第1話 ルージュの呪い?
奈子は、のそのそとまだ少し固いブラウスに腕を通した。カクリと落ちる頭を振りながら、スカートを履きブレザーも羽織る。靴下を履こうとしてバランスを崩した奈子は、倒れたベッドの気持ちよさに目を閉じる。
(んう……眠い、けど学校行かなきゃ)
暫くまだ暖かい布団を抱きしめていたが、さすがに家を出なければマズいかもと奈子は身を起こす。床に倒れていた薄い鞄を手に取り、部屋を出た。リビングに掛けられた時計を見て、冷蔵庫を開ける。朝ごはんは食べられなさそうだけど、のどを潤したかった。
「……牛乳、もうない」
コップの半分まで注がれた牛乳を見て眉を下げる。冷蔵庫を見ると牛乳どころかほとんど何も入っていない。帰りに買ってこなければいけないのはわかるが、今から億劫だ。
振るとほんのり微かに音が鳴る牛乳パックを冷蔵庫に戻す。すると、カチャリと何かに当たった音がする。奈子は牛乳パックを取り出して、冷蔵庫のポケットに手を突っ込む。出てきたのは、銀色の筒状の物体。
「……つめた」
冷蔵庫で十分に冷やされたそれを元に戻す。
視界から消えた銀色に息を吐いてから、奈子は冷蔵庫の扉を閉めた。
「…………授業って何時からなんだろ」
時計の時刻は9時30分。家から学校は徒歩で10分の距離とはいえ、もう既に遅刻な気もする。
「でも、時間割だって貰ってないし。……まあいいや」
初登校日に遅刻したとしても、奈子にとってはどうでもいいことだった。自分が遅刻をしても、ガミガミと説教をする存在はいないのだから。
手の甲で口を拭った奈子は、鞄を手に取り家を出た。
*
「……閉まってる」
徒歩10分の道をおよそ倍の時間をかけて校門にたどり着いた奈子は、校門の前で棒立ちしていた。学校までの道はほぼ直線。それにも関わらず時間がかかったのは、道中で猫たちに遭遇して囲まれたからだ。
どうやら奈子は動物には好かれる質らしく、よく纏わりつかれることがあった。特に猫はオスもメスも寄ってきては、顔を舐めて肩や膝に乗ろうとしてくる。
今日も数匹の猫に囲まれた奈子は、それに抵抗することなく猫たちが満足するまで好きにさせた。その結果がこれだ。
「しょうがない」
ため息をついた奈子は、校門に手をかけて跳んだ。浮かび上がった体をさらに両腕で押し上げる。そして、校門の上に着地してそのまま飛び降りた。
着地してしゃがんだままの奈子の目の前を、何かが横切る。
「……ちょうちょ」
ふわふわと宙を飛ぶ蝶々を目で追う。白いその蝶々は、まるで奈子を誘うかのように彼女の目の前をくるくると旋回する。
「……案内、してくれるの?」
そう呟くと、蝶々は奈子の鼻先に止まった。思わず自分の鼻先を見つめた奈子は、少しばかり頭がくらりと揺れてしまう。
それを察したのか、偶然か。蝶々は、どこかへ向かって飛び立った。しかし、その方向は校舎とは反対だ。
「……どうせ、教室もわかんないし」
誰も聞いていないのに、そう言い訳めいた独り言を呟いて奈子は蝶々の後を追う。ひらりひらりと奈子の前を行く蝶々は、どうやら校庭の方へ向かっているらしい。
「おお……きれい」
早歩きでそれを追った先にあったのは、満開の桜の木。近くには校庭の奥にある建物。入り口の看板には、文化部部活棟の文字が書かれている。
その部活棟と校庭を仕切るかのように並ぶ桜の木。入学式から2週間経った今、ちょうど見頃といった具合らしい。
奈子は、穏やかな風に乗って舞う桃色の花びらを目で追った。くるくると舞い落ちるそれに、小さく口を開いて欠伸をひとつ。
(……なんか、眠くなってきた)
くしくしと目を擦りながら、桜の木の根元へ寄りかかるように座る。暖かな日差しと、少しひんやりとした木の感触が心地良い。
枕の代わりには到底ならない鞄を適当に放って、奈子は瞼を閉じた。
*
「――――い、おい! おい、起きろ!」
大きな声と何かに揺さぶられている感覚に、奈子の意識は浮上した。
何だか頬や体が痛いし、チクチクする。目を開けた奈子は、自分がいつの間にか地面に寝転がっていたことに気がついた。
石や雑草のせいで痛みと痒みがあるのは分かったが、目の前にいる人間が誰なのかはさっぱり分からない。
「……んむ、だれ」
「誰、じゃねえよ。こっちこそ聞きてーわ。なんで授業をサボってこんなところで昼寝してるんだよ」
「眠かった、から?」
「眠くて教室で居眠りするのならまだわかるがな。俺が聞いてんのはなんで地面に寝転がってんだってとこだ。あと俺一応教師だからな。敬語くらい使えよ」
「……せんせ?」
「そうそう、先生だから敬えよ。お前、何年だよ。あと名前は」
教師だと名乗った男は、教師にしては口が悪い。額が見えるほどに短い黒髪と、やや目つきの悪い顔つき。体格はガッチリとしていて、昔やんちゃしていた、もしくはスポーツ少年だったと言われても納得してしまいそうだ。
とにかく、今まで奈子が見てきた「教師」とは異なる雰囲気を持った男だった。
「1年の、大木奈子……です」
「おいおい、お前が大木かよ。……なんか俺のクラス濃い奴ばっかじゃねえか? 厄年とかじゃねえんだけどな。……あとお前はいい加減に起きろ。体調が悪い訳でも、体質で眠くなるわけでもねえよな?」
「うん、病気とかじゃない」
「敬語」
「です」
左腕を少し上げて腕時計を見た男は、1つ頷いて奈子を見下ろす。
「もうすぐ昼休みだし、ちょうど良いだろ」
「…………もうお昼?」
「おうおう、そうだぞ。お前、登校初日に午前の授業丸々サボるとは良い度胸じゃねえか」
「ごめんなさい、でした」
身を起こした奈子は、ぺこりと頭を下げて謝った。自分が思っていたよりも時間が経っていたらしい。授業中に外でサボっていた生徒に対して、怒らないわけがない。
「……サボろうとしたわけではねえのか」
「教室わからないなって思ってたら、ちょうちょがいたから……追ってみたら、ここに」
「ガキじゃねえんだから、蝶々を追いかけるのはやめなさい。あと教室がわからなかったら蝶々じゃなくて、職員室にいる先生に聞きなさい。わかったか」
「うん」
「敬語」
「わかった、です」
はあ、とため息をついた男はガシガシと頭を掻いてから奈子を見下ろした。
「お前、もう高校生だろ。そんなところで寝てても大きくはならんし、わからないことがあったら何でも人に聞けよ。このままじゃ何も出来ないお子様のままだぞ」
その言葉に、奈子の脳裏に真っ赤なルージュが過ぎる。
『――――あなたは愛を貰えない可哀想な子供。早く大人になって沢山の男に愛を乞いなさい。……そうしたら2人か3人くらいからは愛を貰えるかもねえ?』




