DooR-Side
/DooR-Side.
「命に関わる手術が必要です。この同意書にサインをお願いします」
そう言って医師が差し出した書類には、『命をつなぎ止める為なら何をしても構わない』と言う事に同意すると言った様な内容だったと思う。
私はもうどうしていいのか分からなくて、ただ、灰兎に生きて欲しくて、死んで欲しくなくて、震える手でその書類にサインをした。間違えて自分の旧姓を描きそうになった。もう書かなくなって随分経つのに……それ位動揺していた。
何が起きたのか分からなかった。気が付いたら、全てが終わっていた。
私は灰兎に軽く茂みに突き飛ばされて、訳が分からず顔を上げた時、灰兎は地面に転がっていて、辺りに真っ赤な水が飛び散っていた。
訳が分からなかった。でも、私の口からはありえない程の大きな声が溢れていた。
腰が抜けていて、倒れた灰兎に近付く事も出来なかった。
とにかく慌ただしく周囲は動き続けた。でも、灰兎はピクリとも動かなかった。
よく分からないまま、私は病院にいて、よく分からないまま書類にサインをして、よく分からないまま泣いていた。
分かっていた事はシンプルで、今私の大切な人が、生と死の瀬戸際にいるのだと言う絶望的な事だった。
「先生、灰兎は助かるんですか?」
「出血が脳内でも起きています。とても難しい手術になるでしょう……」
私の質問に医師はとても冷静に答えた。
「助かるんですかっ?」
「助けます。それが私達の仕事ですから」
冷静に、でも情熱的な返答に私は安心しかけた。医師の言葉がそこまでだったら、私は馬鹿みたいに安心しただろう。でも、その医師はどこまでも冷静だった。
「ただ……」
「……ただ?」
そして医師は早口に説明してくれた。手術の内容とその危険性を細かく、丁寧に。その手術の手法等を専門用語を交えて。その殆どを私は理解出来なかった。内容が難しかったのもある、でも、それ以上に私自身が混乱していたのだと思う。それでも、内容は分からなくても、その言葉は、聞き覚えがあった。
「え?」
「損傷範囲がかなり深くまで及んでいる場合、軽度から重度の『記憶障害』を起こす可能性がある事をご了承下さい」
「記憶障害?」
聞き覚えがあったけど、どういう意味だったか? そんな風に考えていたのが医師にも伝わったのだろう。わざと分かりやすい言葉に言い換えて説明してくれた。
「分かりやすく言えばドラマなどで言う記憶喪失です」
頭をハンマーか何かで叩かれた様な衝撃を感じた。
「記憶……喪失?」
「あくまでも可能性の話です」
「忘れちゃうんですか?」
「………はい」
「私の事も?」
「………はい」
「この子の事も?」
「………はい」
「そんな……それじゃあ、灰兎は? 私の知ってる今の灰兎はどうなるんですか?」
「記憶を失っても、彼は彼です」
先生は目を伏せてそう言った。
嘘だ。灰兎の記憶が無くなるなんて。嘘に決まってる! 灰兎が忘れる訳無い、私達の大切な思い出を、思い出達を忘れる訳無い。
今までの記憶が溢れてくる。こんなに沢山の思い出がある。それが全て無くなってしまうなんて、私は信じない。信じたくない。
「あ」
不意に、灰兎の言葉を思い出した。
『大丈夫、絶対に一人にしないから。約束する。約束するから……』
混乱の中灰兎が残した言葉が、鮮明に思い出された。
不思議と、胸の不安は消えていった。私の胸には、記憶には、優しく微笑む灰兎の笑顔があった。
「先生、灰兎をお願いします」
「はい」
開頭手術の同意書にサインして、頭を垂れて先生に渡す。
「灰兎は記憶を無くしません」
「………」
「だって、約束してくれましたから」
先生は灰兎を助けてくれると言った。
灰兎は私を一人にしないって言ってくれた。
ならば私は彼等を信じて待つしかない。そう思った。
お腹を抱きしめる様に抱えて、
「大丈夫、約束したもの」
