4 銀の月、紅の月
最上階の月空の塔。アンリはキョロキョロと辺りを見回したい衝動をこらえ、落ち着いて目の前を見据え、視界に情景を捉えた。寒さ除けのムシロをもう一度触って直したのは、どうしても不安だったからだろう。自分の無意識の仕草に気づいてアンリは気を引き締めた。
ふわふわとここまでエレベーターのように自動で飛んできて、この部屋に到達した瞬間、足元に床が出現した。ふわっと優しくアンリの身体は床に支えられる。体勢を崩さずに立つことができた。
この場所はやわらかな光でできた、塔の直径よりも大きな部屋になっている。アンリから見て部屋の奥には荘厳なステンドグラスがそびえ、燦然と輝く銀月と禍々しい血で作られたような赤月、邪悪で強そうなオーガやドラゴン、勇者のような装備品を身に着けた青年、宝や国の運命、女神などのディテールを生き生きと描写している。随分ファンタジックなステンドだとアンリは思ったが、色調が落ち着いており、ガラスの細工も見事で、全体的に優雅なイメージで部屋を飾っていた。ステンドグラスの無い側面の壁には、落ち着いたホワイトグレーとゴールドの、繊細に仕上げられた調度品や絵画、ピアノが並んでいる。ピアノは誰も弾いていないのに、静かで美しい音楽を奏でている。
部屋の上部は透明な窓になっており、大きな輝く月の光が部屋全体に降り注いでいる。そうでなくても壁と床全体が発光しているので、部屋はぼんやりと明るい。アンリは太陽よりも優しい、月光のような光に包まれていた。
「ようこそいらっしゃいました」
ステンドグラスの前に長い髪の女性が立っており、アンリに声をかけた。豪華なプラチナブロンドの髪は波うち、女性の足元までを飾っている。白く輝く複雑なドレスを身に纏い、両手を広げ、アンリに歓迎の意を表した。真珠のような飾りを沢山つけており、サラサラと音を立てた。
彼女はアンリのもとにゆったりと歩を進め、優しく笑いかけた。そっとアンリの頭に手を乗せ、フードを外した。
「ここに来られるまで大変でしたね。白く輝く月に選ばれた勇者さま。わたくしは銀月の女神でございます」
銀月の女神が袂から取り出した白銀の杖を振ると、杖からキラキラとした粒子が広がり、アンリに降り注いだ。アンリは自分の身体が突然清潔になったことに驚いた。肌に透明感が出て、不快さが和らいだ。そして肩先までの彼女の髪は泥と脂の汚れが取れて、生来のエメラルドグリーンを基にした銀色に美しく輝いた。
「次はお召し物を」
女神が軽く杖を振るたびに光の粒子が舞い、アンリの着ていた服と上着代わりのムシロを、床に引きずるほど長い丈の月光色の美しいワンピースに変化させた。髪飾りに白銀のティアラ、ムーンストーンがあしらわれた指輪、軽く繊細なネックレス、柔らかくフィットするサンダルも出現し、アンリを神々しく飾った。
女神は柔らかく微笑みながら口を開いた。
「勇者さま。この世には邪悪な者たちが支配する迷宮がいくつもございます」
アンリと女神の間の空中に、浮かび上がるように地図が出現した。地図には幾つかの点が散らばっている。王都や周辺の街も精密な絵で描かれており、散らばっている点がおそらく目的地の迷宮だろう。
「迷宮は人間の脅威であり、戦争の火種になっております。迷宮を攻略し、この街を、地域を、世界を平和に導いてはいただけませんか」
女神が片手を振りあげると月の光がいっそう輝き、まぶしいほどの月光が収まるとともに、アンリの周囲に宝箱が三つ現れた。宝箱は眩しいほどの黄金で、立派な彫刻が施されていた。一つ一つの宝箱はアンリが大の字になって入れるほど巨大だ。ゆっくりと、ひとりでに宝箱の蓋が開いてゆき、中身が床にこぼれる。
「契約してくださるならば、今だけこの部屋にあるモノは何でも、持てるだけ持って行っていただいて構いません。ダンジョン攻略にどうかお役立てくださいませ」
アンリから見て左の宝箱には沢山の金貨銀貨と宝石、宝飾品、高価そうな小物類があふれるほど入っている。市場や街の商店で交換すれば、食料や装備品を買うことができるだろう。拠点を構えるにも十分な金額になりそうだ。有料の水場を使うには、小銭を少し持って行ったほうが良いかもしれない。
正面の宝箱には様々な種類の武器が入っている。剣、斧、大剣、メイス、魔法の杖、ショートソード、ナイフ、刀や忍者刀、苦無、弓矢、小弓、ボウガンなどが宝箱の蓋や側面にも整然と陳列されている。どれもしっかりした作りで長持ちしそうであり、凝った意匠が施され、神々しい光を放っている。防具は入っていないので、必要ならばダンジョン内や市井で自力で調達しなければならない。
