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氷竜を探しに

作者: 孤城守

以前WEBサイトに掲載していた短編作品の加筆修正版です。

(※pixivにも投稿中)

     


 その地の気温は年中、零下10度を下回る。雪はやんでいる時間よりも、降っている時間の方が長い。

 大陸の北の果て。ここ「氷竜原」は、人間が暮らせる環境ではない。魔物でさえ、それほど棲んでいないが、その名の通り氷竜が住んでいると言われている。

 そんな過酷な地であるが、時折、ある種の人間がこの地へ踏み込んでいく。名声と名誉のために、氷竜を退治しようと考える者。或いは、大陸の北端を地図に書き加えようと考える探検家である。

 しかし氷竜の存在は、未だに噂の域を越えることがない。何故か。

 実際に氷竜を見て帰ってきた者がいないからだ。

 今日の氷竜原の天候は、激しい吹雪になっていた──



 その男にとって、寒さは大して問題にはならなかった。

 元々寒い地に住んでいる人間ならば、不思議なことではない。

 氷竜原から少し南に位置する村。大陸で最北端、「北の限界点」とも言われる村こそが、彼の出身地だった。

 彼は夜明けと同時に氷竜原に踏み込んだ。しかし運悪く、小降りだった雪は、風が強くなるとすぐに吹雪となった。

「くそったれが。出かけた翌日にこの吹雪かよ。まったく、俺は噂の氷竜に嫌われているのか?」

 男は雪に向かって、思った事をそのま罵声として口に出した。ちょうどよく見つけた大きな岩の影で、岩に背をもたれ、両足を投げ出している。吹雪で視界が悪いため、ひとまずここでやり過ごそうという魂胆だ。岩は、雪も風も遮ってくれている。

「だいたい、国王様の要望とはいえ、噂の存在にすぎない氷竜の絵を描くだなんて…… 引き受ける馬鹿がどこにいるっていうんだ?」

 ここにいた。

「それにそんなもん、どうせ誰も見たことが無いわけだし、わざわざ実物を見なくても、適当に想像して描いてもいいことじゃないかよ? ノコノコ氷竜原に入っていく命知らずなんて、普通、いねえよな」

 ここにいた。

(でも……金貨1000枚なんて言われると、貧乏な絵描きにとっちゃあ、命の一つもかけたくなるってもんだ)

 彼、貧乏絵描きのトレッカーは、報酬の金貨のために命をかけようと決断した。まだ若いが、やや老けたその顔には無精髭が生えている。風貌と性格に似合わない、鮮やかな翠緑色の瞳は珍しい。

 彼は目を楽しませるものでも探そうというのか、吹雪の中を凝視した。しかし、大地と空の境は勿論見えず、数メートル先は、動く白い壁。一面の白い海の中で、暗灰色の岩肌だけが唯一の大地のようだ。

「……一人で来るのは、ちょっと間違っていたような」

 生まれ育ちから雪原を歩く事には慣れているという自信が、仇となったかもしれなかった。

 トレッカーは風のうなり声を聞きながら、乾燥させた携帯食料をいくらか口に入れた。きりつめて、ぎりぎり5日分の量を持ってきている。まる2日間探しても氷竜が見つからなければ、帰るつもりだった。死を覚悟することと、生への望みを捨てることは別の問題だ。

「氷竜、か……。やっぱり、でっかい翼があって、長い尻尾があって、鋭い牙があって、トカゲみたいな鱗に覆われているっていう、一般的な竜の像と同じ姿をしてるのかねぇ。まさか、体が氷でできているなんてオチはないだろうな」

