青の巫女〈2〉
庭園の東側、青の塔に戻って禊用の青い薄絹の衣に着替えると、ミラージュはミーナを伴って神の泉へと向かった。
神の泉とは巫女や正法官が身を清める沐浴場で精神的な浄化をもたらす意味合いが強い。今朝は神々に捧げる最高の舞である“鏡の舞”の演者であり、青の都における最高位の巫女となるミラージュに、最初に使用する権利が与えられていた。
「ごきげんよう、青のミラージュ」
「ごきげんよう」
背後から声をかけられ、ミラージュは歩みを止めた。振り向けば、赤の巫女デジリアと白の巫女マリサが並んでいた。
「……ごきげんよう」
ゆうるりと青の巫女は応えた。
「これから禊ですの?」
当たり前すぎるデジリアの問いにミラージュはうなずいた。その様子に、かすかにデジリアは笑った。
「あなたも、あまりお話しにならないひとですのねぇ、シャイスタのように」
頭をやや右に傾けて、ミラージュはデジリアの言葉を聞いていた。
「やはりあなたも、巫女となるべく育てられたかたですの? お生まれは?」
「……エリュシオン」
小さなささやきをデジリアは聞き取った。
「エリュシオン……? そう、やはり、あたくしやマリサのように俗世間から巫女に任ぜられたのでは、ないのね?」
聞いたこともない地名、聞いたこともない名前。
なのにこの女は、自分よりも高い身分に就く。
「デジリアさま、そろそろ塔へ戻りませんと」
私情に打ち震えんとした身に、マリサが促した。
「そう……ではね、ごきげんよう」
あくまでも、鷹揚にデジリアはふるまう。
「ごきげんよう」
ミラージュの返しを受けると、赤の巫女と白の巫女は去っていった。
「ミラージュさま、お急ぎを」
ミーナの声に、ミラージュは再び歩き出す。
「赤の巫女デジリアさまは、三年前、色を与えられて赤の塔に入られたかたです。太子さまの異母妹にあたられます。白のマリサさまは、もともとデジリアさまの侍女で、いまもこのおふたりの主従関係は続いておりますわ」
歩きながらミーナは訊かれてもいないことを話しだした。ミラージュは黙したままである。
「シャイスタさまも王族の姫君でしたが、十歳を前に大病で失明なさり、巫女になられました。……ミラージュさまっ」
急に立ち止まると、ミーナは真剣な表情で告げた。
「赤の正法官ヤマさまには、お気をつけくださいませ」
「赤の正法官?」
ミラージュは動じない。
「デジリアさまも、あのかたを恐れて青の巫女にはなろうとなさらなかったんですから」
「ミーナ……」
なぜ急にこの少女は警告めいたことを言い出したのか、平板な巫女の感情に疑問が生じる。
ミーナの告発は止まらない。
「あのかたは、ヤマ・ダルマさまは……実の妹君を、殺してしまわれたのです。ヤミーさまは、双子の妹のヤミーさまは……青の巫女となるはずのかたでしたのに……」
自分の存在ではなく青の巫女という地位への拘りであったのか──ミラージュはヤマから向けられた強い視線の意味を察した。
「それ以来、ヤマさまが拒絶されるため、いままで青の巫女は空位とされてきたのです。ですから、ミラージュさま、ヤマさまにお気をつけください」
「ヤマ・ダルマ……?」
黙って歩を運びつつ、ミラージュは考えていた。
その目はこころもち細められ、ごくわずかに眉根が寄っていた。考え事に集中しているときの癖だ。それを知る者は……この星にはいない。
そのことも考えなければならなかったが、ミラージュは密かに息をついてすべての思考を散らしてしまった。
やがてふたりは神の泉に到着した。
深い水槽に静かに身を浸し、ミラージュは儀式を思った。神水が身体を包みこむと長い金髪が水面に揺らぐ。
式次第は問題なく頭に入っている。順々に祈りと舞いを捧げ、退出する、それだけだ。
幼い頃から奉納舞は何度も経験している。いや、していた……これは……誰の、なんの記憶か。
神水の冷たさに思わず身じろぎし、ミラージュは階を上って神泉から出た。濡れた薄絹が身体に絡みつく。ミーナが大きな青い布でミラージュの全身を覆い隠した。
「……啓示は?」
「なにも……」
大正法官が受けたことすら、幾世代ぶりかの奇跡とされている。そうそう神のお告げなどというものは降ってはこない。
「おはようございます、ミラージュさま」
「おはようございます」
