交差点
たまに私は悪夢を見る。それはいつも同じ、おぞましいほどに鮮明な光景を繰り返す。
夢の中で私は、死んだように静まり返った夜道を歩いている。周囲はどこにでもあるような住宅街だった。そこにあるのは夢でしか存在しないはずなのに、異常なほどに鮮明な風景だった。そして、私の目の前には、生きてるかのように脈打つ、不気味なほど柔らかな光の玉が浮いていた。
その光の玉に、私は抗いようのない力で導かれるように歩かされる。なぜ歩いているのか、なぜ従わなければならないのか、理屈では説明できない。しかし、逆らえば恐ろしいことになるという本能的な恐怖が、私の足を動かし続けた。
やがて、片側三車線もある大きな交差点に差し掛かる。普段は車の往来が激しいはずの道だが、今は一台たりとも車が通らない。ただ信号だけが規則正しく数分おきに切り替わる赤と青の点滅の灯りだけが、不気味にあたりを照らしていた。光の玉は、その交差点の真ん中のほうへ、フラフラと漂っていく。
私は、光の玉に従って歩道から車道へと足を踏み出す。車が来ないことを知っているかのように、私の足は緩むことなく交差点の中心へと進んでいく。やがて交差点の真ん中まで来ると、光の玉は進むのをやめてぴたりと止まった。私もそれに倣い、歩くのをやめて立ち尽くす。光の玉は止まった地点でふわふわと浮きながら、私を凝視しているかのように静止していた。
どれほどの時間が過ぎたのか。不意に、遠くから何かの音が聞こえ始めた。
……これは車の音。それも、かなりの大型車、トラックの走行音だ。
私は周囲を見渡す。十字路となった交差点の真ん中で、四方に伸びる道路を順番に見渡すが、どの方向にも車の影は見えない。ただ音だけが、まるで私のすぐ傍で鳴っているかのように、どんどんと近づいてくる。
再び光の玉に目を戻す。さきほどと同じ場所に浮いていた光の玉は、次第に横に膨らみ始めた。まるで細胞分裂でもするかのように、ぐにゃりと歪んだかと思うと、膨らんだ光の玉は二つに割れて、光の玉が二つになった。さらに近づいてくる車の音は、もう耳元で爆音と化している。焦燥に駆られ、全身の皮膚が粟立つ。
すると、光の玉はそれまでの淡い輝きではなく、視神経を焼くような強烈な光へと、急激に変化した。
その瞬間、光の玉があった空間に、突然、巨大なトラックの姿が現れた。光の玉は、そのトラックの異様に輝くヘッドライトへと姿を変えていたのだ。
ぶつかる……!私は金縛りにあったように身動きが取れず、ただ身体を固くするしかなかった。
その瞬間、私は目を開いた。目の前にある景色は、見慣れたベッドからの風景だ。その時、ああ……またこの夢か、と思うのだった。
不思議な夢だとは思っていたが、幸いにも特に実害はなかったため、私はどこか遠い世界の出来事のように割り切っていた。
時は流れ、三十代となっていた私は、仕事の都合で地方都市への転勤を命じられた。当時、私はすでに結婚しており、子供もいたため、家族と相談の上、単身赴任を選択した。
その地方都市は初めて訪れる地で、右も左もわからない。まずは自宅周辺の地理を把握しておこうと、仕事が休みの日に散歩を兼ねた近所の散策に出かけた。
自宅から最寄りの駅までの道は、普段仕事に行くときに通っており、ある程度は把握していたため、その日は駅とは反対方向に行ってみることにした。しかし、地方都市ということもあり、駅から遠ざかるにつれて店などはほとんどなくなり、住宅がまばらにあるだけの景色になっていった。
とりあえずこの辺りまでくればいいか、と感じた私は、来た道ではなく別の道を通って駅の方面へと向かうことにした。そちらの道は、先に進むと大通りに繋がり、その大通りに沿って行くと駅へと繋がっている。
私は歩いているうちに、心の内でザワザワとした、悍ましい既視感を覚えていた。目の前に広がる景色……どこかで見たことがある……。それはすぐにわかった。いつも悪夢の中で見る、あの景色だ。
実は、引っ越してきた当初から薄々感じてはいた。夢の中の街並みと雰囲気が、この街に似ていると。だが、気のせいだと思うように努めていた。しかし、やはり気のせいなどではなかった。今、目の前に、夢の中で見たあの交差点が広がっている。
