第49話 春風の匂い
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「ロゼルトはわたしの命と引き換えに、この国の無事を約束するらしい」
王城内、彼女の執務室で、セフィリアはゼドとライトに向かってそう告げた。
彼女はいつものように、窓の外を見る。王都の街並みが見える。街の中央広場には、国民がごった返していた。その先頭には、エレニアがいるのだろう。
彼女が自分に変わって国民の信を集めているのを、心強く思っていた。ああ、なんと愚かか。
「お前たちも、もうエリから聞いていたか?」
二人は答えない。沈黙は、YES、を意味していた。
そうか、とセフィリアは呟く。窓に背を向け、二人に向き合う。
「私は、ロゼルトの元へ行くことにするよ。──あとのことはエリに任せる」
「お待ちください! この国には、セフィリア様が必要です。セフィリア様がいないと、どうすれば良いか」
ライトはセフィリアを引き留める。
「必要、か」
セフィリアは少し寂しそうに微笑んだ。あの日自分を見下ろしていた、エレニアの顔が脳裏に浮かぶ。
私が必要、では不要になれば?という意地の悪い考えが頭を掠める。
私はいつだって、役割としてしか生きられぬ。私のことをただ愛し、守ってくれる者など、どこにもいなかった。
そんなもの、私は必要としていない。求めてもいない。私は誰よりも、強いから──
「ありがとう、ライト。でももう私はここにいないほうが良い。
ロゼルトは、これで私から手を引くと言っているんだ。これが私の命の一番良い使い方だろう。私は、裏切られたなんて思ってはいないよ」
彼女はいつものように、にっこりと笑う。
「自分がいないとこの国はダメだ、なんていうのはね、浅はかな思い上がりだ。一人の人間がいなくなったくらいで世界は何も変わらない。
ロゼルトには分からないだろうが、国はだれか一人の力で立つものではない。──国を支え、存在させるのは、いつだって人々の意志だよ」
「でも……」
「ただ、ロゼルトは素直に約束を守ることはないだろう。厳しい戦いになるかもしれない。エリを支えてやってくれ。彼女にはお前たちの力が必要だ」
「そんな──」
「ゼド」
彼女は引き留めるライトの言葉を遮り、彼の後ろで黙って腕を組むゼドに声を掛ける。
「はい」
「お前がいれば大丈夫だろう。戦闘指揮はお前に任せたぞ。ウェルリスを、頼む」
「……かしこまりました」
ゼドは低い声で答える。
「ゼド様、本当によろしいのですか!」
ゼドは苦しげに眉根を寄せていたが、それ以上言葉を発することはない。
「ライトも、頼りにしている」
セフィリアは微笑む。
「大丈夫、この国のことを見捨てるつもりはない。できる限りのことはするさ──ここはまだ、私の国だ」
決心するようにそう言うと、彼女は振り返ることなく部屋を出た。ゆっくりと歩く。
付き添う二人を顧みることもなく、彼女は城の外へ通じる扉をまっすぐに見据えた。外では、国民が待っている。
なおも引き留めようとするライトの言葉を無視し、扉に手をかけると目を閉じる。
震えそうになる手を押さえつける。そんな姿を二人に見せるわけにはいかなかった。
自分の生きたこの城に、もう戻ることはない。寂しさを振り切るように、目を開けると強く扉を押した。
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「出てきたぞ!」
国民の声がセフィリアを出迎える。
「どうして私たちは、こんな思いをしなければいけないの?」
「セフィリア様を差し出せば、終わりになるんだろう?」
「もうこんなの、耐えられない!」
「出ていけ!この国から出ていけ!」
姿を見せたセフィリアに、燃え盛る声が降り注ぐ。その場には、多くの人が集まっていた。非難の声、擁護の声、熱狂した民の間での乱闘。
泣いて縋る子どもがいる。黙って手を合わせる老人がいる。もう、誰が何を言っているかなど分からなかった。
セフィリアを心配そうに見つめる少女の瞳は、非難の熱狂にかき消される。しかしそれでもセフィリアは、荒れる雑踏の中にも、確かにその瞳を見つけていた。いつものように、見つけてしまっていた。
自分に、期待を寄せるその暖かな瞳を。守るべきものを。
熱狂の中央、変わらず存在する魔力の泉は、いつになく強く輝いていた。
「セフィ、みんな、もうあなたにはついていけないって。あとは、私に任せて?」
エレニアは国民の前に立ち、セフィリアにそう告げる。
「あなたには感謝してる。でもみんなもう、限界なの。いつ襲われるかもわからない日々が。あなたさえ差し出せば良いんだもの。これが、この国のためなのよ」
かつての無二の親友は、冷酷にそう告げる。その声に、迷いはなかった。
「大丈夫、分かっているよ」
微かに瞳を潤ませ、力なく口角を上げる。口元が歪む。
「だから、もういいんだ。全員を守ることができなくて、本当に悪かった」
いつものまっすぐな声が、少しだけ震えている。取り囲む国民には誰ひとり、その声の変化に気づく様子はない。
「今まで私を、ここに立たせてくれて、ありがとう」
そう言って笑顔を見せると、ゆっくりと歩き出す。これ以上言葉を発すると、何かが壊れてしまいそうだった。
セフィリアは、周りに集まる人々の間を、ゆっくり順番に見回しながら街の門へと歩く。
かつてこの街で彼女に微笑みを向けていた彼らは、同じ口で非難の言葉を投げる。
しかし、彼女の頭の中には、あの日の街の輝きと住民の笑顔が映っていた。その記憶は、何があろうと決して消えることなどない。彼女が愛し、愛された街。明るく輝く、王都。
セフィリアは歩を緩めない。一定のペースで、左右の足を出し続ける。どんな非難の声だろうと、まだ、この声を聞いていたかった。これまで自分を歩き続けさせたこの人々の声を。
たとえ裏切られようとも、彼らのために歩き続けることが自分の使命だ。そしてそれも、もう終わる。終わりにできる。
──ああ、はじめから、こうすればよかったんだ。
精一杯力強く、歩き続ける。背後から、なおもセフィリアを非難する声が投げつけられる。
今まで自分の人生を投げうってきたことの、これがその結果か。ずしんと、重いものが心に落ちるように感じる。
ふっと春風が吹いて、鼻の奥にツンと涙が込み上げてくる。
──もう、堪えきれない。
覚悟したセフィリアは、自分が全てを捧げたものを返り見たい気持ちを抑え、足を止めた。
薄青く晴れた空を見上げて、目を閉じる。次の瞬間、セフィリアの姿は掻き消えた。




