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ヒノモトノクニの必殺剣  ~ 一の太刀と侍の魂 ~

作者: 山乃末子

 物語ではないし目新しいことも書いてないので適当に読み飛ばしていただければと思います。もし読んで頂いたら一点でも面白いところかあれば幸いです

 私は剣が好きだ。棒を持ったら振り回さずにおれない、草でも切らずには済まない少年の本能が好きだ。「兵法至極ひょうほうしごくして勝つにはらず」(※1)などと書き残した伝説の剣聖の話が好きだ。全部ジャンプだが「不殺ころさず」を貫く逆刃刀さかばとうの剣士、鬼を殺す剣士、三刀流の剣士も割と好きだ。悪党を全部なぎ倒してしまうお忍びの爺さんのご一行や、将軍の殺陣たて


 剣を修行しようなどとおこがましいことは思っていないが、最近は健康のためになるのかどうかもわからないけれども日課で素振りをしている。何を切ろうというわけでもない。そもそも刀は持ってはいない。素振りは全くの我流でもない。日本のメジャーな一刀流の作法はだいたい同じだし、さほど難しいもんでもない


 ある程度素振りさえできれば剣術は一定の技量に達する。日本刀の攻撃力はえげつないので、それほど必死に振り回さずとも具足も付けていない相手の四肢や首などたやすく飛ばせるだろう


 一時期刀を所持しようかと考えたこともあったが、やめた。よく「自分の身を守るため」という理屈をつけてナイフを携帯する話があるが、何のことはない結局加害者になるオチがついたりする。刃物を持って何を切ろうというのか。鬼かクマか。私は刀剣の美術的側面にあまり興味がない。自分を守るために刀剣など必要ない


 思えば刀なんぞを保持しているなど、先祖伝来の由来付きだとでもいうならともかく、現在では大半碌たいはんろくでもないのではなかろうか。別に人様の趣味をとやかく言うつもりもないが。刀は武士の魂などと言われているが、時の流れも現在まで至ると、どんな形で技術継承をしていようが、かつての魂とやらをおとしめているような気がしてならない


 剣の技術論も実地を踏まなくなった現在となってはいずれもそらぞら々しい。フィクションならともかく、私はそういう話を聞くのが嫌いだ。竹刀剣術しないけんじゅつは下らんとか、陶物すえものなんぞ切ってどうするのかとか、最強の流派はどこだとか。模造刀を振り回し、〇〇の呼吸、などと叫んでいるのはまだ可愛げがあってくさす気にはならないけれども


 人を切らぬ剣術などというのは結局あり得ないし、携帯しない魂というのもまた意味を成さない。


 皆さんはたいてい日本の方で、もしかすると日本文化に特に詳しい奇特な他国の方かもしれないが、日本の剣術の奥義をご存じだろうか。また、どうして日本刀が武士の魂と言われていたのかを後輩に説明することができるだろうか。もしできる、できそうであればあなたの答えを教えてほしい。暇つぶしのクイズか、課題だと思って考えてもらってもよい。そんなに難しいものでもない。まあ私の知ってる限りでは


 日本の武士は全人口の10%程度の貴族特権階級ではあったが、刀の精神的影響力というのは農奴や被差別民に至るまで結構なものがあったと思う。比較的最近でも狐憑きというのか、ある種の特殊な精神異常者に対して刀で切るフリをしたら憑き物が落ちた、などという話を聞いたこともある。眉唾まゆつばな気もするが実際そういうことはありそうな気はする。そのくらい社会の深層意識にまで強い影響力を持っていたのだろう。昭和の人気番組にチャンバラ時代劇があったのも無関係ではあるまい


 まず日本の剣術の奥義だが、これは流派によらず普遍的なものがある。どの流派でも使う得物えものは同じなわけで、そうならざるを得ないところはある。日本刀の恐るべき切れ味に由来しているとも言える。それは塚原卜伝つかはらぼくでん以来の「いち太刀たち」だ。要するに「一撃必殺」を意味する。これはおそらくすべての流派で違わない


 日本の剣術の技は基本的に相手を一太刀で戦闘不能にしてしまうことを前提として組み立てられている。逃げる剣、というのはあるかもしれないが、受ける剣、守る剣というのは現実にはまずない。相手の刀が自分に届く前に相手を切ってしまう、もしくは相打ちになるように考えられている。もちろん相手が甲冑かっちゅうでも着ていればそう簡単にはいかないだろうが、現存している流派では防具なしの切り合いを前提にしていることも多い。これは戦国時代が終わって、甲冑を着ることもなくなった太平の江戸時代以降にできた流派が多いからだろう


