青の巫女〈1〉
「……れ……?」
暗黒の沈黙の中で声がした。
「……だれ……?」
二度目ははっきりと。
そして、金色の光が闇を切り裂いた。
夜明けの薄明の中で、彼女はひとり、眼下の街に見入っていた。その身にまとう衣は美しく立派ではあったが、明け方の冷気は容赦なく彼女の身体からぬくもりを奪っていた。
背後に人の気配を感じ振り返る。
「誰?」
肩布を手に、マークはそこで歩みを止めてしまう。振り返ったはずみでしなった長い金髪が元に戻るさまを、彼はまばたきもせずに見ていた。相手がマークだと認識すると同時に彼女は微笑んだ。
「ジュラ王マークトリトン……マーク兄さま」
「寒くないのか? そんな格好で」
「ええ、少し」
ならばこれは押しつけにはなるまい、自らを許してマークは細やかな肢体を厚手の布地で包み込む。
「……何をしていた?」
「わたしの領土を、見ていました」
「一晩中か?」
思わず頬に触れるとひやりとした感触が伝わってきた。
「テラ……」
言いかけて迷った。自分はいま、妹をこの名で呼ぶことができるのだろうか。
「……クィーン・テラ、我が妹にしてレムリアの万世たる女王、レセマトーラ77世陛下」
ためらいながら、言い直した。正確には第101紀の77世だ。彼はレムリア女王の宝冠を戴く妹の姿を、改めて見つめた。
「なぜ、わたしのことをそんなふうに呼ぶのです。わたしはあなたの妹なのに」
テラは悲しげな横顔を兄に向けた。
昇ってきた朝日が冠の宝玉に当たって光線を走らせる。黄金に輝く髪に縁取られた白い顔の中で、青い瞳は透明な蒼さをたたえていた。
「……マーク兄さま」
向き直ったテラがまっすぐに彼を見上げた。
彼女は何かを言おうとしていた。
そのとき、街のあちらこちらから花火が打ち上げられた──。
夢うつつに衝撃を感じ、マークは目を覚ました。
「……夢だったのか」
力なくつぶやき、それからやっと現状に気づく。
室内は赤い非常灯に照らされていた。
絶え間ない警告音が異常を伝えており、そのけたたましさに事態が深刻なのだと嫌でも感じた。
駆け込んだ操縦室ですべての環境モニタを表示させる。いちばん大きなものは進行方向のライブ映像だが、そこにはいっぱいに、惑星の姿が映っていた。
「どこだ?」
海洋の青と植物と思われる緑が多い球体、環はない。見覚えがあるようで、でも、どことはすぐに特定できる外観ではなかった。居住可能な惑星は、たいていこんな感じの見た目なのだ。
彼の音声を拾った中枢制御機構が自動的に位置検索をかけているあいだに、マークは船内外のモニタをチェックした。
後部のエンジンノズル付近の損傷が激しい。
エンジンルームのモニタが映らないのは内部がまるっと吹っ飛んだのか単なる故障か。火災は起きていないようだ──再び船に衝撃が走った!
思わずコンソールに手をついて体を支えた。
「は、道理で花火」
長く見ていたようでも夢は刹那に展開する。少し乾いた爆ぜる音が引鉄となって彼は戴冠式の夜を思ったのだ。
「ここは……」
彼の指示を受ける以前に、宇宙船は危機回避行動として目の前の惑星への降下を開始している。
スピネル恒星系第4惑星カルマ──大気成分に問題はない。文化レベルは“剣の時代”。なけなしの情報がロストプラネットである可能性を示唆していたが人類が存在しているならば、ありがたい。あとはいかにうまく着陸するかだ。
この船で帰還する以外の選択肢はなかった。
◆ ◆ ◆
竪琴の音色は青く薄色を帯びた庭園に朝の空気を塗り拡げるように漂う。周りを囲う石造りの建物からはまだ、人の起き出してくる気配はない。
ふと糸を弾く手を止め、黒の巫女シャイスタは清々しい朝露に似たそよ風の香気を楽しんだ。しっとりとしたやさしい空気に萌える若葉が心地よい。
胸いっぱいに呼吸すると、自らも庭の一部と同化したような、不思議な安心感に包まれる。そうして、風のようにこの庭全体を、回廊を、そして神殿全体を調べに乗せて覆い浄化するような気持ちで再び琴を鳴らそうとして、彼女は動きを止めた。
シャイスタが両の目の視力を失ったのはまだ十歳にも満たぬときであったが、それゆえに音を聴き取る能力には長けていた。その彼女の耳が、かすかな足音を捉えていた。
シャイスタは近づいてくる何者かに顔を向ける。
「暁の銀星は暁紅の女神の涙……」
澄んだ声が囁きをこぼした。
「青の巫女?」
新参の巫女の声を、聴き分けるほどには、彼女は聞いていなかった。
「烏羽玉の夜の女神、御身はいずこ」
再び声がして、シャイスタはすぐ傍に誰かが身を寄せた気配を感じた。
「ごきげんよう、黒のシャイスタ」
「ごきげんよう……青の巫女ミラージュ」
ふたりは形式的に挨拶を交わした。そのまま、双方とも何かを語りだす様子はまったくない。
