第25話 花の都、ハレ
転移の光が収まると同時に、セフィリアは息を呑む。
細やかな彫刻が施された城門は砕け、誇り高き劇場は半ば崩れ落ちている。街中央の広場は血と煙にまみれ、火の粉が舞っていた。
(早すぎる──)
あまりに変わり果てた光景に、胸を貫かれるような痛みが走る。ここは、ウェルリスの文化の象徴。人々が誇りを抱き、未来を夢見た場所――
そのハレが、今、無惨に踏み荒らされている。
派手な破壊を好むディオンは、ハレの襲撃にはいわば適任だった。彼は躊躇いなく、真っ先に街を破壊する。
この美しい街の無惨な姿は、ウェルリス市民の精神を深く傷つけるであろうことは間違いなかった。
「はははははッ!!」
焼け崩れた大通りの向こうから、豪快な笑い声が響いた。瓦礫を踏みしめ、火の粉の中を歩く大男。
ディオン。リュグルス本軍を率いる、戦好きの猛将。
そして彼の背後には、無数のリュグルス兵たちが連なっていた。
「来たなァ、ウェルリスの女王様よ!」
ディオンは腕を大きく広げ、満面の笑みを浮かべた。
「ちょっと遅かったんじゃねェか?」
セフィリアは静かに対峙する。一切の言葉はなかった。ただ、その場に立つだけで、周囲の空気が一変する。
倒れかけていたハレの守備兵たちが、一斉に顔を上げた。
「……セフィリア様!」
「女王陛下が……!」
兵たちの絶望しかけた眼差しに、わずかに光が戻る。セフィリアは割れた石畳を踏みしめ、一歩、また一歩とディオンへ向かって歩き出した。
燃え落ちる街並みを背に、その姿は陽炎に揺れる。
「来いよ、女王様ァ!」
ディオンが咆哮を上げた。それと同時に、リュグルス兵たちが一斉に雪崩れ込んでくる。
セフィリアは動じない。微動だにせず、全身に魔力を纏わせる。頭にあるのは、ただ目の前の敵のことだけ。
セフィリアは、静かに腕を振り下ろした。その瞬間――
轟音とともに、光が爆ぜた。
突撃してきた敵兵たちが一斉に吹き飛び、地面に叩きつけられる。魔力の奔流が、戦場に新たな風を呼びこむ。
その一振りで十を超える敵兵を薙ぎ払う。しかし、リュグルス軍の波は止まらない。
「ぐっ……!」
一瞬の隙を突かれ、セフィリアの脇腹をディオンの刃が掠める。鎧が割れ、血が噴き出す。その一撃は重い。血と共に体力が身体の外に流れ出す。
しかしセフィリアは、何事もなかったかのように攻撃を続け、リュグルス兵たちを吹き飛ばした。
だが、それでも――
次から次へと押し寄せるリュグルス軍。キリがない。目の前の血と灰に塗れた瓦礫の山に、美しかったハレの街の姿が重なる。セフィリアも何度も訪れたことがあった。
――花の都。あの美しい街を、こんなにしてしまった。
子供の泣き声が聞こえる。破壊と怒号の飛び交う中に、かすかに。
もうこの街にかつて響き渡っていた笑い声を、セフィリアは思い出すことができない。
彼女を喜んで迎えてくれた彼らの声。彼女の美しい思い出は、今街に鳴り響く不快な音に塗りつぶされてゆく。
セフィリアの目には街の住人の絶望の顔が映る。彼らは縋るようにセフィリアを見上げている。
身体は鉛のように重かった。意志の力で、重い身体を引きずり、魔力を掻き集める。それでも私はまだ立てる。まだ戦える。だから戦わねばならない。戦えない彼らとは違う。
セフィリアに鼓舞され共に戦っていた街の守備兵たちも、もはやほとんどが戦闘不能だった。このままでは少しずつ消耗し、住人に被害が広がるだけ。
エレニアのことが頭から離れない。彼女の苦しむ顔が思い浮かぶ。時間がない。
(──仕方が、ないか)
セフィリアは魔力を全身に集める。街に漂う魔力を強引に引き寄せ、その意識内に収めた。
もはや意識を保っているのがやっとだった。体が散り散りに張り裂けそうだ。しかし彼女が膝をつくことはない。
苦しい、という言葉が頭を掠める。しかし掠めたことを意識するより早く、彼女はその言葉を打ち消す。
自分は戦うことができる。戦うことができず何もかもを奪われる者たちの苦しみに比べれば、こんなもの苦しみとも呼べぬ。
正面に迫る兵を見据えると、彼らに向けて腕を上げる。心の中で、発している本人すら気付かないほど小さな声が漏れる。
──本当は、こんなことしたくなどない。
セフィリアの瞳が暗く煌めく。動きを止め、小さく息を吸う。
周囲にいた味方の兵たちは、そのセフィリアの様子を見て思わず動きを止める。
(……詠唱?)
