2 危険な場所からの移動
ヒュウヒュウと身を切られるような冷たい風が吹く中を、アンリは挫いた足をかばいながら歩く。
スラムの奥は小路と低い家屋が多いが、たくさんの角を曲がり、少しでも高い建物と広い通りを目指して進むと、広場に続く大通りに出た。もうすぐスラムではなく、普通の市民も歩くことがある場所である。寒さは変わらないが、臭いと足下のゴミ、危険な野犬に出会う確率が減って、アンリはホッとする。
昼間、少女はこの辺りでゴミ拾いや残飯漁りをしているはずだ。さっそく目を皿のようにして銭貨を探そうとする少女の思考を無視して、アンリは通りに出た。
道が広くなった分、凍える風が強く吹きつけた。辺りには誰もいない。
大きな広場まで来た。アンリは慎重に広場の様子を伺う。石造りの商店や公の建物、食堂が並んでおり、全ての入り口は閉まっている。もしかしたらパン屋や市場関係者などはこの遅い時間でも活動しているかもしれないが、表に出てはきていない。
ただただ真っ暗で、ゴミが風で吹き散らかされているだだっ広い空間だ。大きな樽、茶色いチェーンを通された台車や屋台、スラムにはない用水路が広場の周りを囲んでおり、所々ひび割れた石畳が広場全てを覆っている。
アンリはほうっと息を吐いた。彼女にとっては旅行先などで出会うことのある風景だ。今は人っ子一人いないが、日が出ればたくさんの人出があり、普段から賑やかな場所であることが、雑多な雰囲気を通して伝わってくる。
女の子の記憶では、スリを生業にする孤児たちの巻き添えをくらって乱暴される危険があるので、物陰から覗く以上に踏み込んだことはない。足が遅くて身なりの悪い少女には世知辛い場所だろう。
中央近くの屋台の果物を盗んできた子の分け前を楽しみにしていた記憶が蘇る。その屋台の店員は孤児には厳しいが、老年の物乞いには、たまに銅貨を恵んでくれた。そして孤児たちと物乞いの元締めは一緒だった。その元締めは今はいないけれども。
ごろつきに絡まれても対処できないので、アンリは慎重に確認してから広場の真ん中の大きな水場に近づく。奇跡の泉、住人からはそう呼ばれている。なおすぐに盗まれるので、小銭を水に投げ入れる習慣は人々にはない。
アンリは目覚めてからずっと、喉がカラカラで何か飲みたかったのだ。指が水面に触れたが、すくおうとしても凍りついていて、表面を擦っただけだった。
亡くなった女の子が使っていた井戸はスラムの抗争に負けて取られてしまっているので、どうしても喉の渇きを癒したければ、もう汚い用水路の凍っていない場所を探して飲むしかない。
随分厳しい世界だ、と彼女は嘆いた。
アンリは立派な白い石材でできた泉の縁に腰掛けた。もう限界だった。
見上げると大きな白銀の月があまりにも綺麗で、彼女は目を見張って眺めた。東京にいたとき、こんなにゆっくり月を見ることはなかった。凍てついた空に降るような沢山の星も見事だ。
アンリは白銀の満月の他に、細くて赤い三日月があることにも驚いた。満月と三日月が両方同時に出ることは物理的にあり得るのだろうか、と考える。きっと満月は弱い恒星に違いない、とアンリは早急に結論づけ、クスリとした。
綺麗で良いじゃないか。そんなことより水と食料と、寒さをしのげる安全な空間か防寒具が欲しい。
がたがた震えながらアンリが立ち上がろうとしたその矢先、フードから除いた彼女の髪と顔を、満月が強く照らした。
汚れて元の色が分からない容姿を、月の光が銀色に染めた。アンリは白銀の満月から目が離せなくなってしまった。
「この状況、どこかで……おかしい、確か……!」
アンリは驚愕して立ち上がった。足の痛みなどどこかへ消えてしまった。
奇跡の泉の表面がキラキラと瞬き、銀の月と同じく輝く白い何かが突如、泉の中央から上空に向かって伸びていった。白い塔は半径三メートルほどと細く優雅で、高く高くそびえ、視覚的に月に刺さるような形で成長が止まった。
「高い……今まで見たどのビルよりも。上空何メートルくらいだろう。高山病になりそう。いやいや、さすがに発症するような三千メートル級のビルは建造不可能だ。建造? この短時間で!」
できるだけ理性的に話そうとしながらも、アンリはふらりと白い塔に向かって足を踏み出す。凍った水面は、さらにキラキラと幻想的に輝き、体重を掛けても割れて踏み抜く気配はない。
アンリは静かに氷の上を裸足で歩き、月光色の塔の目の前まで来て、表面にそっと触れた。
塔の表面は冷たくない。少しざらっとした感覚が手の平に伝わったが、触れ続けているとスゥッと感触がなくなり、アンリの全身は塔へ吸い込まれた。