シャイスタの指が自然と弦を弾くと、それに合わせて青の巫女ミラージュは歌った──。
暁の銀星は暁紅の女神の涙
烏羽玉の夜の女神
御身はいずこ
我が姉よ御身はいずこ
我は残れりあけぼのの国──
突然にミラージュが歌をやめた。つられてシャイスタも手を止める。
「続きを、歌わないのですか?」
やや迷ったが、シャイスタは声をかけた。
神殿の巫女──特に、色を与えられた巫女──が感情を現すことは稀である。シャイスタ自身、自分がミラージュの歌の続きを聴きたがっていることに驚いていた。
「続き……? 我が、姉……残れり……いったい何を、歌っていたのでしょうか……」
「暁の銀星を、即興の詞で」
「……琴の音があまりにもすばらしかったので、我を忘れていたのでしょう」
「こんな詞でした」
うろ覚えながら、シャイスタは歌って聞かせた。ミラージュはぼんやりとした様子で聴いていたが、シャイスタが歌い終わると続けて歌った。
遥かに遠い月日を重ね
永遠に流れる時の河
月に定めし約束を
星に誓いし約束を
時の流れの果てまでも……
ミラージュの歌に合わせて弾いていた竪琴の、最後の一音の余韻が消えると同時に、シャイスタは言った。
「そこにいらっしゃるのは、どなた?」
顔はミラージュの方に向けられている。
ゆっくりとミラージュは後ろを見た。
やや浅黒い膚をした夜色の目をした男が立っていた。背はかなり高く、整った顔立ちにはどことなく幼さが残っている。だが、その神秘的な夜の色の瞳には暗い影が沈んでいた。
「赤の正法官!」
男の胸に輝く赤い宝石を嵌め込んだ護符にミラージュは目を留めた。
「赤の正法官? ヤマさまですの?」
問いかけるシャイスタにミラージュが視線を戻すと、ヤマと呼ばれた男は、無言のまま、無表情に彼女を見やった。
「このかたは……新しい青の巫女です」
「青の! 巫女?」
ヤマの口から、低い声が漏れた。痛いほどの注視を、ミラージュは背中に感じる。
「あ……」
気配を感じ取り、シャイスタは遅まきながら口に手を当てる。
ミラージュを睨んだまま、ゆっくりとヤマは歩き出した。ミラージュは身じろぎひとつせずにシャイスタの方を見ていた。
「大正法官が神の泉より抱き上げた“遣わしめ”とは、あなたか?」
ヤマはミラージュの傍に立ち、真っすぐに彼女を見下ろしていた。
ミラージュはその青い瞳をヤマに向けたが、彼の問いかけには応えず、固く唇を閉ざしていた。
「違うのか?」
問う者の視線と問われる者の視線とがかち合った。
ミラージュは応えた。
「エリュシオンの神々の命により、神の泉に降り立ちました」
「エリュシオン?」
「……エリュシオンのミラージュ、それが名前。そして今日、正式に青の巫女となります」
ゆったりと、抑揚のあまりない高位巫女特有の口調でミラージュは言った。
「青の巫女?」
つぶやくヤマの目がミラージュから外れる。
「今日、“鏡の舞”を舞うのはミラージュです」
決定されている祭式をシャイスタが告げると、
「“鏡の舞”? 青の巫女が?」
ヤマが驚きを露わにした。
「では、彼女が?」
「青の都で神に捧げる最高の舞を舞うのは、やはり青の巫女でしょう」
「しかし、青の巫女は」
言いかけてヤマは口をつぐんだ。しばらく考えた後、彼はミラージュに言った。
「この青の都における青の巫女の立場を、あなたは理解しているのか?」
「大正法官ラマーさまに従うだけです。理解も何も、必要ありません」
表情ひとつ変えることなく、ミラージュは言う。
「大正法官はエリュシオンに青の巫女を求めました。神々はミラージュという生体を以って、その要求に応えました。ただそれだけのこと」
「あなたの意志は?」
「巫女の意志は求められていません」
「大ラマーが、あなたをエリュシオンに求めたのか」
ミラージュは肯首した。
「エリュシオンとは?」
「……神々の楽園」
ミラージュの応えに感情的な逡巡はない。
そのとき、じっとふたりのやりとりを聞いていたシャイスタが顔を上げた。
「あれは?」
その指し示す方角の上空、あけぼの色に染まりつつある空に、何やら煌くものがある。
「銀星……?」
「いや、違う」
明けの星の位置にあるはずのものの名をミラージュが口にするとヤマが否定した。
「…………天翔ける舟!」
ややあってヤマが言ったときには、天翔ける舟──宇宙船──の金色の船体がはっきりと見て取れた。
あまり巨大なものではない。形は、円盤に似ていた。何とも例えようのない流れる川のような低い音と共にそれがゆっくりと神殿の上空を渡ろうという段になって、ミラージュの口から小さなつぶやきが漏れた。
「〈クュリス〉! まさか……」