塔に戻ると、ミーナの同輩の娘たちがミラージュに頭を下げた。
うなずいて受けると、ミラージュは衣を替え、質素な朝食の後に暫時の瞑想にこもる。
その姿が御座所の帳の中に消えると、階下に下がった少女たちのあいだで、ため息が漏れた。
「……いつ見ても、お美しい」
「ホント、思わず呼吸するの忘れちゃう」
「ミーナったらぬけがけして」
「あら、みなさんがお寝坊だからでしょ」
やっかみにミーナは笑いながら応えた。身分の低い巫女、ことに若い見習いのような者たちは、色を与えられた巫女ほどに感情を隠したりしない。彼女たちは町娘のように陽気で、宮中侍女のようにおしゃべりな、無邪気な少女にすぎなかった。
「巫女さまのお衣装、よろしいんですか?」
「もちろん、あたしたち、ちゃんと揃えておいてよ」
ナルという娘が応えた。
色を与えられた巫女は一人称代名詞を用いず、ゆったりと感情がこもらない語調で話すが、彼女たちは普通に話す。気をつけてはいるようだが、巫女となって日の浅いデジリアやマリサも、つい普通にしてしまうことがある。
「それにしても……」
ナルが思案顔で言った。
「よくヤマさまが黙っていたものね。怖いわ。あのかた、ミラージュさまに何もなさらないでしょうね?」
「あっあたし、さっき中庭で見たわ」
「ミーナ、いったい何を?」
「ミラージュさまと黒のシャイスタさまのお傍に、ヤマさまがいたのっ」
「「「まあっ!」」」
若い巫女たちは一様に手で口を覆った。
「それでっ、ヤマさまの目はどうだった? 怒っているとき、その目に睨まれると身動きできなくなるという」
ユリサという娘が訊いた。
「ヤマさまは、空を見上げていたわ。あ、ミラージュさまも、シャイスタさまも……そうなさってた」
「そう。では、ヤマさまにはいまのところミラージュさまに何か思われているご様子は、ないのですね?」
不意に彼女たちの背後で声がした。
おだやかな語調。抑揚はなく、一本調子なしゃべり方ではあるが、何となく語尾が震えていた。
「黒のシャイスタさまっ?」
一同が振り向いて絶句した。
「よかったこと……」
安堵したのが見て取れた。
「シャイスタさま?」
同行していた古参のトーラが訝しげに声をかけた。古参とはいえ、三十路にはまだ達していない。
「青の巫女は?」
塔の者ばかりかトーラまでもが自分を不審に思っているであろうことを感じながらも、シャイスタは訊いた。
「ミラージュさまは瞑想をなさっておいでです」
「そう……」
シャイスタはすぐに引き下がった。巫女になって十年、ここまで何かに関心を示す彼女の姿は珍しい。
「さ、シャイスタさま」
トーラに先導され、黒の巫女は青の塔を離れていった。
「どういうことかしら、これは?」
ただでさえ少女たちのミラージュへの思いは募っている。そこへさらに、シャイスタの執心までもが寄せられているとなると……。
「何としても、ミラージュさまを」
「青の巫女の御位に」
「いいえ、ヤマさまからお守りしなくてはならないということよ!」
口々に囀る声に、誰かが強く結論した。
「そう、それよ。ミラージュさまを、あたしたちがお守りするのよっ」
段々と思考が統一されてゆき、ナルが言い切った。
「でもどうやって? 相手は赤の正法官、死を司る者にして生きた掟だというのに」
ミーナの意見にしばし沈黙したものの、ややあってナルは言った。
「ヤマさまの武器は、腰の剣よ。今日一日、せめて、ミラージュさまの舞が終わるまであのかたを近寄らせなければ」
「ミラージュさまが正式に青の巫女におなりになるまででいいのね?」
「それならば、あたしたちにもできるはずですね?」
ナルの案にユリサもムスティも傾きだした。
「どうしたの、ミーナ? 大丈夫よ。青の巫女に仇なすことは、この青の都では太子さまや大正法官さまに仇なすも同じこと。何人も、そんな大それたことをできるわけがなくてよ」
「そうよ。それに、きっとクリシュナさまが止めてくださるわ! あのかたは、女性を傷つけることを何より嫌っておいでですもの」
ナルの後をナーティが続けた。
「でも」
ミーナは半泣きの顔を上げて言った。
「ヤマさまは、正義を守るために妹君すら、その刃にかけてしまわれたではありませんかっ」
「あれは……しかたのなかったことよ」