私は立ち止まり、どうするべきか考えた。夢の中では光の玉に導かれて歩いて行ったが、今目の前には光の玉はない。引き返そうと思えば自分の意思で引き返すことは容易い。
だが、私はそうするつもりはなかった。あの悪夢の結末が、現実でどうなるのか。知りたいという禁忌にも似た衝動に駆られた。私は交差点に向かい歩き始めた。夜と昼という違いはあれど、見える景色はやはり夢の中と寸分なく同じだ。
やがて交差点までくる。夢の中と違い、交差点の中は車が引っ切りなしに往来していた。とても交差点の真ん中まで行くことはできない。しばらく交差点を見つめていたが、何も起こることはなかった。夢で見た場所に来たということに興奮していた気持ちが、徐々に冷めていく。なぜ初めて来たこの場所のことを夢に見たのかは不思議だったが、所詮夢は夢だと、私は自分に言い聞かせた。そして最初の予定通り、交差点を通り過ぎて駅の方に私は歩き出した。
それ以来、私は夢のことなどすっかり忘れてしまっていた。
単身赴任が長くなり、私は妻と子供と相談して、皆でこちらで暮らすことにした。今住んでいるマンションは単身者用の手狭なマンションのため、近くで物件を探すことにした。奇妙な巡り合わせか、家賃も手ごろで築浅、部屋数も多いマンションが、あの交差点から目と鼻の先で見つかった。もう夢も見なくなってずいぶん経つ。私はあえてそれについては気にしないことにした。
私には二人の子供がいる。上が女の子で梨央、十三歳。下が男の子で佑真、十歳だった。
家族でマンションに住むようになってしばらく経ったある夜、佑真が青ざめた顔で私の元にやってきた。
「パパ、変な夢を見たんだ……」
私は息子の話を聞いて、背筋が凍りついた。私から忘れ去られていたはずの悪夢が、今度は息子に憑りついたかのように、まったく同じ光景を見せていたのだ。妻には以前夢の話をしていたこともあり、彼女も佑真の夢が私の夢と酷似していることには気づいたようだった。だが、私は妻に、その夢で見た場所がこの近所の景色と寸分なく同じだとは言っていなかった。
そして、佑真ははっきりと、夢の中で見た景色が、ここ、マンションの前からあの交差点に続く道なんだ、と言ったのだ。訝しげに私を見る妻に、私は私が見ていた夢の景色も、ここの景色と同じだったと告げた。すると妻は、引っ越してくる前に、なぜそれを教えてくれなかったのかと私を責めた。私は、夢の通りに歩いてみたが何も起きなかったこと、長い間あの夢は見なくなっていたことを話した。妻は納得いかないようだったが、佑真が不安気に私たちの様子を見ていることに気づいて、妻からの私への追及は終わった。
それ以来、佑真はその夢をたまに見ることはあったが、他に何か起こることもなく、年月は過ぎて行った。私たち家族も、そのうち佑真の夢の話を深刻に受け止めることはなくなっていた。
それから六年が経った。梨央は大学進学で東京に引っ越しており、家族三人での生活となっていた。相変わらず佑真はその夢を見ることがあり、「今日あの夢を見た」と話すことがあったが、もはや誰もそれを気にすることはなかった。
そんな時、私は会社から東京にある本社への転勤を命じられた。梨央も東京に住んでいることだし、家族皆で東京に戻ることになった。そして、東京に引っ越す一週間前の夜に、それは起こった。
佑真は夜中に友達の家に行くと言いだした。友人にノートを貸していたのだが、返してもらうのを忘れていたらしい。明日にするように言うが、明日学校に提出するレポートを書くのにどうしてもそのノートが必要らしかった。幸いというか、その友人の家は近所にあり、歩いても五分くらいの距離だったため、今から取りに行くと言う。ならば仕方ないと、私と妻はすぐに帰ってくるようにと言って送り出した。
だが、出かけてから三十分しても帰ってこない。さすがに遅いと気になり始めたときに、外から救急なのか警察なのかわからないが、サイレンの音が聞こえ始めた。不安になった私と妻は家の外に出る。サイレンが向かう方向は、どうやらあの交差点のようだ。
私と妻は交差点に向かって駆け出した。交差点に近づくと、パトカーや消防車、救急車が止まっているのが見える。そしてそれを囲うように野次馬の輪ができはじめていた。その先、交差点の真ん中あたりに、トラックが一台、止まっているのが見えた。
