第16話 激重彼氏は快適?
「…………浮気くんが、浮気する気配が全くない」
午前最後の体育の授業終わり。
奈子は、更衣室で項垂れていた。
その理由は、「浮気くんに浮気させよう作戦」が難航していたからだ。
「奈子、結構頑張ってたけどね。浮気も浮気で強いよなあ」
「むしろあいつ途中から楽しんでなかったかしら? 私たちが止めなかったら、もっと好き勝手してたはずよ」
確かに、と早苗の言葉に頷く奈子と藤堂。
ムッと口を突き出しながら運動着を脱ぎ捨てた奈子は、これまで失敗した作戦を思い返した。
*
最初はやはり、大人っぽい女性を勧めてみた。3年の先輩は奈子から見てもとても色っぽくて素敵な女性だったのだが――――。
『浮気くん、あの先輩とかどうだろう。3年生の中で一番モテてる人なんだって』
『俺は浮気をしない。それに、君のその犬歯が見える口元の方がキュートかつ色っぽいぞ』
『……浮気くん、趣味悪いね』
3年生の先輩を指さしていた右手を取られて指を絡められる。これは所謂恋人繋ぎというやつらしい。
浮気くんの手は、奈子のものよりも節くれだっている。それなのに、奈子よりもスベスベでしっとりとした手なのだ。
それがいつも不思議で、奈子は手を繋がれると彼の手をついつい触ってしまう。
そのことを彼自身にも話した翌日、浮気くんから普段使っているというハンドクリームをプレゼントされた。よく塗り忘れる奈子に代わって浮気くんが毎回丁寧にクリームを塗るので、手は数日でスベスベのモチモチになった。
あれ? と思いながらも痛むことのなくなった自分の手に、奈子はなんだか気分が良くなったのだ。
その次はハンドクリームだけでは満足しなかったらしい浮気くんが、奈子の爪を磨いている時に切り出したのだが――――。
『浮気くん、見てよこれ。やっぱり男の人はこういう大人っぽい女性に憧れるんじゃないかなあ? こういう人と浮気してみない?』
奈子が空いている方の手で指したのはグラビア雑誌。ナイスバディな彼女たちを見ても奈子は「おお~」としか思わないのだが、浮気くんはきっと好きなはず。そう思ったのだが。
浮気くんは、奈子の小さい爪に当てたよくわからない道具の動きを止めた。だがすぐにまた、爪の甘皮処理とやらに戻ってしまう。
『俺は浮気をしない。確かに、プロとして体型維持や食事制限など、俺が想像できないほどの努力を彼女たちはしているんだろう。そこには素直に尊敬の念を覚える。だが、それだけだ。彼女たちを見ても全く興奮しない。むしろ奈子の無防備に寝ている姿や、今こうして無防備に背中を預けてくる方がこうふ――』
『――言わせねえよっ!?』
『ぐげえっ!?』
『おお……これは手刀で失神したのか、早苗ちゃんに触られたから失神したのか』
早苗の手刀が浮気くんの首にキマって、彼の体重が奈子の背中にかかる。ずり落ちはしないが、地味に重い。
でも、浮気くんに後ろから抱き抱えられるのは嫌いじゃない。温かいし、いい匂いがするので眠るのには最適なのだ。しかもアラーム付き。
奈子は浮気くんと付き合ってから、誰もいない場所で居眠りすることがなくなっていた。これまでの奈子からは考えられないほどの成長である。
そんなことがあった翌朝、家の前で浮気くんからなぜか手作りのクッキーを貰った。その場で食べてとても美味しかったと伝えたら、浮気くんは頷いてこう言った。
『ああ、そうだろう。俺はな、君がどんな体型でも関係ない。君が美味しそうに、幸せそうに食べているところが好きなんだ。それに、俺の作ったものが君の体の一部となっていくのが堪らなく嬉し――』
『――うーん。ギリギリアウトかな』
『うおっ!?』
浮気くんの顔の横を、猛スピードで何かが通る。
幸いにも浮気くんには当たらなかったが、もし少しでも動いたら顔面に直撃だっただろう。
奈子が背後を振り返ると、なぜかそこには運動着姿の藤堂が立っていた。
『あれ、ヒカルちゃん? おはよう。朝練?』
『おはよう、奈子。こんなところで会えるなんてね。ここ、奈子の家? 立派な門構えだね』
うん、と頷いた奈子に藤堂は『今度早苗と遊びに来たりとか、いいかな?』と聞いてくる。
『うん、いいよ』
『おっ、やったね。早苗もきっと喜ぶよ。――――あと浮気、そんなに睨まなくても私たちはただのラブラブな友達だから。ね? 奈子』
『うん。私たちラブラブ』
『おい』
『いやあ、聞いたことある声だなと思ったら変態がいたからびっくりしたよ』
『俺は変態ではない。ただ奈子の美味しそうに食べる姿が見たいだけだ。あと奈子とラブラブなのは俺だ』
そう言って威嚇する浮気くんに、藤堂は門に当たって落ちたタオルを拾い上げる。どうやら先ほど浮気くんの顔に当たりそうだったものの正体は丸めたタオルだったらしい。
『奈子、門に投げつけちゃってごめんね。浮気の発言がアレだったから』
『アレとはなんだ。アレとは』
