序
ダンジョンの最奥の、魔王の座。
大広間には、今《勇者》である私と、《魔王》しかいない。
「何故、気づいた?」
《魔王》が私に問う。私は、《魔王》の顔を正面から見据えて、答えた。
「――カレーライスにたけのこがはいっていたからだよ」
1.
この世界には、定期的に訪れる《混沌の夜》というものがあって、それが訪れる度に世界は永久に変わってしまうという。
そして、数少ない《勇者》を除いては、混沌の夜で「一体何が変わったのか」を認識出来ないのだそうだ。
ある日訪れた《混沌の夜》によって、私は、自分が《勇者》であると知った。
この世界が「変化した」ということを認識してしまったからだ。
――自分の「前世」を思い出すことによって。
私は前世で、30代半ばの独身非正規職――というか、正確には無職で求職中そして独身(結婚予定も無し、恋人もなし)の、瀬戸際生活の女だった。
今まで非正規雇用の経験しか無い、という時点でほとんどの場合履歴書で門前払いを喰らう中、初めて正規職への応募で面接までこぎ着けて、その面接に向かう途中だった。
信号待ちをしていて、嫌なスリップ音がしたんだ。
とっさにそちらを向くと、トラックがこちらに向かって突っ込んでくる最中だった。
――というのが、前世最後の記憶。
次に気付いた時、最初に見えた天井があまりにも(前世の)田舎のお婆ちゃんの家の天井に似すぎていて、しばらく自分がどこに居るのか分からなかった。
しばらくして、そもそも自分が見ている天井は産まれてこの方14年間見てきたものだ、と気がついたんだけど。
現世では、王都にほど近い農村で育った14歳の少年だった。
次男坊なので家を継ぐことは出来ず、そろそろ身の振り方――兵役に就くなり、都市か荘園に出稼ぎに出るなり――を考えなければいけない年頃だった。
何という家父長主義社会だ。滅びればいいのに。
少年に30代半ばの女の記憶が入ることで、少年の精神が崩壊したのか何なのか、今の私は、前世の私そのものの精神である。
思い出した瞬間から、私は私そのもので、むしろ変化したのは周囲の状況の方だ。
幸い、この身体の持ち主の記憶もきちんと残っていたので、生活に困ることは無いが。
ついでに、《勇者》だということがバレると結構面倒そうなので、黙っていようかと思ったのだが、早々に見つかってしまった。
「あなたが《勇者》なのですね!」
と、村を訪れた巫女(尾花栗毛の髪の美少女)にうっとりとした瞳で跪かれた日には、もう悪夢のようだった。
「君は《勇者》ではないの? 僕が勇者だってことが分かるんでしょ」
農村から王都に向かう馬車(拉致されて乗せられた)の中で、私は巫女(ミンという名前らしい)に問うた。
「はい、私は《勇者》を見いだす能力があるだけなので。
あなたを見いだすことが出来て良かったです、そうでなければ私などただの役立たずですからね」
そう言ってにっこりと笑う。
年頃の少年だったら、それだけで舞い上がってしまうほどの天使みたいな笑顔だ。
――いや、私でもぐらっとはくるけど。
そう思いながら馬車の窓から見た空は、何だかやたら既視感のあるものだった。
あの日――信号待ちをしていた、事故に遭うなんて思いもしなかったあの時の空も、こんな空だったっけ。
5月にしてはやたら暑い日だったが、面接ということで黒いスーツを着ていたんだった。
背中や首筋に当たる陽光が、ジリジリと感じられたのを覚えている。
今も、そんな感じの初夏の――麗らかすぎるほどに麗らかな昼下がりだった。
しかしまあ、考えてみれば、「代わりなんて幾らでも居る」非正規労働者よりは、「勇者様」の方がなんぼかマシかも知れないな。
と、その時は思った。