 彫刻、硝子細工、旗、武具、衣服。いろいろな物に模造して使われている、竜。

 一般的に竜という生物は、もう存在しない事になっている。だが、トレッカーはそれが間違いだと思っていた。

 人里に姿を見せていないだけ。個体数が減少しているから、目にできないだけ。

 人間が生活できない環境、魔物が闊歩する秘境でも、生活できる強さを彼らは持っているだろう。人との接触を避けたいと思っているとしたら、人里に出てくる必要は無い。

「それにしても……」

 何時間ここで休んでいただろうか。吹雪は一向に止む気配が無い。このまま自分の存在が、雪の中に消えてしまうのではないか。トレッカーはそんな不安を覚えはじめる。

 その時だった。

「人間は何故、自分たちが住むに相応しくない土地にまで干渉するのでしょうか? この白い大地には、あなたたちの実質的利益になるものは無いはずです」

 突然、声が生まれた。澄んだ、女性のような声。トレッカーは心臓が止まるかというほど驚き、声が聞こえた方向、吹雪の中を凝視した。

「だ、誰かいるのか!?」

 吹雪の中には何者の姿も見えない。

「それは好奇心を満たすだけの行動なのでしょうか。それとも、魔物を殺すためなのでしょうか。我々魔物が時折、人間をも食糧とする、それに対する報復なのでしょうか」

 声は続いていた。そして、ゆっくりとその声の主の姿が浮かび上がってくる。

「魔物……」

 それは白い猛禽の鳥に見えた。だが、違う。

 トレッカーの視線と同じくらいの高さに、赤く光る眼。体も普通の鳥よりも遥かに大きい。柔らかそうな鳥の羽と羽毛に覆われた体の一部は、硬い甲殻が覆っている。それはまるで白塗りの鎧のようだった。

 トレッカーの美的感覚から見て、綺麗な魔物だった。

「はじめまして。私はシロツムジと言いいます」

 礼儀正しい、と言っていいのだろうか。その白い鳥の姿に似た魔物は澄んだ声で淡々と述べた。

 恐怖も忘れたトレッカーは、なかなか冷静だった。中途半端な覚悟で氷竜原に踏み込んだわけではない。

「おれはトレッカーだ。で……おれを食いにでもきたのか、おまえは?」

 良く見ると、その魔物の二本足には、凶悪な鉤爪が備わっている。肉を裂き、内臓を抉る事は容易いだろう。

「人間の味も好きですが、ここで食事になるかどうかは、あなたの返事次第になります」

 とりあえず、シロツムジが問答無用で襲ってくるような魔物ではない事に胸をなでおろす。だが、その声には人間的な感情の欠片も感じられない。

「返事って言うと、最初の質問への返事か?」

「そういうことになります。あなたは、何のためにこの地に来たのでしょうか?」

 トレッカーは少し考え込んだ。が、これは問題ではなく質問である。考えても生き延びるための解答は思いつかない。意を決する。いや、本音を言えば、沈黙の重さに耐えられなかったのかもしれない。

「ここに居ると言われてる、氷竜ってのに会いに来たんだが」

 事実を話した。

「やはりそうでしたか。クロムレイア様に会って、どうするつもりなのでしょう?」

 答えを予想していたのか、あっさりと返すシロツムジ。

「クロムレイア?」

「私が仕える主。あなたの言う氷竜の名です」

 シロツムジは、姿を見せてから全く動いていない。幻のような非現実感を伴って、立っている。何かの魔法を使っているのか、その体の周りの空間には雪が近づかない。雪が避けているようにも見て取れる。

「絵を……氷竜の絵を描きたいんだ」

 トレッカーの真剣な言葉を聞いて、わずかにシロツムジの頭部が傾く。

「絵? 絵、ですか……初めてですね。そういう人間が来たのは」

 トレッカーはゆっくりと腰の後ろにあるナイフに手を伸ばす。

 解答は出した。今にもシロツムジは襲ってくるかもしれない。自分に闘う能力など無いのはわかっているが、可能な限り抵抗はするつもりだった。

 シロツムジの表情の無い顔に注意する。殺気も、敵意も感じられない。最も、この淡白な魔物が人間を殺す時に殺気を放つかどうかも疑問だったが。

「今までにクロムレイア様に会いに来た人間の殆どは、クロムレイア様を殺める事が目的だったのです」

「まあ、そんなとこだろうな。で、一人も帰ってこないって事は、みんなそのクロムレイアに負けて死んだってことかね?」

 平常心を装う。ナイフの柄を握った手には、場違いな汗がにじむ。

「ええ。クロムレイア様がご自分の手を煩わした事は殆どありませんが。私が丁度このように人間を発見して、殺し、食させてもらってますから。ごく稀に私でも止められない力を持つ者もいます。そういう者だけは、クロムレイア様が直接手を下しております」

