第2話 隣の席は浮気くん?
奈子はその甘くねっとりとした声をかき消すように頭を振ってから、目の前の男に問いかけた。使い慣れない敬語に、口が上手く回らない。
「どーしたら大人になれる、ですか」
「早速人に聞いたことは褒めてやる。……まずはクラスメイトどもに挨拶だな」
そう言った男は、奈子の襟首を引っ掴んだ。足が地面から浮いて、ぶらぶらと揺れる。
「おお……せんせ、力持ち」
「飯田先生、な。お前の担任の名前だ。よく覚えとけ。あとお前軽すぎんだろ。ちゃんと食ってんのか?」
「たぶん?」
「……俺は保育士の資格は持ってねえんだが。はあ、とにかく教室に行くぞ。道、覚えろよ」
「あい」
呆れたようにため息を吐くが、飯田の目に冷たさは感じない。
奈子の行動を見た教師は、理解できないという視線や関わりたくないという目をよくしていた。彼からは今のところそういった感情は見えない。……逆に野良猫に対するような扱いなのだが。
「よし、ここがお前のクラスだ。1年1組。覚えやすいだろ」
まだ授業中らしく、教室まで来るのに誰にも会わなかった。道中、飯田はまるで幼児に教えるように案内してくれた。そこまで馬鹿じゃないのにな、と思いながらも大人しくそれを聞いていた奈子である。
ちなみに途中で首は離されて、自分で歩いてきた。
「司馬先生、すみません授業中に」
「おや、飯田先生。いいんですよ、少し早いですが終わりにしようとしていた所ですから」
教室には入らずドアだけを開けた飯田に、教壇に立つ壮年の男――司馬は穏やかに笑ってそう言った。その言葉の後にタイミングよくチャイムが鳴る。
「チャイムも鳴ったことですし。私はこれで」
「ええ。お疲れ様です」
さっと教材をまとめた司馬は、飯田に軽く頭を下げて教室を出る。その際、彼は奈子にもニコリと笑みを浮かべてから去っていく。白髪に黒縁の眼鏡をして笑う姿は、物語に出てきそうな「やさしいおじいさん」だった。
「おら、注目! 昼休みに入ったところ悪いが、少し時間を取らせるぞ」
「イダセンどうしたの?」
「もしかして、なんかの差し入れですかー」
「なんで、俺が差し入れなきゃならねえんだよ。――――ほれ、最後のクラスメイトだ。適当に自己紹介とかしとけ」
揶揄うように言う生徒たちをあしらってから、飯田は再び奈子の襟首を掴んだ。そして、教室の中に放り込む。
「んじゃ、俺は昼休憩入るから。よろしくなー」
後ろ手に手を振って教室を出ていく飯田。その背中を奈子は眉を下げて見つめた。なんだか勝手に連れてこられて、勝手に捨てられた子猫の気分である。
「あ! もしかして大木さん!?」
これからどうしたらいいのだろうかと首を傾げた奈子だったが、背後からの声に肩を震わせた。そろりと振り返ると、明るい茶髪を綺麗にセットした女子生徒が奈子のことを見つめていた。その瞳は色素が薄く、睫毛で影が出来ている。
整った容姿も相まってなんだかキラキラとしている彼女に、奈子は頷いた。
「……うん」
「やっぱり! 入学式からお休みだったから皆でどうしたんだろ、どんな子なんだろって言ってたんだよ。今日から登校だったんだね」
「んむ、そう……です」
「同級生なんだから、敬語じゃなくていいよー!」
奈子に近づきながらそう笑う彼女に、奈子はもう一度頷く。確かに、クラスメイトに敬語を使っている人はあまり見たことがないかもしれない。
「飯田せんせ、が敬語を使えって言ってた」
「あはは、確かに先生には敬語の方がいいかもだけど。でもイダセンはそういうとこ結構緩いよね」
「なんか、ヤンキーみたいな雰囲気出すときあるしね」
「そうそう。でも俺、職員室でイダセンが煙草らしきものを咥えてるの見たことあってさ。マジかよって思ったんだけど、棒付きキャンディ舐めてただけだった」
「なにそれ、可愛いかよ」
だんだんと奈子の周りを囲うように集まって来る生徒たち。和気あいあいと飯田のことで盛り上がる彼女たちを、奈子はぼんやりと見ていた。
「あ、それで大木さんはどうしてこの時間に? 午前中は何か用事があったの?」
最初に話しかけてきた女子生徒が、手を打ってから奈子に問いかける。
「……学校に来るまでに猫に囲まれて、ちょうちょ追いかけて、桜の木の下で寝ちゃったから?」
奈子の言葉に、教室がシンと静まり返る。
(――あ、やっちゃった、のかも)
今までも感じたことのある感覚。自分の言葉を耳で聞いてから、ハッとする感覚だ。先ほどまで楽しそうにしていた人たちを困惑させ、時には嘲笑や嫌悪の視線を貰うこともあった時と同じ。
「えと、」
奈子は、口を小さく開けて弁解をしようとする。しかし、それよりも先に動いた者がいた。