それを見た瞬間、私は悪夢で見た光景を瞬時に思い出していた。
まさか……。
救急隊員が担架に誰かを乗せているのが見える。私はそれがもしかしたら佑真かもしれない、いや、あれは佑真なのだろうと、最悪の予感に身震いした。
だが、違った。それは見ず知らずの老人で、佑真ではなかった。担架の近くに警察官が見えるが、その警察官と一緒に立っていたのは、まぎれもなく佑真だった。それを見つけた私は、妻に「あそこに佑真がいる」と告げる。妻もそれまで不安気に事故現場を見つめていたが、佑真が無事でいることを確認して安堵しているようだった。
家に帰ってから佑真に何があったのかを訊いた。
佑真は家を出ると、いつも夢で光の玉を見る辺りに、一人の老人が立っているのを見つけたという。その老人は佑真のほうを見ていたが、佑真が自分に気づくと、何も言わずに振り返り、交差点の方に歩き始めた。
佑真はなぜかその老人が気になり、まるで操られるかのように、老人の後を追うように歩いていった。「今思うと、まるで自分の意思とは関係なく歩いていたんだ」と、佑真は震える声で語った。
そして交差点まで来ると、その老人は迷うことなく交差点の中を歩いて進む。すでに夜中ということもあり、車がいない交差点を、老人はまるで自分の庭を歩くように進んでいく。佑真も老人に続いて交差点を進もうとしていたが、その瞬間に佑真は我に返ったという。これ以上進んではいけない、と本能が体を押し留めた。
佑真は歩道に立ち止まり、老人の様子を伺っていた。交差点の真ん中まで来た老人は、振り返って佑真の方を見る。佑真がまだ歩道にいることに気づいた老人の、それまで無表情だった顔が、僅かに強張ったように見えた。「来い」とでも言いたげに、老人は佑真に向かって手招きをする。そして、老人は何か言っている。「光が……」と、微かに聞こえたが、はっきりとは聞き取れなかった。
佑真は老人の手招きを無視し、ただ老人を見続けた。やがて、遠くから車が近づいてくる音が聞こえる。佑真は、「これも夢の通りだと思ったんだ」と言った。そして、夢の通りなら、そのトラックは交差点の中にいる人間を轢く。
佑真は老人に「危ない!」と声をかけた。だが、老人は佑真の声など聞こえていないかのように、ただ佑真に手招きをするだけだった。そして、トラックが交差点に進入してきた。トラックの運転手は交差点内に老人がいることに気づいたのだろう、トラックからは悲鳴のような急ブレーキの音が響いた。
佑真はトラックの急ブレーキの音を聞きながら、老人がトラックに跳ねられる瞬間を、はっきりと見ていたという。その後、佑真は警察に連絡し、現場へ来た警察官に見たままを話したのだった。
それを聞いた私は、確かに夢の中と同じところもあるが、異なるところが気になった。特に、私の夢では光の玉だったものが、佑真が見たのは老人だったことを不思議に感じていた。
佑真にそれを聞くと、佑真は「実は、今までパパに話してなかったことがあるんだ」と言った。佑真の見る夢は、最初は私と同じように光の玉だけだったらしい。だが、夢を見るたびに、その光の玉を自分と同じように見つめている「人影」の存在に気づいたという。
「その人影が、あの老人だったような気がするんだ……」
私はそれを聞いて、ますますあの夢が何だったのか分からなくなるのだった。翌日、警察から車に轢かれた老人が亡くなったという連絡があった。ただ老人は身元がわかるものを所持しておらず、どこの誰だか分からないとのことだった。
あの後、私たちは予定通りに東京へ引っ越し、あの土地から離れた。あの事故があったからか、引っ越したからなのかは分からないが、佑真もあの夢を見ることはなくなったらしい。
その後、気になって警察へ連絡して聞いてみると、あの老人の身元は判明したという。どうやら、あの交差点の近くの一軒家に一人暮らししていたが、身寄りがいないらしく、結局無縁仏として葬られたらしい。
結局、あの夢は何だったのか、そして老人はどうしてあの場にいたのか、それは誰にも分からないままだ。ただ、あの交差点には、何か言葉では表せない何かが、今も存在している気がしてならない。