私はただ、神様に願うのだった。灰兎の手術の成功を。私に出来る事は、もう、そんな事位しかなかったから。
神様、私と『この子』の大切な人を、どうかお守り下さい。
私は、そう祈った。
手術は五時間に渡った。私はその間、ずっと祈り続けていた。先生が手術室から出て来て、『手術の成功』を私に伝えた時、私はそのまま意識を失った。張り詰めていた気持ちが安心とともに緩んで、疲れが一気に出たのだろうと先生は言っていた。
お腹の赤ちゃんも無事だった。私が目覚めた時、灰兎まだ予断の許されない状況で、私はずっと付きっきりで看病に当たった。不安は無かったと言えば嘘になる。
でも、灰兎は私に嘘はつかなかったから。灰兎は絶対に目を覚ますって信じていた。だから、ただ灰兎が目を覚ますのを待っていた。待つだけだった。
三日目。
「ん……んん……」
「灰兎っ!?」
眠ったままだった灰兎が目を覚ました。
『損傷はかなり酷いものでした』
先生の言葉が思い出される。
『軽度の記憶障害は間違いなく現れると思います』
「ここは? ……あれ? 俺何でこんな所に?」
『重度の場合も考えられます、最悪の場合、過去全てのエピソード記憶の喪失もありえますので、心の準備をしておいて下さい』
信じてる。そんな事無いって信じてる。でも、胸は不安で一杯で、もしかしてと考えてしまう自分の気持ちを、そんな事無いって言い聞かせて、
「灰兎、私が誰だか解る?」
不安に押し潰されそうな胸を押さえ付けて、祈る様にその質問を投げかけた。
「………」
灰兎はキョトンとした顔で私を見てから、笑顔でこう言った。
「何言ってんだよ母さん? 俺が母さんの事忘れる訳が無いだろう?」
涙が溢れた。私は声を上げて泣きながら、灰兎の胸に飛び込んだ。
「母さんっ!?」
慌てる灰兎の事など構わずに、私は灰兎のの胸でわんわん泣いた。
「信じてた、信じてたよ、灰兎っ!!」
「信じてたって何をだよ?」
灰兎は私の事をちゃんと覚えてた。忘れてなかった。良かった。本当に良かった。嬉しくて、嬉しすぎて、何がなんだか分から無くなって、ここが病院で、四人部屋で公衆の面前だって事を完全に忘れていた私は、灰兎にキスをしようとした。
「ちょっ、母さんっ!?」
照れ屋な灰兎がそんな風に拒むのはいつもの事で、
「いいじゃないか、私がしたいんだ」
そういう私に、いつでも灰兎は苦笑いしながら、
『しょうがないな』
ってキスしてくれるんだ。いつも、いつでもそうだった。なのに……
「良かないだろ!? 親子でキスはやっぱおかしいってっ!!」
いつもと、違った。
反応も、その台詞も。
それに、今灰兎は何か変な事を言っていなかったか? 私の聞き間違えだと思った。聞き間違えに違いないと、そう思った。
「待って。待って灰兎。私と灰兎は……」
「どうしたんだよさっきから? 『私は誰か?』なんて聞いたり、今度は二人の関係か?」
笑いながら、『変な事聞くなよ』なんて言いながら、
「少し仲の良すぎるきらいのある、『親子』だろうが?」
「え?」
「何度も言わせないでよ『母さん』。俺が『母さん』の事忘れる訳ないだろ?」
そう言った。そう言って笑った。
私と灰兎は、『親子』だと、そう言った。
冗談には聞こえなかった。灰兎は本気でそう言っていた。
本気で私達は『親子』だと思い込んでいた。
違う、違うよ灰兎。私は灰兎の『お母さん』じゃないよ? 私は、私は、
「ああ……ああああっ!!」
私は灰兎の『お嫁さん』だよ?
泣くしかなかった。
灰兎は生きていた。
記憶も残っていた。
それで問題ない筈だった。
私達の幸せな暮らしが、やっと帰ってくる筈だった。
でも、神様は残酷だ。
残酷過ぎた。
全てが元通りだと思った。そうだって思っていた。でも、それは幻だった。私の大好きな灰兎は帰ってきた。帰って来てくれた。でも、灰兎の中の私は、いつの間にか変わってしまった。どうして? なんで? こんなのって、ないよ。
こんなのって、ないよ。