「――――か、かわいい~~~~!! 猫ちゃん! 猫ちゃんじゃん!」
「うみゃ!?」
「きゃー! 驚き方も猫ちゃんだ! 堪らん!」
急に抱きしめられた奈子は、まるで猫のように声を上げて飛び跳ねる。だが細い体のどこにそんな力があるのか、跳ねた体をがっしりと抑えられる。香るのは微かな花の匂いと、シャンプーやボディソープとは少し違った人工的な匂い。
(初めて嗅いだけど、いいにおい……)
奈子は思わずスン、と鼻をひくつかせてその匂いに擦り寄った。
「うわ、早苗顔ヤバいって。女子高生がしちゃいけない顔してるよ」
「そう言えば真田の奴、可愛いものと猫が好きって毎日のように言ってるもんな。見た目ギャルなのに――」
「見た目は関係ねえだろうがっ」
「ぐはっ!?」
一瞬で奈子を離して男子生徒の腹に一発叩き込んだ女子生徒――早苗は、腰に両手を当てて沈む男子生徒を見下ろした。
「そうだそうだー。ギャルが男好きのビッチだなんて、夢見てんじゃねえぞ男子~」
「いや、そっちの方が偏見だよ」
「ほら、早苗。大木さんも驚いてるよ」
「はっ! ご、ごめんね。大木さん! 私、可愛いものに目がなくて……つい。でも急に抱き着かれて嫌だったよね!? 本当にごめんなさい!」
ショートカットの女子に肩を叩かれた早苗は、ハッとした様子で奈子の方を振り返る。両手をばたつかせて謝る彼女に、首を振る。
「……ううん。びっくりしたけど、いいにおいがして……なんか好き、かも」
「――――ず、きゅうんっ!」
「み!?」
今度は急に後ろに倒れて行った早苗に、奈子の口から悲鳴じみた声が飛び出る。
「おい、真田! しっかりしろよ、おい真田、早苗ちゃん?…………し、死んでる」
「勝手に殺すなあ!」
「ぐおっ!!!!」
「天丼かよ」
「はいはい、お昼もまだなのにお腹いっぱいだよ」
両手を叩いてそう言ったショートカットの女子は、少し屈みながら奈子へ手を差し出した。
「私は、藤堂ヒカル。よろしくね、大木さん」
「あ! ヒカルずるい! 私は真田早苗。よろしく、大木さん!」
「あーその真田にサンドバッグにされた篠原俊だ、いってえ! 言ったそばからぶつなよ」
「うっさい、このノッポが」
「はいはい。この2人は小学校からの付き合いらしくてね。仲良いんだよ」
「仲良くない!」
「良い仲ではねえなあ」
目の前で交わされるやり取りに、奈子は目を瞬かせた。完全に勢いに呑まれてしまっている。3人の後にも次々に名乗られるが、正直覚えられる気がしない。
「はい、そこまで。大木さんも困惑してるし、ご飯も食べなくちゃでしょ。あとは各自で自己紹介するように」
「はーい、姉御」
「よっさすが、1-1の姐さん!」
「はいはい」
掛け声に手を振った藤堂は、奈子に微笑みかける。
「ちょっと変な人間が多いクラスだけどね、みんな大木さんと仲良くしたいと思ってるのは本当だから。呆れないでちょっと構ってやってね」
「というか、私に構わせて!」
「はい、早苗は落ち着いて。大木さんの席はそこね」
早苗の額を片手で押さえた藤堂は、廊下側の席を指さす。一番端の前から3番目。頷いた奈子は、肩からずり落ちた鞄を手に持って席に向かう。中学とは違って隣の席とは机はくっつけなくていいのだな、と思っていると横から視線を感じる。
「おはよう。いや、もう『こんにちは』か。それとも『初めまして』の方が正しいか。いや――」
「……こんにちは」
「む。ああ、こんにちは」
振り向いた先にいたのは、隣の席に座る男子生徒。何やらブツブツと言っているが、そんなことよりも気になることがあった。
(金髪に、碧い目……)
海外にルーツでもあるのか、彼は日本人離れした容姿をしていた。まるで絵本に出てくるような王子様みたいだ。サラサラとした金髪は光を帯びて見えるし、碧眼は静かだが決して冷めた印象は与えない。文字通りの美少年。しかし、喋り方がどことなく固くて少し違和感を感じる。
ジッとこちらを見る碧に耐えられなくなった奈子は、彼から視線を外す。その先で視界に入った机――正確には机の上にあったノートへと目を奪われた。
力強く、少し肩筋張った字で書かれていた文字――――浮気龍之進。
(…………うわき?)
奈子の視線に気がついたのか、彼がノートに書かれた名前をトンと指で叩く。細く長い綺麗な指に目を奪われた奈子の視線を誘導するかのように、彼は席から立ち上がりその手を差し出して言った。
「浮気と書いてうきと読む浮気龍之進だ。だが、浮気は絶対にしないし、将来の夢は運命の人と結婚して幸せな家庭を築くこと。――――よろしく、大木さん」
そう言って彼は――浮気くんは、口元をわずかに上げて目を細めた。