 全く感情が感じられない、魔物らしいと言えば魔物らしい説明の言葉。しかしそれは人間の女性よりも高く、小鳥の囀りの如く澄んでいる。

「なるほどね。で、おれはどーなるんだ?」

「前例が無いので、判断に困ります。とりあえず、あなたが望むのなら、クロムレイア様の所まで送りましょう」

 意外だった。冗談ではないのか、とトレッカーは思ったが、この魔物が冗談を言うとも考えにくい。

「クロムレイアに判断を委ねるって事か」

「はい。あなたは武装もしていませんし、弱いです。私でも一瞬で殺せそうです。特に問題はありません」

 無感情に言われているのに、トレッカーは少し腹が立った。だが事実だったので納得する。

『人語を話す魔物は、だいたいが大物だよ。気をつけな』

 どこかの酒場で傭兵らしき人物に聞いた言葉が、思い出された。

「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうか。だが、できれば、あんたがおれを騙していない保証が欲しいな」

「ありません」

「……」

 あっさりと言うシロツムジ。事実を言っただけなのだろう。

「まあ、そうだろうが……しかし……」

 トレッカーは腕を組んだ。魔物に保証を求めた自分が馬鹿みたいだった。

「その、クロムレイアってのは、話の通じる奴か? 落ち着いて話せるような竜なら、こっちとしては助かるんだが」

「あの御方は、無駄な争いを好みません」

 さっきシロツムジが自分で言ったように、嘘を言っていないという保証は無い。しかし、「主」と呼ぶからには、身分が低いか、尊敬しているかだ。

 ──覚悟は、できていたはずだよな。

「じゃあ、頼むか」

 迷いを捨てたトレッカーは、ナイフの柄から手を離した。

「では、私の背に乗ってください」

 シロツムジは、優雅でそれでいて素早く足を曲げ、体を低くした。

「背にって……ちょっと無防備じゃないのか?」

 背中から首筋にナイフを突き立てれば、この魔物と言っても──

「あなたの動きは全て風の乱れで感知できます。自分の身に危険を感じたら、振り落として殺します」

「あー、そーですか……」

 苦笑する。トレッカーは少し背筋が寒くなったが、荷物をまとめて担ぎ、シロツムジの背によじ登った。



 その洞窟の岩の色は、少し奥に進むまでわからなかった。外側や入り口が、完全に白い雪に覆われていたからだ。

 雪と同じ純白の猛禽のような魔物の後に続いて、トレッカーは黙々と洞窟を進んだ。途中から雪が無くなり、完全に暗灰色の岩肌だけになる。

 いつもは口数が多い彼が沈黙を守っているのは、この魔物が話し相手にならない為、疲労が溜まってきている為、そして、この洞窟の奥から感じる不思議な威圧感の為だ。

 洞窟はトレッカーの予想していた以上に深く、広かった。だが、ついに竜は姿を見せた。一際広まった場所にうずくまっている。

 灰色に少しサファイアの青を加えたような鱗。背から尾にかけては、先鋭な突起が並ぶ。頭部だけでトレッカーの身長ちかくある巨体だが、翼はそんな体の割に小さく、筋力ではなく魔力で飛ぶことを予想させる。

 特に驚いたようでもなく、その氷竜はシロツムジとトレッカーの方にゆっくりと頭を動かした。最初に口を開いたのはシロツムジだった。

「クロムレイア様、妙なものを拾って参りました」

「妙なものって、俺のことか?」

 腑に落ちない表現に、トレッカーは口をはさんだ。

「はい、そうですが」

「……」

 相変わらずの即答に、トレッカーは沈黙するしかなくなった。そして、巨大な氷竜の低く重い声がトレッカーを身震いさせた。

「私に何の用だ。戦いを望むというなら、今すぐにでも始めてやろう。どうせ、すぐに終わる」

 その声からは、呆れているような感情がわずかに伝わる。

「あー……えーと、その。そんな野蛮で無謀で自滅的なことじゃなくて」

 たじろいだ自分の声を聞いて、初めて自分が恐怖を感じていることを知る。目の前にいるのは、どのような戦士でも倒し得ない、氷竜原の主、魔物を含めた生態系の頂点に位置する、竜という生物なのだ。

