第19話 可愛いって何?
「っ、いたっ」
噛まれたのは、左手の人差し指。血が出るほどではないが、跡は絶対に残るであろう強さで何度も噛まれる。
指先に当たる浮気くんの歯の感触。それが人差し指から中指、そして薬指へと移っていく。特に薬指は指全体を彼の口内に入れられて、一際強く噛まれる。
その痛みに体を揺らしながら、奈子は浮気くんを見上げた。
(……なんで、そんなに泣きそうな顔をしてるの)
浮気くんは、苦痛に涙を堪えているかのようで。でも、どこか奈子の指を噛むことを悦んでいるようにも見えた。
歯を離して今度は噛み跡に唇を落としていた浮気くんが、目線だけを奈子に注ぐ。潤んでいるような碧眼の奥から滲む熱。それらを注がれながら左手を丹念に舐められた奈子は、体の内側から湧き上がるゾクゾクとした感覚に体を震わせた。
「う、浮気くん。なんで噛むの」
「お前が他の男に目を向けないように、目を付けられないように、印をつけとくんだよ」
そう言った浮気くんは、左手から口を離して今度は奈子の首元へ顔を埋める。ぴちゃ、とやけに響く音に肩を揺らした奈子は咄嗟に彼の体を左手で押した。
けれども浮気くんの体はびくともしない。むしろ奈子の体に自分の体を近づけて、首に唇を押し当てる。
「ん、いっ……」
唇が離れたと思った次の瞬間には、痛みが襲う。指同様にそこまで強い力ではない。悲鳴を上げるほどのものではないはずなのに、なぜか奈子の口からは吐息と共に小さな悲鳴のようなものが漏れる。
「っ、浮気、くん。なんかゾクゾクしちゃうから、噛むのやめて」
「ん、ひゃだ」
首を食まれながら響く彼の声に、奈子の体が跳ねる。
まるで本当に獣が獲物を捕食しているかのようだ。左手を握りしめられて、首元に噛みつかれた状況で奈子はそう思う。
――――一体、何が彼を獣のようにしてしまうのだろうか。
「お前が言ったんだぞ。俺のことを知りたいって。だから、教えてやってるんだ。どれだけ俺が奈子を愛しているのか」
「……え? 愛?」
首から顔を上げた浮気くんが、奈子を見下ろす。机の上に置かれた左手を絡められて、更に強く握られる。
「そうだ。……最初は確かに触れても失神しないから、というのが理由だった。けど、奈子と一緒に過ごすうちに段々とお前に惹かれていく自分に気づいた。笑って欲しい、幸せになって欲しい。そう思うのに」
浮気くんが眉を寄せて、グッと口を結ぶ。そして歪んだ顔のまま、そっと絞り出すかのように囁いた。
「…………縛り付けたい、誰にも見せたくない――――食べて、一緒に溶けてしまいたい。そんな風にも思う。本当は、こんなこと考えるべきではないのに。お前は純粋すぎるから…………。こんな汚い感情を、ぶつけたくなかったのに――――――」
そう言った浮気くんは、再び奈子の首に顔を寄せる。けれどももう噛む気はないのか、顔を伏せて耳元で囁いた。
「…………こんな男、気持ちが悪いだろ」
その声は、水分を含み少し震えているように奈子には聞こえた。
(なんだろう。……この、心臓がキュッとなるような。ムズムズするような……。落ち着かないのに、もっと欲しくなる気持ち)
自分が感じたのと同じように口をムズムズとさせながら、奈子はその衝動をどうにかしようと手を動かした。左手には浮気くんの熱い体温。そして、反対の右手には冷たく固い感触がした。
彼に気づかれないように、右手をそっと胸の方へ引き寄せる。
(――――ああ、もしかして)
「浮気くん、顔上げてよ」
「…………嫌だ。これ以上、無様を晒せって言うのか」
「無様なんかじゃないよ。浮気くんの顔が見たいだけなの。ダメ?」
