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毒リンゴの誘惑

古書店の調査を終え、店主の身柄を拘束班に預けた祐介。

署への帰路の途中、思い出したのは、採用後の研修で思想再犯として拘束された女性が、電極に脳を灼かれる姿を見学した際の生々しい記憶だった。

春坂市内を北に走らせると、やがて8階建ての古ぼけたグレーのビルが目に入る。


いつものようにコンビニのところで右折すると、駐車場の所定の位置に車を停めた。


この庁舎は1990年代に建てられたもので、一応補修はしているものの、周囲のガラスコートのビル群と比べると、やはり見劣りの感は否めない。


思想保安署が入る前は複数の官庁が入居する、いわゆる合同庁舎であったが、現在は1階から8階まで思想保安署が入居している。


思想保安署のセクションは大きく3つに分かれており、AIを活用して潜在的な嫌疑者を抽出する「思想犯罪対策部門」、丸岡らが所属する、確保した嫌疑者を矯正施設へ移送する「思想犯拘束部門」、そして祐介が所属する「思想犯調査部門」がある。


それぞれの部門は1から9までナンバリングがされており、祐介が所属する思想犯調査第2部門は庁舎の6階にあるため、これも年代物のエレベーターで自身のオフィスがあるフロアへ移動した。


戻りました、と祐介が上司である西長田に声を掛けると、その50過ぎの白髪交じりの癖毛の男は手元の端末から目を離し、カエルのように離れた両目のついた、脂ぎった顔を上げた。


西長田の端末には、中高年に人気のパズルゲームのプレイ画面が映し出されている。


「ご苦労さん。タレコミどおり『モモ』だったかね」


「はい、粗悪なコピー本でしたが、2つ出ました」


公安系の官庁のように、思想保安署においてもいわゆる「()()」が使用される。


その物語の象徴的な存在が主として対象となり、例えば、桃太郎なら「モモ」、シンデレラなら「ガラス」といった具合だ。


公務員ではあるが、この仕事にはノルマがある。

有害図書の版元を摘発することが出来れば最も評価されるが、全てアングラで行われているが故に一筋縄ではいかない。


単純所持犯を摘発し、地道に入手ルートを辿っていく他はない。


なお、同じ単純所持犯でも、有害図書のランク(A・B・C)で評価が変わる。


例えば今回の「モモ」は「Aランク」であるため、同じ単純所持犯の摘発でも最高評価である。


「ウチがもう少しで1部門に上がれるのもキミのおかげだ、『対策』からまた新しい嫌疑者リストが来たから、これからもビシビシと頼むよ」


ノルマの達成成否は、部門の「数字」に反映される。


半期毎の評価で、優秀と評価されれば3→2→1のように若い数字となり、逆にお粗末であれば3→4→5と数字が増える。


祐介が3年前にこの署に赴任した時は「第8部門」であったが、彼の抜群の調査事績によって部門全体の業績が底上げされ、「第2部門」にまで駆け上がってきたのだ。


第1部門の統括思想保安官ともなると、次は署長の椅子が見えてくる。


3年前は「第8部門」の窓際管理者であった西長田からすれば、夢にも思わなかった地位で、まさに僥倖と言うほかはない。


無論、業績を上げ続けている祐介自身にも特別昇給や特別賞与等のインセンティブはある。


しかし、目の前の決して有能とは言えない男が言わば「棚ぼた」で栄達していくのを見る度、やるせない気分になるのは事実であった。


善処します、とだけ呟くと、西長田から嫌疑者リストを受け取り、自分のデスクへ向かう。


本来ならば嫌疑者リストから調査対象者を選定し、次の仕事に備えるのだが、どうにも意欲が出ない。


リストを脇机の引き出しに叩き込むと、早々に喫煙所に向かった。


そこら中ボロボロの役所だが、唯一良い点があるとすれば、今の時代には稀有な喫煙所があることだ。

「SMOKING ROOM」と表示された小汚いドアを開け、壁中タール色に染まった部屋に入ると先客はおらず、しばらく一人で電子タバコを吹かしていると見知った顔が入ってきた。