「違うのか。ここに来る人間には珍しいことだ。ならば何だ」

 トレッカーは恐怖を払拭しようと、こぶしを握り、氷竜の蒼い瞳を見据えた。蒼い瞳は冷やかに光っていた。

「絵のモデルになって欲しいんだけど」

 しばらく、時が凍りついた。目の前の竜がどのような反応をするのか、トレッカーは息を呑んで見守る。

「それは、私を絵に描きたいということか?」

 こころなしか、先ほどより声が高くなったようだった。感情が高ぶったのだろうか。シロツムジよりは感情が感じられる、とトレッカーは思った。

「ああ、そういうこと。俺の夢──いや、ほとんど姿を見せなくなった『竜』を描く事は、全ての才能ある自然絵師の夢だからな」

 トレッカーは既にこの氷竜の姿に見とれていた。早く描きたいという想いによって、言葉に躊躇いは無くなった。貧乏で無名でも、絵描きの端くれである。

「しかし、竜ならば他にもいるだろう」

「俺が育った町から一番近くにいるのが、あんただったのさ。それに、氷竜原の主はこの雪を生み出しているのだと、村では神格化されてもいる。それは他の竜と違うからな」

 クロムレイアは、初めて表情を見せた。人間と顔の形が違うため判りにくいが、それは自嘲の笑みか。

「馬鹿な話だ。私はこの気候を好んでここに居るにすぎない。やろうと思えば雪や氷を降らす事も不可能ではないが、そんな事はしたことがない」

「……」

 シロツムジが何か言いたそうにクロムレイアを見るが、すぐに無表情を取り戻した。トレッカーはそれに気付かなかった。

「やっぱりそうだったのか。俺もそう思ってたんだよな。人間が寄り付かない気候だからこそ、そんな場所に住んでるんじゃないかって。それで、モデルになってくれるのかどうかは……」

 トレッカーはいつもの調子に戻りつつあった。己の夢を目前にして、恐怖などは消え去り、期待が高まり、高揚する。

「……構わないが、その前に確認したいことがある」

「と、いうと?」

 氷竜は、シロツムジに視線を向ける。言葉は無い。

 しかし、猛禽の魔物は意味を悟ったらしく、首を立てに振ると洞窟の奥に向かって静かに羽ばたいていった。トレッカーは訝しげにそれを目だけで追った。

「氷竜ならば、他の氷竜でも良いのか?」

 その質問の意味がわからなかった。ここに、氷竜は彼しかいないはずだとトレッカーは思い込んでいたから。

「い、いいけど。あんた以外にも竜が?」

「生きて存在しているのは私だけだ。だが、死して完全な状態を保っている竜がいる── 描くのなら、彼女を描いて欲しい」

(彼女…?)

 クロムレイアの意外な言葉。

「わかった。俺はそれでもいいけど。その死んでる竜ってのは、どこに?」

 何故か、目の前の竜の表情が穏やかになった気がした。しかし今のトレッカーは、絵を描くことで頭がいっぱいで、そんな事もすぐにどうでもよくなった。

「この奥だ。ついてこい」

 氷竜は体を持ち上げると、ゆっくりと洞窟の奥に歩き出した。シロツムジがさっき飛んでいった方に。

 少し歩くと、氷の塊が見えてきた。その氷の中には、人間が生前の姿のまま入っていて、トレッカーは驚いて声をあげた。

 人間の氷づけは、どれも武装した屈強な戦士のようだった。

「これは……?」

 先を歩くクロムレイアに問う。しかし、答えは聞かずとも予測できていた。

「私に立ち向かった人間のなれの果てだ。その勇敢さだけに敬意を示した。魔物に食われるのを哀れに思い、こうしている」

 振り向きもせずに淡々と答える。さっきから、この竜からは冷酷とは違う冷たさを感じる。悟り、諦め、受け入れた者のような。そんな冷たさじゃないかと、トレッカーは思った。

 奥には、また広まった場所があり、その中央には巨大な氷塊があった。魔法がかけられているのか、光を放っていて洞窟の壁まで照らし出している。氷は綺麗に形が整えられていて、中のものがくっきりと透けて見える。中では、眠るように瞳を閉じた氷竜が一頭、誇らしげに翼を広げていた。クロムレイアよりは小柄な竜だった。その氷塊の傍らにはシロツムジが佇む。

