第44話 差し出された手
エレニアは、迷いながらも、目の前に現れた扉に向かって手を伸ばした。
重い足取りで扉をくぐると、そこはリュグルスの王城、ロゼルトの謁見の間。彼は椅子に腰掛け、静かに待ち構えていた。
「ようこそ、エレニア」
彼の声は低く、甘く響く。
闇に満ちた空間の中で、彼の黄金の瞳だけが静かに輝いていた。
「……どういうつもりかしら」
エレニアは強がるように背筋を伸ばしたが、その声は微かに揺れる。
戦が続く中、民の不満は募り、彼女の心もまた揺らいでいた。
「分かっていてここに来たんだろう?」
ロゼルトは微笑む。
その言葉に、エレニアの指がわずかに震えた。ロゼルトはゆっくりと歩み寄り、彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。私が求めているのは、セフィリアの力だけ。
あの女さえ差し出せば、これ以上ウェルリスの民が苦しむことはない」
エレニアの眉がピクリと動く。
「お前が彼女を大切に思っているのは知っているよ。しかし、彼女は、君のことを理解してくれるだろうか?」
「セフィは——」
エレニアは言葉に詰まった。
「思い当たることがあるのだろう? セフィリアはいつだって、最強の王。
本当の意味でお前たちのことを理解することなどできない。民がそんな彼女を見限るのも、当然のことだ」
ロゼルトの声は、心地よい毒のようにエレニアの胸に染み込んでいく。
「……そんな言葉に惑わされるような私ではないわ」
「惑わす? 私はただ事実を語っているだけだ」
ロゼルトはエレニアの肩にそっと触れた。
「お前は、ずっと影に甘んじてきたな。セフィリアの隣に立ちながら、その強さにただ寄り添ってきた。それでいいのか?」
「……」
「本当は違うだろう? お前だって分かっているはずだ。だからお前は自分の意思で、この扉をくぐったんだ。
自分こそがこの国を導けると、そう思っているんじゃないのか」
エレニアはロゼルトの言葉に聞きいる。呼吸の仕方を忘れてしまった。息が詰まる。鼓動が早くなる。
彼女は、自分の思考を見つめる。もうロゼルトの姿も、見えていなかった。
自分だって。どうしてセフィリアだけが。それはずっと、セフィリアへの友情の裏で感じ続けていたこと。
誰もが、隣に立つセフィリアのことばかり見ていた。自分のことなど眼中になかった。
ロゼルトの声が、彼女を世界に引き戻す。
「お前は強い、エレニア。セフィリアの影に隠れるのではなく、お前こそが国の『光』になれる。国民が求める、真の指導者として」
エレニアの瞳が揺らぐ。
「……私が、光?」
「そうだ。セフィリアは確かに強い。だがそれだけでは足りない、そうだろう?
お前は、弱さを知っている分、より人々に寄り添える。お前こそが民が求める光だ」
ロゼルトは微笑み、優しく囁く。
「この国を救うのは、セフィリアではなく——エレニア、君だ」
エレニアの胸に、小さな炎が灯る。それは、これまで抑えてきた想い——私こそが主人公に、という思い。それは、小さな小さな野心。
ロゼルトはゆっくりと手を差し伸べる。
「私と共に来い。お前の力が、必要なんだ」
エレニアは、その手を見つめた。一歩踏み出せば、もう戻れない。
しかし、胸の奥で何かが囁いていた。
「私は……」
闇の中で、ロゼルトの微笑みだけが美しく輝いていた。
いつも思っていた。自分もセフィリアのように強ければ。しかし、いくら願ってもそれは叶わない。
セフィリアに守られるばかりで、自分は常に彼女を支えるのが精一杯。
そして、いくら支えても、彼女は唯一の友人である自分にも本心を見せてくれたことはなかった。
彼女はいつだって、友人である前に王だった。
──私が、国を救える。
その思いが次第に大きくなる。自分はセフィリアを裏切るのではない。国を守るための選択をするのだ。
本当はもう、彼に会う前から心は決まっていたのかもしれない。セフィリアを裏切り、女王の座につく決心。
体の芯が、震える。
エレニアは、目の前に差し出された手をもう一度見る。ゆっくりと、手を差し出した。
ロゼルトは満足げに頷く。
「お前の決断が、国を救う。セフィリアを、私の元に連れてこい」