同期の沖布目だ。


年齢は祐介と同じ41歳で、「対策部門」の統括思想保安官になっている。


「よう、しばらくだな」


祐介に声を掛けつつ、紙巻タバコに火を付ける。


よりによってこいつか、と祐介は内心毒づいた。


沖布目は、どうやって調べているのか、署内の人間の誕生日や記念日はおろか、家族の誕生日まで把握している。


そして絶妙なタイミングで幹部へ贈り物をしていることから、付いた異名が「付届けの沖布目」。


一連の活動と、彼が同期で最も早く管理者である統括思想保安官になったことは全く無関係ではないだろう。


陰口を叩かれるが、本人は知ってか知らでかどこ吹く風である。


祐介も、率先して陰口は叩かないまでもあまり彼のことは得意ではない。


「いつも残業して忙しそうだけど、流石に今日は定時で帰るんだろ?」


沖布目の質問の意図を図りかね、しばらく黙っていると、


「結婚記念日くらいは早く帰らんとなあ」


祐介の背筋に冷たいものが走り、電子タバコを持つ手が硬直する。


手元の時計を見ると、今日は確かに3月12日、恵那との結婚記念日だ。


去年は、大型の調査事案が立て込んでおり、記念日などすっかり忘れていた。


夜中に帰宅すると、祐介の分だけラップされた普段よりも手の込んだ料理と、ラッピングされたブランド物のネクタイがダイニングテーブルに置かれており、瞬時にその日が何の日であったかを悟った。


既に恵那は寝入っていたため、翌朝、激怒されるのを覚悟で謝罪した。


彼女は、「仕方ないよ、大変なお仕事だもんね。いつもお疲れ様。」と言うと口元だけ微笑み、もうこの件には触れなかった。


幸い、今仕掛り中の調査事案はない。


新規調査事案の対象者など、明日でも全く構わない。


内心、沖布目に感謝しつつ、自分のデスクに戻り、15時からの有給休暇を申請した。


上司の西長田には急で申し訳ありませんが、と形だけ詫び、庁舎の時計が15時を指すと同時に署を後にした。


妻に贈るものは既に決まっている。


彼女が一番好きな花、白い薔薇の花束だ。


幸い、自宅の最寄り駅近くに比較的大きな花屋がある。


電車から降りるや否や、花屋へと駆け込む。


99本を花束にしてくれ、と伝えたが仕入れ状況から無理だとにべもなく断られ、やむなく在庫全ての50本の花束で妥協することにした。


花束を持ち、自宅までの道を徒歩で進む。


少々気恥ずかしいが、致し方ない。


祐介の自宅は3LDKの分譲マンションであり、2年前に購入した。


夫婦2人暮らしのため、1室を夫婦の寝室にし、それぞれ自分の部屋も持っている。


こんな早い時間に帰ったら驚かせてしまうかな、などと考えつつ、マンションのエントランスに入る。


エレベーターで12階まで上がり、自宅のドアにカードキーをかざすと、カチリとロックが外れる音がする。


ドアを開け、ただいま、言いつつと玄関に入る。

部屋の照明は点いているが、恵那の声は返ってこない。


廊下の手前左側が祐介の部屋で、対面が恵那の部屋だが、恵那の部屋のドアが半開きになっている。


自室にいるのかと思い、恵那の部屋のドアをノックする。


ノックの乾いた音が響くが、返答はない。


入るぞ、と一応声を掛け、恵那の部屋へ入室する。


思えば、彼女の部屋に入るのはこのマンションに引っ越してから初めてかもしれない。


こちらも照明は点いているが、彼女は不在であった。


部屋は綺麗にされており、小柄な彼女ではおよそ一番上まで手が届かないであろう大きな本棚には、彼女の趣味の料理と手芸の本が整然と並んでいる。


一番上の棚は洋書のゾーンらしく、分厚い辞書の類も入れられていた。


妻とはいえ、他人のプライベートルームに許可なく入ってしまった罪悪感から、早々に退室しようとする。


しかし——思想保安官として磨かれてきた祐介の勘が――純然たる違和感を彼に突き付けてきた。


小柄な人間が、自分では手も届かないあんな位置に、分厚い辞書を普通置くか?


嫌な予感が脳裏を掠める。


祐介の理性はやめろ、やめろと警鐘を鳴らす。


しかし、理性の部分と裏腹に、彼の身体はつま先立ちとなり、辞書に手を伸ばす。


ずしり、とした重みが右手に伝わってくるが、これは本の質量のみのものではないだろう。


結果からすると、祐介の思想保安官としての勘はこの上なく正しかったと言わざるを得ない。


表紙はイミテーションであり、接続部分のツメを外せば簡単に取り外すことが出来た。


「辞書」の中央部———窪みの部分には1冊の本が収納されている。


もはや、祐介の頭の中には、先ほど廊下に打ち捨てた白い薔薇の花束のことなど欠片も残っていない。


「Snow White」と題されたその本の表紙には、お姫様らしき女の子と7人の小人たちが可愛らしいタッチで描かれていた。

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