「この竜……か」

 光を放つ透明な氷の中の竜。その光景のあまりの美しさに現実感さえ遠のいていく。

「リフェステ──彼女の名だ。こいつを描いてくれるか」

 神秘的な光景に目をとられながら、トレッカーはクロムレイアに強く頷く。

「もちろんだ。今にも動きだしそうだな……すごい。死んでいるとは思えない」

 そして、荷袋から画材一式を取り出し、描く準備を始めた。

 シロツムジとクロムレイアは、人間が絵を描くところを見るのは初めてで、そんなトレッカーの作業を興味深く見ていた。

「よし、ここからだな」

 描く対象を見る位置を決める。地面にキャンバスをおき、動かないように固定する。そして絵筆を数種類、油絵具を手元に並べた。かさ張るのでイーゼルなどは持ってきていなかった。


(クロムレイア様は、どのような心境なのだろうか……? 喜んでおられるのか……)

 シロツムジは珍しく主のことに疑問を持っていた。例によって、それは表情に出るものではなかったが。


「描き始めると、数時間それだけに集中しちまうから、できれば話し掛けないで欲しいな」

「わかった」

 氷竜は素直に頷き、その場に座り込んだ。そして──

「おまえの望みが、これから叶うかもしれないな……」

 呟いて、瞳を閉じるクロムレイア。その呟きが誰に対するものなのか、シロツムジは理解していた。

(狂っていた、おまえの望みが……)

 言葉に出さず、クロムレイアは付け加えた。

「よし、描くぞっ!」

 トレッカーが絵筆を取り、絵皿に絵具をいくつか用意し、描き始めた。

 静かな洞窟の中で、氷竜は眠り、猛禽の魔物シロツムジは見守るのみ。平和だが、誰が見ても奇妙な光景であった。



 クロムレイアは夢を──過去を見ていた。その曖昧な虚像は儚く、しかし確実に過去を見せ付けてくる。

 竜の魔力をもってしても、そんな夢を消す事はできない。

 ただ見続けることを強制される。それは既に、苦痛だとか不快だとかいう感情を抱かせるものではなかった。だが、何度も似たような夢を見ているため、飽き飽きしてきているという感はあった。



 氷で出来た花。

 幻想的なその花が一面に広がる。花びらを模した氷の破片が重力を無視して宙を踊る。氷の芸術。それらを生み出し、制御・維持してるのは一頭の雌竜。その舞台の主役である彼女は、悠々自適に翼をはためかせ、氷竜の舞いを披露する。

 観客と呼ぶものがいるとすれば、それは全て異形の魔物と竜のみ。そこは北の果てだ。氷山のふもと。人間が踏み入れることの無い、彼らだけの楽園。

 見渡せば広がる海面は、巨大な流氷に覆われている。その面積は小さな孤島を上回るだろう。

「あのリフェステとおまえが、な……同じ氷竜の種族とは言っても」

 氷竜クロムレイアが氷の上で体を伏せて休んでいると、一頭の黒い竜が空から降りてきて彼の側に立ち、そう言った。

「なんとでも思えばいい」

 瞳を開けることも無く、ぶっきらぼうな氷竜の返事。

「50年ぶりの婚礼の儀だというのに、おまえが主役ではあまり楽しめんな」

「それなら帰ればいい」

 特に怒っているわけでもなく、言う。これがクロムレイアの性格だった。

「古い仲間が祝いに来たのに、感謝の言葉の一つもないのか?」

 黒い竜は翼をたたみながら、尾でクロムレイアの背を軽く叩いた。言葉とは対照的に、彼の緑の瞳は楽しそうだ。

「言葉が欲しいのならくれてやるが。どんな言葉が欲しい?」

「変わってないなぁ、おまえ。まあいいけど」

 黒竜は、クロムレイアの横に腰を下ろす。そして、リフェステの舞台──氷の花が咲き、花びらが舞う低地を見下ろす。一緒に空のダンスを演じているのは、白い猛禽の魔物1匹。リフェステの唯一にして優秀な従者だ。