驚き、悲鳴のような声を押し隠して天翔ける舟を見つめるミラージュを、鋭いヤマの夜色の瞳と、シャイスタの何も映さぬはずの紫の瞳が見ていた。
「……青の巫女さま」
どのくらい経ってからか、天翔ける舟が殿舎の向こうに消えてなお沈黙していた三人は、呪縛から解けたように声の主を見た。
「ミーナ」
静かにミラージュは相手の名を呼んだ。ごく位の低い巫女、というより、ミラージュの世話係の少女だ。
「禊をなさる時刻です」
ミーナは笑顔で話しかけていたが、ヤマを見るとひどく狼狽え、顔を下に向けてしまった。
「……いま、まいります。ごきげんよう、黒のシャイスタ。ごきげんよう、赤の正法官さま」
「ヤマ」
「……ヤマさま」
言い直すと、軽く会釈してミラージュはミーナを従え、青の塔へと歩き出した。
シャイスタは再び竪琴を弾じ、ヤマもまた自室へと足を向けた。
◆ ◆ ◆
「な……!」
手早く宇宙服を着込み、エンジンルームに向かったマークは絶句した。
エンジンルームに通じるドアは大きな耐熱ガラスで通路から中が見えるようになっている。彼は己が目を疑った。
モニタが映らなかったのも当然だ。エンジンルームのカメラは炭どころか、痕跡すら残っていない。彼の乗るこの小さな宇宙船なぞ、軽く消し飛んでしまう規模の爆発があったと推察された。
「……テラか」
マークの脳裏に妹のやんわりとした笑顔が思い浮かぶ。
「おまえが、助けてくれたのか?」
確信があった。でなければ、メインエンジンが爆発した宇宙船が大破もせず、通路とのドアを隔壁にしただけで航行できているはずがない。シールドされていなければ、いまごろ彼の体は宇宙空間で……。
「これが、残留思念なのか、テラ……」
振り返ればそこに彼女が立っていそうな気がするのは、この宇宙船が彼女が手掛け、最後に使用したものだからなのか?
もう一度、エンジンルームを一瞥するとマークは操縦室に戻った。
ヘルメットをシートに投げやり、通信回線を開く。カルマ星からの呼びかけはなく、こちらの通信が傍受された反応もない。
「やはり、この惑星は……」
期待できないのだと判断して、マークはモニタに目を向け、固まった。
大気圏に突入している!
警告音が鳴らなかった理由はすぐにわかった。この船、かつてクィーン・テラ自らが〈クュリス〉と名づけた宇宙船の動力は、回路は、すべて沈黙してしまっている。いまこれは、惑星の重力に引かれているだけなのだ。
テラにしても仲間たちにしても、この船は単独機であり救命艇でもあるという認識だった。それに非常脱出用の何かを付与する必要などなかったし、余地もなかった。海に落ちるか大地に激突するか──パラシュート降下もやむなし、と思いつつマークは言ってしまった。
「テラ……頼む」
声に応じるかのように〈クュリス〉は軽く振動した。
船内温度の上昇で周囲には空気の対流が起こっていた。しかしマークはこれといった暑さを感じていない。
「これもテラのシールドか?」
また〈クュリス〉が大きく揺れた。前につんのめったマークの目が、メインモニタだった強化フロントガラスの先の光景に釘づけになる。
かなり、地表が近くなっている。巨大な寺院風の建造物が目につく。
「文明は発達しているが、やはり“剣の時代”か?」
再度、〈クュリス〉が揺れた。今度は後ろにのめり、マークは後頭部を強打した。
「テ、ラ……」
薄れゆく意識の中で、マークはその名を呼んでいた。
◆ ◆ ◆
部屋に戻ると、ヤマはターバンを巻きつけ、赤い宝石のついたピンで留めた。彎曲した幅広の剣を引き抜いて刀身を検め、鞘にしまう。短剣と共に飾り帯に手挟むと、肩布を手に足早に出る。
「お、なんだヤマ、出かけるのか?」
階段ですれ違いかけた黒の正法官クリシュナが声をかけてきた。
「ああ」
ヤマの応えは素っ気ない。クリシュナから話しかけなければ、彼は何も言わずに階段を下りていってしまったはずだ。
「こんなに朝早くから? どこへ?」
クリシュナが訊いたがそれには応えず、反対にヤマは訊いた。
「あれを見たか?」
「あれ?」
「天翔ける舟だ。金色の」
「……見た」
「どこへ飛んでいった?」
やや考えこんで、クリシュナは言った。
「シュリーン山の方へ。砂煙が派手に上がっていたから、その手前に落ちたかもしれん」
「シュリーン山か……」
たいした距離ではない。往復しても昼には戻っている頃だろう。
「おい、行くのか? ヤマ」
階段を下りてゆく背に向けて、クリシュナは言った。
「……昼までには戻る」
振り返って言い捨て、ヤマは行ってしまった。
「正午に巫女たちの舞が始まるんだ、必ず戻ってこいよ!」
すでに姿は見えなくなっていたが、あえて彼は声を張り上げた。
「わかっている!」
どこからかヤマの応えが聞こえた。
to be continued……