『大丈夫だよ。ヒカルちゃん。やっぱり、さっきのはアレなんだね』
『おい、だからアレってなんだよ』
奈子の肩を掴みながら見下ろしてくる浮気くんに、藤堂と目を合わせてから笑う。
アレとは「浮気くんの激重っぷりとその顔面がなければ通報される行動」を指している。ちなみに通報云々は早苗の言葉だ。彼女は浮気くんを嫌っているが、彼の容姿については認めているというか、好みなのかもしれない。
藤堂は、『早苗は美しいものも普通に好きなんだよ。ただ浮気の言動が気に喰わないだけで』と言っていた。
『それは、ねえ……』
『うん。……私たちの秘密だから、浮気くんには教えられないかな?』
奈子の言葉に、苦虫を嚙み潰したような顔をする浮気くん。そんな彼の顔を見て藤堂と笑いあう。
そして、藤堂が浮気くんの隙をついて奈子の手を取った。
『あ、おいっ!』
『毎日独占してるんだから、偶にはいいでしょ。ね、奈子』
『うん。……ヒカルちゃん、なんだか今すごく走り出したい気分、かも?』
藤堂と手を繋いだまま、奈子は首を傾げて藤堂を見上げた。このドキドキ? ワクワク? したような、視界が煌めくような感覚はなんだろうか。
『……それはもしかすると、青い春……ってやつかもしれませんね』
『なんで敬語?』
『いやあ、口に出してから恥ずかしくなって。…………よし、行くよ!』
その言葉を合図に、弾かれたように奈子と藤堂が手を繋いだまま走り出す。
リーチの差はあるが、2人の距離は開かない。違うリズムを響かせながら隣を走っていく。
後ろから『全く……楽しそうだからいいが』と少し呆れたような、でも優しい声がする。その声にふふ、と笑った奈子は、声を弾ませながら言った。
『――――浮気くんって、春の嵐、みたい、だ』
抱きしめられて与えられる温もりと、手放すときのあのドロドロとしているのに冷たく鋭い碧。
それらが混じりあって、浮気くんという人の形を成している。
春の嵐が、激しく周囲を巻き込んでいく。変化していく。
彼の告白がきっかけで、奈子の世界は広く輝きを増していく。
(私、浮気くんと付き合ってよかったなあ――――)
*
「…………ダメじゃん。それじゃ」
「奈子? 意識が帰って来たなら早く制服着な。風邪ひくよ」
「完全に言い方がお母さんじゃん」
「残念ながら、同い年の子供を産んだ記憶はないなあ」
更衣室。藤堂と早苗は既に着替え終わっているらしい。下着姿のまま頭を抱える奈子に、笑いながら着替えを促してくる。
「うーん。……なんか、散歩したい気分」
「お。猫の散歩か。じゃあ、私たちで浮気に上手く言っておくよ」
「スマホも預かっておこうか? それがなきゃ、多少は長く1人でいられるでしょ」
「…………お願いします」
奈子が両手で差し出したスマホを「はーい。お預かりいたしまーす」と受け取る早苗。確かにこれがあってはすぐに浮気くんに見つかってしまう。今、それは避けたかった。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい、奈子ちゃん!」
「午後の授業までには戻るんだよ」
着替えが終わった奈子は、運動着を藤堂に預かってもらい1人歩き始めた。外に出てブラブラと適当に散策する。中庭ではなく校舎裏の方に行き、学校でよく見かける猫たちと戯れる。
満足したらしい猫たちを見送ってから、奈子も土や毛を払いながら立ち上がる。
もう帰らなきゃかなと思いながらも、奈子の足は校舎とは逆方向に向いていた。
「……あれ、ついつい部室の方に来ちゃった。これじゃあすぐに見つかっちゃうかも」
ふと見上げると部室棟前の桜の木があった。浮気くんと出会ったあの日に満開だった桜も、既に花弁を散らしている。
正式に入部することになった新聞部の部室は、飯田が言っていた通り居心地の良い場所だった。だからこそ無意識のうちにここまで来てしまったらしい。
こういうところが子供っぽいというか、猫っぽいと言われてしまう原因なのではないだろうか。浮気くんだって、そんな奈子が危なっかしくてほっとけないのかもしれない。
「…………こんなんじゃ、いつまで経っても浮気くんに浮気してもらえないよ」
奈子はそう、1人呟いた。
その言葉に返す人などいないはずだったが――――。
「――――じゃあ、僕と浮気してみる?」
頭上からの声に、奈子は顔を上げる。
――――そこにいたのは、大変美しい男だった。
「君が浮気すれば、彼も浮気してくれるんじゃない? 返報性の原理ってやつかな」
男が木の枝に腰掛けて、奈子を見下ろす。彼の手には、一眼レフカメラが握られていた。
狐色の髪の毛を風に揺らされながら、男は奈子を誘惑するかのように薄く形の良い薄紅色の唇を開けた。
「僕は結構いいアイデアだと思うんだけど。ねえ、そうは思わない? ――――新聞部1年の大木奈子ちゃん?」