右の宝箱にはぎっしりと本が詰まっている。アンリが一冊触って開いてみると、難解な文字と記号で書かれた炎の魔導書であった。他にも様々な種類の魔導書、魔法書が並んでいる。他には戦士向けの戦技スキル、盗賊向けの開錠や索敵スキル、魔術師向けの詠唱破棄などの便利そうなスキルブック、鑑定書、大規模な魔法陣の使用法と見本が描かれた書物、兵法書まであった。
アンリは一つ一つの武器を手に持って確かめ、本類も開いて軽く読み流し、元の場所に丁寧に戻した。
アンリは口を開いた。
「何でもというお話ですが、あなた様を持っていくことは可能ですか?」
女神は口元に手を当てて、困ったように微笑んだ。
「申し訳ございません。わたくしはモノではなく、この部屋から動けないのです。わたくしを連れ出すことは不可能です」
やはりか、とアンリは嘆息し、気を取り直してもう一つ質問をした。
「それでは女神様は、転生やそれに関する知識についてお詳しいですか?」
「あなたが全てのダンジョンを攻略するならば、欲する知識は残さず得られるでしょう」
女神は穏やかに即答した。アンリはじっと耳を傾け、女神の一挙手一投足と質問時の表情を観察していた。女神の声のトーンや顔筋の動き、話す速度、身体の動かし方、目線の向きなども、全く変わらなかったとアンリは判断した。
「そうですか。私はこの世界が、私の知るゲームであると知っています」
アンリは回想した。
彼女は昨年、異業種交流会に学生の身分で参加した。就活前に、様々な職業の話や起業家の体験談を聞きたいと思ったからだ。そこでゲーム開発関係の男性と立ち話をし、関連の仕事に就くのは無理だと感じながらも、楽しそうに話す男の、ゲームの内容に引き込まれた。
「赤月陣営と銀月陣営が対立する、迷宮探索RPGです。プレイヤーは両方の陣営で戦えるんですが、それぞれの陣営で使える種族やスキルがあります。隠し種族もあってですね。デュフフ」
笑い声が特徴的なその男性。元気にしているだろうか。
アンリは今、月光の塔の部屋で、目の前にいる女神に話しかけた。この状況は、男性が開発していたゲームのオープニングにそっくりなのだ。
「シンプルなダンジョン探索ローグライクで、オート戦闘や放置要素があるそうです。AIが優秀で、オートでもドラゴンやラスボスとも互角に戦えるそうです。すごいですよね」
アンリは頭上に大きく輝く銀の月を拒否するように軽く俯いた。途端にアンリを包んでいた光が弱まり、アンリの目前に青白い半透明のウィンドウが出現した。
周囲の時の流れが遅くなる。いや、ウィンドウを開いている間はアンリの思考が加速しているので、アンリには周囲が遅くなるように感じられるのだろう。
アンリはウィンドウに目を向ける。ステータス、アイテム、スキル、セーブ、タイトル画面へ戻る、設定などのシンプルな項目が並んでいる。
ゲームのプロローグでは、プレイヤーはランダムで赤か銀の月どちらかに選ばれ、その陣営に所属する。
陣営が決まると対立陣営のダンジョンを探索することができるし、自陣営のダンジョンを製作することもできる。ゲームをしばらく進めると、対立陣営にもアカウントを作れる。
赤月陣営の種族は戦闘力の高いワーウルフ、銀月の種族はバランス型の人間だが、どちらの陣営にも所属しないという隠し要素があり、その場合は両方の陣営のダンジョンに入ることができる。
なお隠し種族は複数あり、ランダムで決まる。
ステータス
名前:(なし)
種族:イモータル
所持金:0
LV:1
HP:2/10
MP:10/10
筋力:1
知力:1
俊敏:1
体力:0
魔力:1
アイテム
E:服
E:ムシロ
スキル
永続魔法
アンリは逡巡し、決心したかのように震える指先でセーブボタンを押した。そしてウィンドウを出したまま、女神を強く見据え、はっきりと言った。
「女神様。私は銀の月陣営に下って、傀儡として戦い続けることを良しとしません。それに陣営を決めると、味方陣営の迷宮に入れませんしね」
女神は緩慢に何か言おうとしているように見える。
アンリは左手を伸ばし、宝箱の金貨や財宝に触れた。昔の金本位制の神様と電子産業と鋳造所に心の中で謝ってから、自身に取り込むように念じると、全ての財産がアンリの手の平に消えた。床にこぼれている十枚ほどの金貨には手を付けない。部屋内の他の品物が、街でどれほどの交換価値があるか分からないからだ。
「隠し職業のイモータルは、お金を経験値に変換することができるはずです」
ウィンドウはアンリが動くと消えてしまった。ウィンドウに集中していないと自動的に消えるようになっているようだ。
アンリは急激に身体が強くなったことを感じると、真ん中の宝箱に両手を突っ込み、指に当たった忍者刀を掴んだ。
アンリは気合いを込めて踏み込みながら忍者刀を振るい、女神の首を刎ねた。