星のない夜
同僚の沖布目の指摘で、まさにその日が結婚記念日であることを思い出す祐介。
白い薔薇の花束を携えて帰宅した矢先、妻の部屋にある本棚から、辞書に隠された英文の「白雪姫」を見つけてしまう。
祐介が恵那の部屋で「毒リンゴ」を発見してから、経過したのは10分余りだったが、彼にとっては数時間にも感じられるほどの重い、重い時間だった。
さっきから心臓がうるさい。
考えが逡巡し、全くまとまらない。
「毒リンゴ」——「白雪姫」は異論を挟む余地もなくAランクの有害図書として認定されている。
義娘の美しさに嫉妬して毒殺しようとする継母、都合よく使役される小人たち、毒リンゴで眠りについた白雪姫に同意を得ることなく口づけする王子——などが、反社会的描写であるとされる。
普段の祐介であれば、物的証拠を発見し、被験者を確保したのち、拘束班に連絡して一件落着、といったところであるが、拘束する?恵那を?あり得ない。
しかし、祐介は思想保安官である。
個人の単純所持とはいえ、摘発の網を抜けることがいかに困難か、よく分かっている。
まして今手元にある「白雪姫」は、よく市中に出回っている粗悪なモノクロのコピー本ではない。
豪奢な誂えの表紙はもちろんのこと、中の挿絵に至るまでフルカラーで彩色されており、しかもかなりの美品である。。
好事家もとい、思想犯から見れば垂涎物であるだけでなく、闇市場ではサラリーマンの生涯賃金ほどの値がつくだろう。
このご時世に、よくもこの保存状態で残っていたものだと感心するほどである。
リビングの柱時計が鐘を鳴らし始め、祐介を現実に引き戻す。
アンティーク好きの恵那が東欧から取り寄せた年代物で、1980年代のものと聞いた。
今時ゼンマイ動力であり、ネジを定期的に巻いてやらないと次第に時計の針の進みが遅くなっていくのだが、そういった不便なところも気に入っているらしい。
だが、現在ネジを巻く役割は専ら祐介にシフトしてしまっている。
柱時計の5回目の鐘が響き終わった瞬間、祐介は大きく息を吐いた。
心臓の音はまだ収まらない。
耳元で血が脈打つ音がまるで遠くから聞こえるサイレンのようで、不気味だ。
彼はゆっくりと絵本を閉じた。表紙を縁取っている金箔が、指先に冷たく残る。
よりにもよって、と漏れ出た吐息のように呟く。
目の前にある見事な装丁の絵本が、現在の国内でつくられたものでないことは明らかである。
言うまでもなく、有害図書の他国からの輸入は固く禁じられている。
空港、港湾等の税関では、出向した思想保安官が密輸を防ぐべく水際で常に目を光らせている。
密輸に関しては一般の単純所持よりも重罪とされ、矯正施設における教育を受けることなく、即手術台行きだ。
この「毒リンゴ」がどのようなルートを経て恵那の部屋の本棚に収まっているかは現在のところ見当も付かないが、手術のために毛髪をすべて刈られようとする恵那の姿を想像し、腹は決まった。
―――もはや、これしかない。
祐介は、白手袋を嵌め、「毒リンゴ」の表紙とすべてのページに特殊薬剤を吹きかけて指紋を完全に消すと、仕事用の鞄にしまい込み、毒リンゴ入りだった“辞書”を本棚の元の位置に戻した。
祐介の仕事用の鞄には、盗聴器、鉈、GPS付発信機など、調査に使用する道具がすべて収納されており、調査経過記録用の小型端末を収納するインナーバッグも入っている。
インナーバッグの隙間に絵本がすっぽり収まったのは不幸中の幸いなのだろうか。
恵那の部屋を退出し、仕事用の鞄を自室へ放り込むようにしまう。
廊下に半ば打ち捨てるように置いた花束を拾い上げる。
半時を告げる柱時計の鐘が鈍く鳴るとほぼ同時に玄関の電子ロックが外れる音がカチリと鳴ると、恵那が扉を開け、買い物袋ごと体を滑り込ませてきた。
祐介と目が合う。
「あれ、早いね、もう帰ってたの?」
今日は結婚記念日だからね、と応える。
努めて笑顔を作っているつもりだが、うまく笑えているか、わからない。
花束を恵那に差し出す。
「白い薔薇!私の一番好きな花、覚えててくれたんだね」
買い物袋を一旦廊下に置き、祐介から受け取った花束を腕一杯に抱えると、恵那は嬉しそうに笑う。
「ごめんね、お夕飯、今からなの。悪いけど、ちょっと待っててね」
祐介は買い物袋をキッチンまで運ぶ。買い物袋の隙間から、いつもの合成肉ではなく、祐介の好きな牛肉が見える。
今日のために、恵那が奮発したのだろう。
何か手伝おうか、と声を掛けるが「いいから、ゆっくりしていて」とキッチンを追い出された。
確かに、残念ながら料理は不得手だ。
楽しみに待ってるよ、と言いつつ、ベランダに出て電子タバコを咥える。
既に日は落ちている。
3月半ばとはいえ、冷たい風が制服の隙間から身体に沁みる。
そういえば、着替える暇も無かったな、と独り言ちた。
恵那の笑顔を見られたのは本当に久しぶりだ。
喫煙所で沖布目にたまたま出くわしていなければ、また彼女を悲しませていたかもしれないと考えると、やはり感謝せねばなるまい。
やがて、ベランダの窓ガラスをコンコンとノックされると「ご飯、できたよ」とお呼びがかかる。
冷えた体のためか、暖かい室内に入るとほうっ、と息が漏れる。
恵那と他愛もない話をしながら、その料理に舌鼓を打つ—つもりだったが、何故かあまり味を感じず、やむなくワインで喉に流し込む。
考えまい、とするほど祐介の頭の中でそれは次第に大きくなり、鎌首をもたげる。
そういえば、今日は雲一つない快晴のはずだったが、空には星が一つもなかった。




