10 猫と主
アンリは鍵しっぽを追って、ギシギシと軋む木製の床を歩く。サビ猫は、廊下の突き当りの飾り扉をノックし、返事を待たずにギィと開ける。
「そこに段差があるから気をつけて」
猫に注意を促されながらちょっとした段差を跨ぎ、アンリが部屋に入る。
部屋の中には、天蓋付きの、塗装が剥がれかけたベッドがあり、今にもあの世に行ってしまいそうな痩せこけた老人が仰向けに寝ていた。サビ猫はベッド横のクッションが敷かれたカゴに入って丸くなった。
「不死のお客人、ようこそいらっしゃいました」
しわがれた声で、老人がアンリに声を掛ける。
老人はゆっくりと起き上がろうとする。猫が背中に回って補助する。アンリも手を添えて手伝いをした。
「わたくしはこの国の先王、クトゥイ・デース・ランダハと申します。最期に外界の方とお話をしてみたくなりまして」
アンリはハッとした。老人はなんと先王だった。身分の高そうな人なのに、非常に腰が低い方だなとアンリは思った。昔会った企業人がこんな方だった。
「ランダハ王、初めまして。貴方は銀の塔の主ですか?それとも猫が塔主で、あなたが猫の飼い主なのでしょうか」
猫が答えた。
「あの塔は僕が管理する空間の特殊ダンジョンだよ。王は僕の主であり、主は塔と関係がない。僕はアンリ・マドラ」
アンリも名乗った。
「ランダハ王、アンリ・マドラ、私は月華アンリと申します。アンリって、名前が一緒ですね」
サビ猫が話に割り込んだ。
「嘘だ。君には名前がないはずだ」
猫の口調は確信めいている。確かにアンリのステータス画面には、名前なしとあったはずだ。このアンリという猫はステータスを鑑定できるのだろうか。
アンリは彼らの目の前でステータス画面を開いた。
ステータス
名前:(なし)
種族:イモータル
所持金:0
LV:1050
HP:5045/5045
MP:3653/3653
筋力:841
知力:4823
俊敏:1536
体力:0
魔力:1288
アイテム
E:ヴィンテージドレス
E:布の靴
スキル
汎用スキル
戦士スキル
盗賊スキル
魔術師スキル
永続魔法
火魔法
水魔法
風魔法
雷魔法
「あれ、レベルが上がっていないけど、ステータスがかなり上がっているな。知力が少し落ちているのは何でだろう。きっとAIに脳筋だと判断されたな」
「何をブツブツ言ってるの?」
ステータス画面をいじるアンリを、猫が不思議そうに見上げる。ウィンドウが見えていないのだろうか。
「あ、名前のところ、任意の文字列を入力できるよ」
アンリが画面を操作して、自分の名前の欄を、
名前:(なし)
から
名前:月華アンリ
に変更する。
じっとアンリの様子を窺っていた猫が驚愕した。
「えっ、鑑定結果が変わったよ!? 本名を変えるなんて。未知のスキルか何か?」
先王がアンリに食いついた。
「ゲッカ・アンリ殿。老いぼれの頼みをどうか聞いて下さらぬか。わたくしの名前を変えていただきたい。ただのマドラと」
アンリがランダハ王のステータスを表示する。初めてだが出来た。名前以外の箇所はぼやけて見ることができない。名前欄をタップしてみると、他人であっても名称の文字列を変えられるようだ。アンリはパパッと操作して、ランダハ王の名前を消去し、マドラと変更する。簡単な作業だ。
「ありがとう。僕もただのランダハと」
猫の名前も変えた。覗こうと思ったが、ステータスは見られなかった。
「これでこの家の主は僕だ。この屋敷はランダハという名前にしか反応しない」
「アン……いや、ランダハ。苦労をかける」
先王が猫の頭と背中を優しく撫でた。猫は背を丸め、自分を撫でる手を受け入れた。
先王が言う。
「不死のアンリ様。ここは引退した王を収容する施設、つまり人に知られていない監獄です。わたくしはここを出るのが長年の夢でした」
「今までは僕が目となり耳となっていたんだけどね」
「これで心残りなく逝けそうです」
古い屋敷の階段を上って、テラスに続く扉に先王が手を掛ける。
「開きます! ランダハ王!」
猫が後方の部屋ではしゃいでいる。
朝日が眩しい。
薄明りの中で、人々が起きだして、市場の準備を始めているのがよく見える。夜にアンリが通ったあの広場だ。ここは奇跡の泉の中に建っている屋敷であった。外からは見えないようだ。アンリが手を振っても、誰もこちらを振り向かない。
「わが王国に、人間に、救いの手を……」
ランダハ王が外に広がる景色に向かって一言祈ると、先王の身体がサラサラと砂のように崩れ、こぼれていった。砂は風に乗って、外街に吹いて流されていってしまった。
アンリがテラスから出て扉を閉めると、猫がちょこんと座っている。
「主に朝日を見せてくれてありがとう。さらにお願いがあるんだけど」
アンリは訝しんだ。
「一体何?」
「実は、とある姫様を救出してほしいんだ。僕に出来ることなら何でもするから。僕が知ってることも何でも教えるから」
猫もといランダハは、毛づくろいをしながら喋った。
その仕草を見て、少々あざといんじゃないかとアンリは思った。