彼女の魔力の制御は誰よりも正確で、呪文による制御など必要としたことはなかった。
普通の人間ならありえないこと。しかし彼女は、どんな魔法も常に無詠唱で操る。そして戦場では、圧倒的な速さと力で敵を打ち砕いてきた。
その彼女が、今――あえて、言葉を紡ごうとしている。それは普段より強く、魔力を制御しようとしているということ。
「……ラフェル」
低い声で唱える。
白銀の光が迸り、空気が震える。目の前にいた数千のリュグルスの兵士が、その場に崩れ落ちた。
魔力の光を操る、基礎魔法の呪文。しかし規格外の魔力を扱う彼女が発するそれは、基礎的、とは程遠い様相を呈していた。
街の石畳に血が飛び散る。ほとんどの兵が息絶えていた。残った兵も重傷を負い、立ち上がることができる者もほとんどいない。
セフィリアの胸がずきりと痛む。リュグルス兵たちの呻き、叫ぶ声が耳に響く。その血の鮮烈な赤さが目に突き刺さり、頭が痺れる。
しかし彼女は、表情を変えることなくその光景を見据えていた。
彼女の心には、もう何かを感じる余裕などない。ただ痺れるような感覚だけがあった。
「なッ……!」
ディオンが一瞬だけ目を見開く。目の前で起きたことが信じられなかった。
周囲に倒れた同胞を見回す。一瞬にして数千の兵を。それはまさしく、圧倒的な力。この女は、神か。
「っ……ハァ、ハァ……!」
ディオンは、肩で息をしていた。彼もまた全身に傷を負っている。しかし、それでも立ち上がり、咆哮する。
「まだだァアアアッ!!」
焼け落ちた広場に、二人の影だけが立っていた。血に濡れた白銀の髪を靡かせ、彼女はただ静かに、魔力をまとっている。
ディオンの斧が空を裂く。地面が砕け、空気が震える。だが――
セフィリアは微動だにしなかった。彼女の周囲に、透明な魔力の障壁が展開される。
斧がそれに叩きつけられた瞬間、爆音とともに、ディオンの巨体が弾き飛ばされた。
「が、あっ……!」
広場を転がるディオンは、地を抉る勢いで、瓦礫に叩きつけられる。
それでも、彼は立ち上がろうとした。だが、脚が震える。血が、止まらない。
「……て、め……」
ディオンは呻くように顔を上げた。目の前に、光を纏ったセフィリアが立っている。
その瞳には、怒りも、憎しみもない。感情も、意志すらもないかのように、暗く静かだった。
ディオンは、本能で悟る。
これには勝てない。人間離れしている。このまま抗い続ければ、残った仲間もろとも殺される。
ここで討たれれば、使命も果たせず、ロゼルト様にも顔向けできない。
ギリギリの意地で、ディオンは歯を食いしばった。
「全軍、撤退だ!!」
かすれた声で叫ぶ。
生き延びていた彼の部下たちは一瞬驚き、しかしすぐさま動き出した。誰もが、あの白銀の女王にこれ以上立ち向かうことの無意味さを悟っていた。
ディオンは、よろめきながら広場を後にする。セフィリアは追わない。追うだけの余力はもうなかった。