ナルの声が弱々しくなった。
「青の巫女になることでヤマさまの不興を買うことを恐れてデジリアさま、王女の地位にあったかたまで遠慮なさり、十年近くも青の都に青の巫女がいなかったのは?」
「ミーナ、あなた、ミラージュさまを青の巫女にしたくないのですか?」
「いいえっ」
ムスティの問いにミーナは首を横に振った。
「あたしはただ……ヤミーさまのように、ミラージュさまをヤマさまの手にかけさせたくない、それだけです」
「ミラージュさまはヤミーさまとは違うわ。それに、あれはヤミーさまに非があったのよ」
「えっ?」
ナーティの言葉に、ミーナは耳を疑った。
「……当時あなたはまだ幼く、ましてや神殿のことだから、ヤミーさまが粛清された理由も、よく知らないのでしょうね」
「知っています。それは、巫女であるヤミーさまが恋をなさったからでしょう?」
無邪気なミーナの言葉にナーティは苦笑した。
「でも、まだ色を与えられていなかったのだから、還俗は自由でしたよね?」
「そうね。あなたたちのような者ならば、還俗して嫁ぐことができますよ」
年相応の落ち着きで、ナーティは話した。
「恋愛も……この塔を出ていけば、思いのままね」
「なのに、青の巫女の地位をあきらめ、恋に生きようとしたヤミーさまを斬るだなんて……」
今度はナーティが己の耳を疑った。
「あなたたちは……そのように、聞いているの?」
ミーナ以下、ナーティよりも若年の巫女たちは一様にうなずいた。当時から青の塔にいるのは、彼女だけなのだ。
「巫女を辞めて恋に生きることは、そんなにも罪深いことなのですか?」
「恋も相手によりけりということです……」
ムスティの問いかけに、力なくナーティは応えた。
「相手によりけり?」
「道ならぬ恋を、ヤミーさまはしてしまったのです」
「……もしや?」
「そのもしや、です、ミーナ」
「え……ヤミーさまは……ヤマさまを……?」
「そんな! まさか、ご兄妹で?」
ナルの声がミーナのそれを消した。
「……肉親の情に流されず、ヤマさまはヤミーさまを自らの手で、斬ったのです……」
「では、いままでに何回かヤマさまが不可解な粛清をなさっているのは……」
「おそらく、そういうことなのでしょうね……」
ユリサの言を、ナーティは肯定した。
「……ヤマさまは、ヤミーさまのものとなるはずであった青の巫女の地位を、守っていたのですね」
聞いたことのない声がしんみりと言った。
皆が声の主を見る。
「ミラージュさま……」
「みなさんのお話を、黙って聞いてしまいました……ごめんなさい」
ミラージュの声に、表情があった。彼女が普通に話すのを、彼女たちは初めて聞いた。
「申し訳ありません、昔のことを……」
「かまいません」
ミラージュはヤマが含む理由がわかり、逆にすっきりしている。
「……支度を」
再びもとの巫女口調でミラージュは言った。その一言で、彼女たちは青の巫女の正装を纏わせるべく、動き出した。
◆ ◆ ◆
青の都を取り囲む城壁を抜け、ふとヤマ・ダルマは足を止めた。前方に聳えるシュリーン山はこの地方には珍しい雪を山頂に残している。
再び、ヤマは歩き出した。
──どのくらい歩いたか、足は休みなく動かしているのだが、思考がぼんやりとして何も考えないようになった頃、彼は進む路上に何かが転がっているのに気づいた。
少し、歩く速度をはやめた。人のようである。
「おい、生きているのか?」
それが人間だと視認すると同時に駆け寄り、揺さぶった。
「う……?」
それは低く呻いた。
「生きている……」
ヤマは男の首筋に手をやった。しっかりとした脈を感じる。
「おい、どうした? おまえ、何があった?」
膝をついて抱き起こすも、言葉にならない唸り声を発するだけで、男はいっこうに正気づかない。
舌打ちして、ヤマは身に纏っていた肩布をはいで男をくるんだ。体型から男だと思うものの、見慣れぬ装束がヤマの警戒心を緩めない。このまま直ちに一刀両断の措置を取ることも考えたが、彼の師である大正法官ラマーに判断を委ねるのが賢明と思われた。
ヤマは梱包した男を肩に担ぎ上げた。意外に軽い。十歳にも満たぬ子供同然の軽さである。
金色の天翔ける舟のことが意識をかすめたが、彼はもと来た道を戻ることにした。
to be continued……