 チャンバラは技術的に剣術とは全く別物で比較できるようなものでもないが、一人の英雄、または数名の精鋭が悪党を次々に切り伏せていく、その一撃で相手をほふっていくさまはある意味では日本の剣術の理想を体現している。ただ、チャンバラのようなヒーロー無双な戦い方が実際の剣術でも可能なのかということについては問題点はある。どれほどの達人が使うにしても、両の手指ほどの数も人を切ったら、さすがに名刀も鉄の鈍器に近づいていく、というのは致し方ない。まあ鉄の棒でもそれなりの腕が振るえば充分凶器足りるが


 「一の太刀」といえばひとつ興味深い話を新選組の斎藤一さいとうはじめのこしている。それは実戦では三太刀目が決まることが多かったという経験談だ。これは人間の集中力の性質によるものではないかと推測するが、一の太刀、二の太刀と続けるうちに、次第に隙が生じやすくなるのだろう。ご存じのように斎藤一は突き技が特に得意だったようで、引退してからも竹刀で空き缶を貫いたらしい


 一対一の剣術勝負でじりじりと両者が動いていくさま、またどちらも動くことができなくなってしまう様、いずれもこの「一の太刀」即ち「一撃必殺」の剣術ゆえに現れる光景だ。スターウォーズもエピソードⅣからⅥはライトセーバーでの切り合い場面を作るのに日本の剣術を参考にしたらしく、ダースベーダーとオビワンの対決などでそのような動きを見せている。エピソードⅠ~Ⅲぐらいになるともう少し派手になって飛び回るようになり、一回転などを無意味に多用するようになる。一瞬の隙即あの世行きの状況で、相手に背を見せるなど、それこそもってのほかなのだろうけれど。藤沢周平の著作の中にも、敢えて背を見せる一回転技が出てくる話があり(※2)、フィクションだが面白い


 次に日本刀が武士の魂といわれる意味についてだが、ファイティング・スピリットとでもいえばいいのか。具体的には常に刀を携帯し、平時であっても、いついかなる時でも抜き放って戦うことができるという心構えだろう。武人の鏡・理想ということだが、平和ボケしきった現在から眺めると、もはや遠い異国の話にも思える。アメリカの将校も常に44口径ハンドガンを携帯しているという話を聞いたが、真の軍人・武人というのはどこの世界でもそうあるべきらしい。江戸時代も後期になってくると、武家も経済的に没落してきて、刀を質に入れて竹光たけみつを差している武士もいたと聞くが、太平の世になると折角こしらえたスピリットも中身が抜けていくらしい


 現在では置物か美術品かご神体、もしくは陶物すえものかワラかタケでも切るのが仕事になった刀に、もはや魂も何もありはしない。かつてのヒノモトの武人の魂の抜け殻、戦国中世ロマンの遺物レガシーとなり果てた日本刀に多少寂しさのようなものは感じる。太平洋戦争が終結し、さむらいの国は名実ともに滅びたのだろう


 太平洋戦争までいかなくても、廃刀令が出た明治維新あたりでもう刀は過去のものになりつつあった。坂本龍馬さかもとりょうまがリボルバーを持っていて、次には洋書を読んでいた、という逸話のように、幕末、龍馬はそれは当時の最先端ではあったろうが、刀の時代・武士の時代は終わり始めていた。その龍馬も歴史の皮肉というのか、ほぼ無名の武士に刀で暗殺されて果てた。龍馬は兄に貰った刀を所持していたが、油断というのか抜くこともできなかった。武人としては格好悪いが、良い意味でらしい最期と言えなくはない。当時龍馬暗殺は新選組の仕業しわざだと思われていて、報復も受けたらしい。また、西郷隆盛さいごうたかもり黒幕説のようなのまであったが、いずれもとばっちりだったようだ。


 龍馬と言えば師匠の勝海舟は刀を抜かないと決めていた逸話が有名だ。勝海舟はエッセイ集のようなもの(※3)をのこしており、これが面白い。例の逆刃刀さかばとうの剣士のモデルになったとされる河上彦斎かわかみげんさいのエピソードもでてくるが、ターゲットを出来損ないの野菜に例える鬼畜ぶりは、もはや一周回ってすがすが々しくさえある。同郷の者からも恐れられていた悪鬼のような男で、失敗作を粛清したのを反省したり、不殺ころさずの信念に転向するなどということはまあなさそうな人物だろう。勝海舟とは全く対照的だ


