第8話 11年前 - 始まりの日(1)
十一年前の今日のこと、王城の広い一室で、幼いセフィリアは机の前に座っていた。
目の前には、文字のびっしり並んだ大きな本が積まれている。小さな彼女の体は、すっかり本の山に隠れていた。
風が窓を撫で、陽光が柔らかく部屋の中に差し込む。
しかし、そんな穏やかな風景とは裏腹に、彼女の心は重い。
政治、歴史、語学に礼儀作法、魔法の訓練、毎日朝から晩まで隙間なく予定が詰まっていて、息つく暇もなかった。
今日も朝から続く厳しい訓練に疲れ果てたセフィリアは、小さな文字を追いながら思わずあくびを漏らす。
「セフィリア、しっかりしなさい」
鋭い声が部屋に響いた。
顔を上げると、母レティシアが立っている。彼女は幼い娘の前に立ち、鋭い眼差しで我が子を見下ろしていた。
「……はい、お母様」
セフィリアは小さな声で言った。母親の目は揺らぐことなく、ただ冷たく彼女を見守っている。
母は常に厳しく、セフィリアは、母の自分に向けた笑顔を見たことがなかった。
「いつも言っているでしょう、あなたは王になるの」
レティシアは一歩前に出て、セフィリアの小さな手を取り、筆記具を持たせる。
「国を治めるためには、誰よりも強く、誰よりも賢く、完璧でなければならない。あなたには全てを学ぶ義務がある」
レティシアの声には、一切の迷いがなかった。どこか焦りすら感じさせるような、覚悟を孕んだ声。それは、愛する娘に語りかける声ではなく、次代の王を作り上げる指導者の声。
「あなたは国民に生かされている。それは、国民を守るためよ」
「はい……」
セフィリアは縮こまって俯いた。
どこからか、子供のはしゃぐ声が聞こえる。セフィリアと同じくらいの年の頃の子供達。
(――もし私も、あの輪の中にいたら)
そんな考えが頭をよぎる。でも、そんなことはありえない。
そもそも、同年代の子供たちと遊んだこともない彼女には、輪の中にいる自分の姿をうまく想像できなかった。
自分は、彼女たちを守る立場にある――彼女は、その様に育てられてきた。
「休んでいる暇なんてない。遊ぶ暇があったら、学びなさい。考えなさい。あなたには、この国を背負う責任がある」
レティシアの声は、厳しさを増していた。セフィリアに厳しく言い付ける様子は、どこか焦っている様にも感じられる。
窓の外に見える王都は、陽光に輝き、木々が風に揺れている。美しい、彼女の国。彼女はこの国の景色が大好きだった。
「国のために生きるということは、自分の全てを捧げることだと、覚えておきなさい」
物心のつく前から、何度も繰り返し聞かされてきた言葉。その教えは、もうセフィリアの身体中に染み込んでいた。
「はい、もちろん、わかっています。お母様」
セフィリアが、再び本に目を落としたその時、
――ドォォォン
突然、外から何かが崩れるような轟音が響く。二人は咄嗟に窓の外を見た。
「レティシア様! 敵襲です!」
ゼドが部屋の扉を乱暴に開きながら部屋に駆け込んでくる。同時にレティシアは、念入りに施された城の結界が霧散していくのを感じる。
こんなこと、一朝一夕にできることではない。長い時間をかけて、密かに解析されていたのだろう。
敵の気配はしなかった。ここまで気配を消せる者を、レティシアはひとりしか知らない。
外からは再び、魔法がぶつかり建物が崩れる轟音が響く。
「セフィリア、絶対にここから出てはダメよ」
そう言ってセフィリアの肩に手を置く。レティシアの手に光が宿り、ふわりとセフィリアを包み込む。それを確認したレティシアは、ゼドと連れ立って城の外へと出る。
「お母様!」
セフィリアは後を追いかけようとするが、母の魔法に拒まれて部屋を出ることはできない。
ひとり、外の様子がわからないことがもどかしかった。
*
「レティシア、久しぶりだな」
城前の広場で、燃え盛る木々を背に、ロゼルトは笑みを浮かべていた。
「久しぶりに会って、これは何のつもり? ずいぶんひどいことをするじゃない」
「ふん、俺は元々こうすべきだと思っていたんだ。サテ様は弱腰がすぎる。宥和だなんて」
ロゼルトは不満げにそう言う。
「だから、サテを? あなたが王となり、全てを手に入れるために?」
彼は昔から野心家だった。前王のサテに仕えながら、ずっと機を窺っていたのか。レティシアは若い頃、彼と並んで学んだ日々のことを思い出していた。
「だとしたら?」
ロゼルトはそう言って不敵に笑う。
「あなたは昔から変わらないわね。目的のためなら、手段を選ばない」
「何を今さら」
ロゼルトは肩をすくめ、愉快そうに笑う。
サテが死んだとしたら、これからはまた激しい戦乱の世になるだろう。このロゼルトが王となるならば。
レティシアは警戒を強める。幼いセフィリアの姿が頭に浮かんだ。まだ早い、早すぎる。
「今ここで、あなたを止めるしかないわね」
レティシアはロゼルトを正面に見据える。その視線を受け止めたロゼルトはふっ、と笑う。
「お前はまだ状況がわかっていないらしいな」
そう言うと彼は彼女と自分に魔法をかけ、外界から隔離した。周囲の風景がかすみ、音が徐々に遠のく。
「――何のつもり?」
レティシアはわずかに身構えた。
「まだ分からないのか?」
ロゼルトは薄く笑いながら応える。低く囁く声が、レティシアの耳にはっきりと響く。
「――私が欲しいのは、お前ではない」
「まさか――!」
レティシアは城の方を振り返る。彼女が娘にかけた魔法は、今まさに破られようとしていた。