奈子の言葉に、浮気くんがグッと息を呑む音が聞こえる。
「……本当に、お前はズルい」
そう言って顔を上げて、体を少し離した浮気くん。悲痛に顔が歪んでいるのに、頬は僅かに赤く染まる。彼の瞳がユラユラと熱を帯びて、潤んでいる。
(ああ、すごい――――綺麗だ)
――――その瞬間、奈子はカメラのシャッターを押した。
響くシャッター音に、浮気くんが目を見開く。パチリと瞬く碧に、もう一度シャッターをきる。
「…………なんでこのタイミングで、他の男から貰ったカメラで、俺の情けない姿を撮るんだよ」
不機嫌を隠そうともしない浮気くんが、眉間の皴をさらに深くして低い声で言う。
「なんでって……」
『心が動いたら、シャッターを押す。それだけで良いんだ』
奈子は、口をキュッと結ぶ。なんだか先ほどから口がムズムズして落ち着かない。勝手に上がってしまいそうな口角をなんとか制御して、奈子は小さく口を開いた。
「ええと、なんと言うか。んん……すごく、可愛くて?」
「……可愛いだと? 俺が? …………馬鹿にしているのか?」
浮気くんの言葉に、奈子は首を振る。馬鹿になんてしていない。ただ、口角が勝手に上がってくるのも事実。これでは浮気くんが馬鹿にしていると思っても仕方がない。
「じゃあ、なんで笑ったままなんだ」
「うう……ほっぺ揉むのやめへ」
奈子の頬を大きな手で揉む浮気くん。彼に抗議しながら、奈子はなぜ自分は笑っているのだろうかと考える。
(うーん。可愛いなあっていうのは嘘じゃないけど……もっと相応しい言葉があるような)
『可笑しいから笑ったんじゃないんだよ。すごく可愛らしかったから、つい』
奈子の脳裏に御園の言葉が過ぎる。
可笑しくないのに、馬鹿にしているわけでもないのに笑ってしまう。これが可愛いから笑ってしまう、というやつなのだろうか。
(でもやっぱり、ちょっとそれも違うような)
歯に物が詰まっているのに取れないような、もどかしい気持ちだ。口の中もムズムズして、すごく落ち着かない。
奈子は、浮気くんに頬をムニムニと揉まれながら自分の歯を擦り合わせる。カチカチと自分にしか聞こえない程度に歯を鳴らした奈子は、あれ? と音を止めて浮気くんをジッと見る。
「どうした。……触られるのが嫌になったか」
眉を少し下げて奈子の頬から離れていく彼の手。その指先をジッと目で追う。思考よりも先に、感情が体に直結する感覚。
(待って、行かないで)
――――その手に、奈子の口が飛びついた。
「っ、いっっっっっっ!?」
ガジガジと浮気くんの指に齧り付く奈子に、彼が大きな悲鳴を上げる。けれどもそんなことは気にせずに、奈子は彼の指を噛み続けた。
「――――ちょ、奈子! 齧るのをやめろ!」
(なんで? 浮気くんだって、噛んだくせに)
口の中に滲む鉄の味。奈子はその味が濃い箇所を最後にジュ、と吸ってから、浮気くんの手を解放した。すぐさま引っ込められる手にムッとした奈子だったが、浮気くんの顔を見て頬を緩める。
――――彼の顔は、真っ赤に染まっていた。
「…………やっぱり、可愛いよ。浮気くん、真っ赤っかだし」
「な!? う、うるさい! 赤くなんて、ないからな!?」
怒ったように叫ぶ浮気くんだが、その目は潤んでいるし顔もまだ赤い。奈子はパシャリとシャッターを押してから、上半身を起こして浮気くんの耳元で囁く。
「……かわいーね、浮気くん」
この食べちゃいたいような、ぐちゃぐちゃした気持ちが「可愛い」なんだろうか。奈子がチロリと自分の唇を舐めながら考えていると、浮気くんが頬を染めたまま顔を歪める。
「っ、クソッ!」
――――再び押し倒された奈子は、浮気くんの唇によってその口を封じられた。