 剣術を使う者を剣術家と呼ばずに兵法家と呼んでいた、というのは極めて本質な示唆だと思うが、ターゲットを腐った野菜と思っていた河上彦斎、ジョーイジョーイと言いながらイジンをナマスにしてしまった志士、火縄銃ルーレット(※4)をして遊んでいた薩摩の武士などを思い浮かべると、現在の感覚ではとても理知的には見えず、ただただつきぬけた野趣やしゅあふれる狂気というのか、もう野蛮と言っていいと思う


 薩摩は示現じげん流がその剣術の代表みたいに言われているが、その狂気じみた蛮勇は、良くも悪くも現代の常識など超越している。その突き抜けた鬼達を西郷が自身の命を賭して西南戦争に於いて鎮め、かなり滅したのだろうが、それでも滅ぼしきれてはいなかったとみえる


 私は勝手に、日本の太平洋戦争での敗因の一旦は、特に帝国陸軍にあると思っている。帝国陸軍は結局、ルーツは薩長にある。旅順で策もなしに要塞に突っ込ませて文字通り死体の山を築いたり、補給線を伸ばしきって天竺てんじくまで攻めいったりした根本的な因子が、ある種の知性の欠落というのか、バランスを逸していた為ではないかと思っている。悪いけれど幕末の薩摩の兵卒や長州の攘夷志士を思いうかべれば、さもあらん結果にも見えてくる。


 断っておくが、薩摩の武士については狂っているとは思うし、はっきりいって手に負えない餓狼がろうだったに違いないとみているが、示現流も含めて嫌いではない。どちらかというと水滸伝すいこでん黒旋風こくせんぷうのような人物は好きだ。それでもああいった剣術を兵法といえるか、といわれるとどうかとは思うし、匹夫ひっぷの勇という言葉も浮かんでくる。


 兵法というのは本質的に悪知恵の部分があり、正攻法では勝てない弱者こそ奇策でもてらわなければどうしようもないため、死ぬほど頭を使う傾向はある。そういう小賢こざかしさは剛の者からは出てきにくいということはあるだろう。そも剣術だけのことであれば、考えて打ち合うようなものではないし、そこに至るまでの技の工夫とか、戦い方の作戦などに兵法といえる部分があるのだろう。練習や試合ではともかく、実戦では自分より腕のたつ相手も倒せるぐらいでなければ、優れた兵法家たりえないだろう


 剣術と戦争で思い出したが、子供の頃に剣道をやらされた野郎がいて、その因が面白い。その親が剣道を習いたかったのにできなかったからというものだ。その理由はさらに親の親が剣道を嫌っていたから、ということであり、さらにその親の親が剣道を嫌っていた理由が剣道が軍国主義と結びつくものだという認識があったからだった。さらに戻るなら太平洋戦争の敗戦、帝国陸軍、示現流も含めた剣術と武士の実態、時間的にも資質的にも現状から脱皮するなどとても及ばないもうの中の島国根性の帝国民、といったところまで行きつくように思う。幕末・維新から今まで、よくもやってこれたもんだ、というのがこの国の実態だろう


 ずいぶん脇道にもそれたが、剣術ロマンのようなものから始まり、日本の剣術の奥義といえるもの、武士の魂の話や歴史といったロマンの根っ子の方までさかのぼって少しさらってみた。わかりきったことだったのだろうが、改めて剣術ロマンなどというものは、それを尊重したいような、馬鹿馬鹿しいような思いが混ざった複雑な気持ちで眺めざるを得ない。歴史もフィクションも含めて、剣術の話が好きだという気持ちは変わらないが、やはり若干醒めた目で見ている部分はある。結局侍の国はとうに滅びており、日本刀はその魂の抜け殻にすぎないからだろう。侍の魂は滅んでも、人間の野蛮さや愚昧ぐまいさの方はなくなりはしないが


 どうせ滅びた過去の遺物というなら、剣よりさらに古いものも存在している。形而上学的側面けいじじょうがくてきそくめんを除けば剣など無意味らしいが、そういった意味でも存在感はある。平安以前どころか縄文時代からある弓だ。「日本の弓術」(※5)は他国の全くの門外漢から始めた人物視点ということもあり、わかりやすくて面白かった


 剣術ロマンの一つの遺し方として、剣術部隊はあってもいいのではないかという気はする。銃があれば剣は必要ないというのはもっともらしい理屈だが、実際使える余地はなくはない


※1 五輪書 宮本武蔵

※2 邪剣竜尾返し 藤沢周平 (隠し剣孤影抄に収録)

※3 氷川清話 勝海舟

※4 正式名称は「肝練り」 火縄銃を天井から水平に吊るして火をつけて回転させ、

 その周りに座る度胸試し。 火が燃え進んで無人でも撃てるらしい

※5 日本の弓術 オイゲン・ヘリゲル


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