「できれば経緯が知りたいかなあ」

 にやりと口元をゆがめ、黒竜が言う。

「『私に子供をくれなければ殺す』と言われた。ほとんど脅迫と言える。それだけだ」

 全く同じ調子でそんなことを口にする。動揺もしない。

「ははは……彼女らしいな。で、おまえともあろう者が、殺されるのが怖くて、承諾したってわけか?」

 クロムレイアは初めて面倒くさそうに蒼い瞳を開き、隣にいる黒竜を見た。

「彼女が躊躇いなく私を殺そうとすることは、おまえにもわかるだろう。死にたくない事もあったが……」

 そこで言葉をとめた。黒竜は沈黙し、クロムレイアの目を見て先を促す。

 クロムレイアは声のトーンを少し下げ──

「断る理由も特になかった」

 言いながら、黒竜から視線を逸らし、舞いつづける氷竜──配偶者となったリフェステを見る。ちょうど、彼女がクロムレイアたちの方に近づいてきていた。

「げ、リフェステが来る。俺は逃げさせてもらおう。また後でな」

「好きにしろ」

 黒竜はなぜか焦り、あわてて翼を広げた。そして、勢いよくその場から飛び立つ。

「クロ! せっかくだからもっと踊りなさいよ!」

 リフェステの甲高い声が、クロムレイアと黒竜の耳に突き刺さる。しかし飛び立った黒竜が空中でバランスを崩したのは、彼女の声の大きさのせいではないだろう。奇妙な愛称。

 黒竜は微笑しながら、一度宙返りをして飛び去った。

 クロムレイアは目の前を華麗に飛び回る雌の氷竜を見る。同族の誰からも最強と言われるその氷竜を伺いながら、断る口実を考える。こういうところで目立つのは嫌いだった。

 リフェステは勢いよくまくし立てながら、クロムレイアの前肢を咥えて強引にひっぱる。

(確か、あの時は足が出血したな……)



 そこで夢は一度終わり、時が跳躍する。

 夢とは混沌としていて、無秩序なものだ。



 少し新しい過去。激しく興奮している自分がいた。それがいかに珍しい事なのか。

 ──そういえば、あの時から私は変わったのだろうか。

 クロムレイアは怒鳴っていた。

「いまだかつて、自ら死を選んだ竜なんて聞いたことがない!」

 リフェステはそんなクロムレイアを見て、意外そうにしていたが、すぐに面白そうに微笑した。その表情がクロムレイアをさらに腹立たせる。

「じゃあ私が一番乗りになるわね。それだけのことでしょ?」

 リフェステのほうが落ち着いている。こんな場面は、クロムレイアのことを知っている者には予想できないだろう。

「私はね、自分が一番綺麗な時の姿を、永遠に、この世界に残したいだけなの。時間は無慈悲。竜族も数百年しか生きられない。私の綺麗な体は、これから衰えていくのみ。それに耐えられない」

 リフェステは死などまるで気にしていない。夢見るように、視線をどこかに漂わせている。

(この時、彼女を攻撃して消耗させてでも阻止するべきだった……)

 だがクロムレイアは彼女の体を傷つけることができなかった。

「おまえは狂ってる!」

 言葉だけ。罵声にも聞える。そんな言葉だけが、でてくる。

「そんなこと、最初からわかってたでしょ? あなたはそんなにバカじゃない。私は他の竜と違って、狂ってるの。身勝手なの」

 もう彼女が何を言っているかわからない。

(夢だからか? いや、あの時もそうだった)

 クロムレイアは混乱していた。

「子供はどうするんだ。おまえがいなくて、子供はどう思う? おまえが必要じゃないのか!」

 まだ卵からかえったばかりの幼竜。名前も決まっていない。その時は静かに洞窟の奥で眠っていただろう。しかし、子供というのは問題のすり替えだった。

「大きくなってから、時間の止まった私の姿を見せてあげればいいじゃない。たぶん、誇りに思ってくれるはずよ。名前をつけるのも、育てるのもあなたにまかせる。雄だったのが少し残念だけど、私とあなたの血を引いているわけだし、強さと美しさを兼ね備えるのは確実。 ……それにしても、あなたがそんなに私のことを心配してくれてたなんて、意外ね。誘いは強引だったでしょうに?」

 自信過剰のような言葉だが、当然の自信と言えた。事実としてリフェステは、最強であり、最も美しい雌竜と言われていたのだから。

 ようやくクロムレイアも少し感情を制御できるようになってくる。

「私だけに全て押し付けて、その後の事も考えないのか? 逃げるのか? 全ての生ける者は歳をとり、衰えていく。外面の美しさなどの為に、逃げるのか? 子供も、美しい死体などより、多少老いていても生きている親を望むと思わないのか?」

