったと思っています。読んでくださった方はどうもありがとうございました。