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スローライフを満喫する 3

◇◇◇



「あら、今日はリヒトなのね」


 空が深い藍色に染まり、星の綺麗な夜。寝る前はユリスが私を部屋まで送り届けてくれるのに、今日やってきたのはリヒトだった。いつもハーフアップにしている長い髪は下ろされていて、普段と少しだけ雰囲気が違う。


 珍しいなと思いつつ隣に並んで歩いていると、「私では不満でしたか」なんて、そんなことを尋ねられた。広い屋敷内にいるのは少人数ということもあり、夜の廊下はとても静かだった。


 ちらと視線をリヒトに向け、「あれから貴方は私と距離を取っているようだったから珍しいなと思っただけよ」と返す。「あれから」とは、私が彼らが集まる談話室へ行った日のこと。彼らの本音を聞いたあの日、である。


「他の仕事で忙しかったもので、なかなかご一緒できなかっただけですよ」


 愛想笑いを浮かべながら部屋の扉を開けてくれたリヒトに、私は「そう」と返して中へと入る。広すぎる自室にはいまだに慣れないけれど、好きな本が並ぶ本棚を置いてもらったおかげで、ここで過ごす時間は楽しいものになっている。


 三人掛けの大きなソファに寝転んで読書をする時間は、最近のお気に入り。ベッドサイドのテーブルには、ユリスが毎日摘んで持ってきてくれる花が花瓶に生けられていて、ほんのりと花の香りが漂っている。


 ソファに腰かけると、リヒトがハーブティを用意してくれた。


 寝つきが悪いとルカに漏らして以降、毎晩リラックス効果があるというお茶を淹れてくれるようになったのだ。それを飲んでからだと、よく眠れるようになったので、毎度お願いをしている。透明のティーカップにゆっくりと注がれていくハーブティーから、ふわりといい香りがした。


「どうぞ、本日はカモミールをご用意いたしました」

「ありがとう」


 優しい香りに、自然と口元が綻んでいく。今日は朝から畑仕事で体力を使ったせいか、体が随分と疲れていたので、心がほっと落ち着くハーブティーがいつも以上に体に染みる。


「今日は畑仕事をなさっていたのだとか」


 リヒトが自分から話しかけてくるなんて意外だった。ユリスやルカと違って、彼にはどこか線を引かれている自覚はあったので、どういう風の吹き回しだろうと、少し警戒する。


「トマトとレタスを育ててサラダを作る予定よ。好きなことをしていいって言われたもの。この機会に、前からやりたかったことを、どんどんやっておこうと思って」


 そこまで言って私は「ダメって言われても、やめないわよ」と、側に控えるリヒトを見上げた。すると、ふと口元を緩めた彼。


「貴女は聖女様なのですから、何をしようと咎める者はおりません。貴女が望めば、全ては貴女の意のままです」


 そう言ったリヒトが私の隣に腰かけたかと思うと、ぐっと距離を縮めてくる。途端に、部屋の中の空気が変わった気がする。息遣いが聞こえそうなほど彼の顔が近くにあり、私の胸がドキドキと鳴り出した。


「……そのために私たちがいるのですから」


 そう言って長い髪を一束取られたかと思うと、そっとそこへ口づけを落としたリヒト。その瞬間、彼の長い髪がさらりと肩を流れ、月灯りに照らされた横顔がよく見えた。


 美しい人だと、そう思った。


 流麗な切れ長の瞳に、筋の通った高い鼻。陶器のようななめらかな肌は、きめ細やかで傷一つない。ちらと顔を上げた彼は、誘うような妖艶な表情を浮かべ、ゆっくりと私の耳元に顔を近づけてきた。


「……広い部屋で、一人寝るのは寂しいでしょう。今宵は私が、お側にいましょうか」


 吐息とともに、耳元で聞こえてきた低い声。甘く囁くその声は艶っぽく、私は彼の言わんとすることを理解した。静かな部屋には、私たち二人だけ。ここで何をしようが、咎める者なんて誰もいない状況である。


「……確かに、この部屋は広すぎるわね」


 私は真正面からリヒトを見据え、口元に笑みを浮かべた。すると、ふと笑んで、ゆっくりとこちらに伸びてくるリヒトの手。私は膝の上でギュッと自分の両手を握りしめた後、それからリヒトの後頭部にぐいと手を回し──。


 ガンッ!


 「~……っ!」


 そのまま彼の額に、自分の額をぶつけてやった。油断していたのか、リヒトは額に手をやって私の額がぶつかった部分を抑えている。


「何するんですか、アリシア様!」

「それはこっちの台詞よ」


 額をさすりながら、こちらを見上げる美貌の男に私は大きなため息をついた。


「どうせ、これも聖女様のご機嫌取りのひとつなんでしょう? 『女なんて甘い顔を見せれば、簡単に手に堕ちる』とか、あの胡散臭い教会のおじさんなら言いそうだわ」


 私がソファに座り直しながら、そう言えばリヒトは「私が望んでしたことです」と、ためらわす答えた。


「その割には、まったく心がこもっていなかったけど?」

「ならば、もう一度試してみますか?」


 真正面から私の目を逸らさぬまま、そんなことを言う守護騎士に私は少しだけ同情した。


 ここにいる四人の守護騎士たちは、代々聖女を守る騎士を輩出する名門出身だと聞いている。きっと、彼らは課せられた役目を果たすため、一族の期待を背負って今この場にいるのだろう。まだ自分が何者なのかもよく分かっていない、こんな小娘のために。


「じゃあ言い方を変えるけど、私は貴方たちにそういうことを求めるつもりはないから。過剰な接触はNGよ!」


 まだ分からない頑固な守護騎士に、ソファから立ち上がり腕組みをしながらそう宣告する。


「その気なんて全くないくせに……。自分のことを、そういう扱い方しないの」


 私がそう言えばリヒトは目を見張った後、今度こそ諦めたかのように、ため息をついた。それから「やはり貴女は変わっていますね」と呟いた。


「私が甘い言葉を囁けば、女性はみな頬を染めてしまうというに」

「顔がいいからって簡単に絆されるほど馬鹿じゃないわよ、私!」


 そんな風に言われるのは心外だ、と思って反論すれば、リヒトは長い髪をかき上げながら「私の誘いに乗らなかったのは貴女が初めてですよ」などと言い放つ。何だ、その自慢話は!


「……別に、貴方たちが必死にならなくたって、私どこにも行かないわよ。どうせ行く当てだってないんだし。ここへ来た時みたいなあんな贅沢三昧な生活は性に合わないから、慎ましやかな日々を送るから安心してちょうだい」

「……みな、最初はそう言いますが、結局人は欲に溺れる生き物ですよ」


 リヒトの言葉に「みんな……?」と首を傾げる私。どういうことだろう、と尋ねてみようとしたけれど、ソファから立ち上がったリヒトを見上げれば、「果たして貴女はどうでしょうね」と呟く彼と目が合った。


 そこには、どこか寂しさを感じさせる声色が混じっていて私は言葉に詰まる。口をつぐんだ私をよそに、リヒトは「先ほどの無礼をお許しください」と言って、律儀に頭を下げた。


「別にいいわよ。……だけどもう、ああいうことはしないで」

「心に留めておきます」


 そう言って「おやすみなさいませ」と出ていこうとしたリヒトだったけれど、「そういえば」と思い出したようにこちらを振り向いて、今度はにたりと嫌な笑みを浮かべる。


「明日から聖女様の結界魔法の力を引き出す強化訓練が始まります。今日のように、呑気に畑仕事をする時間はございませんので」と言いながら――。

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