 彼女は返答せずに微笑し、氷の結界を自分を包むように張り巡らせる。

「──!」

 それを見たクロムレイアは、彼女の行為を阻止するために、その結界に向かって大きく跳躍し、魔力を込めた前足の爪を結界に叩きつける。だが、結界は壊れない。厚さ10センチもない薄い結界を隔てて、彼女は笑っている。

「くそっ! やめろっ!」

 彼女とクロムレイアはほぼ魔力の限界出力が同じ。この結界は、限界まで魔力をつぎ込んで作ってあった。クロムレイアも限界まで力をひきだし、爪を叩きつける。それでも破壊するには、時間がかかってしまう。間に合わない。

「やめろっ!!」

 もうどうする事もできなかった。リフェステは結界を維持しつつ、新しい魔法を発動させようとしていた。

 自分を氷の中に封印する魔法。同時にその中の時間をも凍結させる魔法。その中に自分を封じるというのは、死と同義だ。解除の為の暗号鍵が彼女にしか解らなければ、誰にも封印を解除することはできない。

「あああああああああああ!」

 がむしゃらに叩きつけられる爪。

 足元から氷に包まれてゆくリフェステの体。

 意味を成さないクロムレイアの絶叫。

 彼女はゆっくりと瞳を閉じる。ゆっくりと翼を広げる。本当はそんなに長くなかったその時間が、長い。それは夢だからか。

 夢はそこで消えていった。夢では聞えなかった彼女の最期の声は、自分の意識で補った。

「後はよろしくね」




「あのー、できたんだけど! クロムレイアさーん」

 トレッカーの大きな声で、氷竜は目覚めた。長い時間眠っていた事が、竜の持つ優れた時間感覚によってすぐにわかる。

 トレッカーは、大きくて丈夫なキャンバスを両手で持っている。そこには彼女の絵が描かれているはずだ。

「そうか」

 氷竜に夢の余韻はほとんど無かった。ただ、少し気分が高揚しているのが自分でも解っていた。

「ははは! これで金貨が……じゃなくて、俺の夢が叶ったんだ! うはははは!」

 そんなクロムレイアとは違い、トレッッカーは子供のように無邪気に喜んでいた。

「見せてもらえるか?」

 トレッカーは自信有りげに頷き、クロムレイアに向かって紙を裏返した。

 そこにはリフェステがいた。

 キャンバスの大きさという制限で縮小されているが、全ての描写が完璧だった。氷にあたる光の反射の繊細な描写。時の止まった氷竜は、鱗一つ一つまで丁寧に描き込まれ、紙の上でも美しかった。安らかな表情もそのままで。

「これが、絵か……」

 クロムレイアの眼は絵に釘付けになる。自分の手で一つの現実を描き写す。一つの現実を、残すということ。竜にはない、人間の文化だった。

 理由も無く、嬉しかった。

(──リフェステの願いが少し実現するからか? ……違う)

 人間と、争い以外に何かを共有できたことが心地よいのではないか。それは数百年ぶりだった。

「いいものだな。ありがとう」

 自然に出た感謝。意外な上に、感情らしい感情が込められた氷竜の言葉を初めて聞いて、トレッカーは目を丸くした。

「それって、俺が言うセリフだと思うんだけどな……」

「そうか。そうだな」

 氷竜は口元を緩めた。

「しかし、絵が気に入ってもらえたようで良かったぜ。正直、下手な絵を描いたら氷像にされるかとも思ったから」

 胸に手を当てて、大げさに溜息を吐くトレッカー。

「争いを望まない人間に危害を加えたことは無い。人間は私たちについてかなり偏見を持ってしまっているのだろう」

(レステアは、人間と共に生きているようだが……それもいいのかもしれない。あいつが帰ってきたら、またゆっくり話を聞くか)

