噂の店(2)
『お待たせいたしました。「鰆のムニエル〜初夏夏みかんを添えて〜」でございます。』
『あ.........ありがとうございます。』
『どうかなさいましたか。』
『いえ、なんでもないです。大丈夫です。』
『わかりました。それでは、ごゆっくりお召し上がりください』
それから店主は柔らかな微笑みをこちらに向けて、カウンターへ戻っていった。
戻っていく店主を目で追ったが、特におかしなところは見つからなかった。あれはなんだったんだ。この店の裏はどうなってるんだ。
考え込んでいると、ふんわり、ムニエルの温かいバターの匂いがしてきた。これを嗅いだだけで確実に美味しく、外はサクッとし、この身がしっとり柔らかいことまで容易に想像できた。
『いただきます』
ムニエルにみかんを絞り、サクッという音とともにナイフで切り、それを口にする、と。
口一杯に旨みが弾けた。鰆の味とともに波の音が、海鳥の声が一瞬、聞こえた気がした。そして、絞ったみかんの爽やかさと共に、遠くにから「あのみかん」の香りが風となって強く僕に吹きつけた。香気が四肢から一気に吹き抜けていく。なんとも言えない興奮から胸が高鳴っているのがわかる。しかし、風で目が開けられなかった。
風が吹き抜けて、気付くと僕はみかん畑に立っていた。眼前には美しく輝く瀬戸内海が見える。この小さい白い花、そしてこの段々畑に広がる香り。これは..おばあちゃんちのみかん畑だ。そして、そこであったことを思い出した。家族でのみかんの収穫、おばあちゃんとのジャム作り、近所の子と海を眺めたこと、宇宙への夢を語った時、一つ一つが僕の心に色を与えた。
『たーちゃん!』
この声は....、おばあちゃんだ。声がしたみかんの木方向に駆けて、叫ぶ。
『おばあちゃ....』
その時おばあちゃんは、みかんを取っていて、近くには小さな坊ちゃん刈りの少年がいた。
『たーちゃんは、みかんが好きかい。』
『 うん、大好きだよ。将来はみかんになりたい!』
『そうかい、そうかい、それはいいことだねぇ。将来”みかん”になれるといいねぇ。』
頑張るんだよ言って、頭を撫でられた少年は嬉しそうにうんと返した。
それから
頑張るんだよ
という声が頭の中に響いた。
カランッ
ドアのベルの音で、ハッと気づいた。どうやら新しい客が入ってきたらしい。今のは夢だったのだろうか、いやぁわからない。まぁ、どうであろうとも、結構な長居をしてしまった。もう出よう。
『お会計お願いします。』
『はい、1129円でございます。』
『わかりました。お願いします。』
『かしこまりました。』
『あと、ここの料理の値段は決まってるんですか?』
『いえ、素材によって、扱う方法も変わりますので、変動がございます。でも法外な値段になることはありませんよ。』
『あぁ、そうなんですね。ありがとうございます。』
『はい。あとお釣りと、あとこれを、当店の名刺でございます。ご来店の際はこの名刺を見てご来店ください。』
『ありがとうございます。』
『またのご来店お待ちしております。』
カランッ
その名刺は、紺地に金色で『For you』と書いてあり、裏には先ほどの店の場所の住所らしきものが書いてあった。この、おしゃれなアルファベットはカリグラフィーだろうか。財布のカードホルダーに入れ、さっとリュックサックの中にしまう。その足取りは、向かう方向に軽い。また行こう。
名刺に文字が浮かび上がる。
『ビストロ・タマナへようこそ』