 クロムレイアは、一人立ちしていった我が子のことを考えた。

「残念ながら偏見はあるだろうなあ、やっぱり。俺だって偏見持ってたわけだし」

 トレッカーは言いながら、荷袋を抱え上げた。

「さて、用事も済んだことだし、そろそろ帰ってもいいかな。ここは俺なんかが長居していい場所じゃない気がするんで」

「そうか。おまえならばいつでも歓迎するが、帰るなら、私が村まで送ろうか?」

 最初より少し親しげになったクロムレイアの態度。その奇妙な変貌ぶりに翻弄されるトレッカー。だが、その言葉には常に冷静だったシロツムジも驚いていた。

「クロムレイア様、それならば私が……」

 クロムレイアは軽く目配せをし、首を横に振った。それでシロツムジは沈黙した。主の決定に、従順な使い魔は口を挟まなかった。

「えっと……いいのかね? そりゃ、俺もそのほうが楽で嬉しいんだけど」

 クロムレイアは静かに立ち上がる。

「決まりだな。シロツムジはここにいろ。行ってくる」

 誰かの為に翼を使うこと。

 それはクロムレイアにとって、新鮮なものだった。




 数日後、クロムレイアは再び、氷の中のリフェステに会いにきた。今までは、一年に数回くらいの頻度でしかここに来ていなかったのだが。

 今日はいつもと違って、シロツムジが居なかった。

 シロツムジは、元々リフェステの従者。彼女が命を絶ったため、その後は伴侶となっていたクロムレイアに仕えるようになったのだった。

「断ち切らねばならない、と最近思うようになっていたのか……」

 一人で呟く。というよりも、目の前の彼女に話し掛けているようだった。瞳も彼女を見ている。少し寂しそうで、それよりも力強さのある瞳で。

「トレッカーがおまえの絵を描いた時、はっきりした。おまえは死ななくてもよかった。美しい体を残す方法は、他にもあったのだから。だが今更それを後悔する気も無い」

 しかし安らかに眠る彼女は答えない。動かない。ただそこに在るだけだ。

 命を失った者に囚われる。それも悪くないかもしれない。わかりやすい、悲壮の、懐古の、後悔の対象としてのそれに囚われ、生きること──

 クロムレイアの四肢に力が入る。洞窟の地面に爪が食い込んでいく。

(生きているようで死んでいるおまえと、死んでいるように生きている私…… どちらが良いとも言えない。私は、それでも構わないと思っていた。その生き方を否定する理由も必要も無かった)

 自然力場──マナに乱れが生じる。クロムレイアに集約された魔力の影響である。静かに、クロムレイアの体に薄く光がまとわりつく。

(だが、もうやめよう。おまえは過去のあの時に止まっていて、私は今もこの時の流れに身を置いている。今更になっておまえが嫌いになったわけでもない。この行動に何か意味があるとすれば──)

 脳裏に巡る、リフェステの言葉。

 ──後はよろしくね

「私が、狂ったおまえの躯から解放されるということ。私の『時』は、止まっていない」

 クロムレイアが、かっと口を開く。その中には凝縮したような光が見える。全ての色が現れては消えることを繰り返す、魔力の塊。純粋な殲滅のためだけの力。得意な冷気や水の魔法とは違う。

 それがクロムレイアの口の中で爆発したかと思うと、殲滅の為の奔流となった。口から出て空間の全方向に広がりながら、リフェステとそれを包む氷塊に向かう。

 氷の封印を解く事はできない。だが、壊すことはできたのだ。あの後から、ずっと。

(これでいい)

 リフェステの姿が光の中に消えていく。

 全てをかき消してしまう光。なにもかも、綺麗に、平等に。

 まわりの氷も共に消滅した。封印魔法が壊れた余波と思しき衝撃波が、洞窟の中を蹂躙する。その空洞を囲む全ての壁が崩れ始める。

 風の音しか聞えない広大な氷竜原に、轟音が響く。崩壊する巨大な洞窟。舞い上がる柔らかい雪と、瓦礫から出てくる塵が白い煙を作る。

 やがて白煙は風に流されて消え、洞窟の跡に佇む竜が見える。クロムレイア。

「死した者はやがて朽ちて消える。在るべき自然の流れ。私はおまえの屍を守っているつもりだったのかもしれないが、今ではそれも愚かしく思える。私は生きている。生きていれば時が流れ、変わる。変わったからか、死者に縛られるよりも良いと思える選択肢を見つけてしまったのだ」

 クロムレイアは顔を上げて空を見る。いつもと同じ灰色の空。

 思い切り翼を広げると、大地を蹴り、飛ぶ。澄んだ大気を全身で感じる。

「さて……新しい住みかを探すか」

 自分の為に翼を使うこと。

 それはいつもと同じはずなのに、極めて良い心地だった。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  氷の世界が、丁寧に描かれていたように思います。 [気になる点]  僭越ですが、記述の点で気になった部分をいくつか。  「零下10度を超える」=「零下10度を下回る」ではないかと。  …
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