その5
「トガよ、トガよ。
お前、何も死ぬこたぁ無かったのだ」
今や自分のものとなってしまった両腕を見つめながら、かつて『トガ』であった少年の中で目を覚ましたその魂は、小さく呟いた。
……ロザリンドお嬢様に捨てられ、祖父であるアーヴィング老に教えられた掟通り、『トガ』は自害するべく、毒を煽ろうとした。
いざとなれば主人の為に命を盾にするのが万能執事。けれども、死への恐怖を簡単に克服できる訳が無い。
嫌だ、死にたくない。
『また』死ぬなんて嫌だ。
そう思った瞬間――トガの脳裏には万華鏡のように見知らぬ誰かの人生が広がった。そして臨終の間際に何かと会話をして、この世界で再び新生した事を思い出したのだ。『糸』の能力を持って。
それが、前世の記憶であり。そして万能執事トガが、物語の登場人物である事を思い出したのである。
そして、自ら死なねばならぬと思いつめるトガの死の恐怖によって前世の意識が覚醒し、浮上すると同時に……この世界で生きていたトガの心と溶け合い、ひとつになったのだ。
今では俺が僕であり、僕が俺だ。
この世界が、前世で遊んだゲームと同じ道筋を辿っているのかは覚えているが、なんというゲームタイトルかは忘れた。
ただ、はっきりと覚えていることもある。
『僕』であった頃のトガが仕えていたロザリンドは、世界に破滅をもたらす亀裂を平定する才能、聖女の力に目覚めた。
ロザリンドは――いわば主人公のライバルキャラに当たる。
王の娘であり、夜会でドレスに身を包むよりも剣を振るうことを望んだ。令嬢としての奇矯な振る舞いは、よき為政者ではあったがよき父親にはなれなかった父親の気を引こうとした事を『僕』は知っている。
けれども次第に周囲の気を引こうとする振る舞いは、父親を困らせる我侭になっていき。
聖女の力に目覚めた時、彼女の選民意識は手が付けられないほどに肥大化し……最終的には手の付けられないワガママ娘へと成長してしまったのである。
しかし、ゲームの記憶が正しければ、彼女の亀裂平定の旅は初期段階で大失敗するはずだった。
ロザリンドの夫の座を狙ってお互いの足を引っ張り合う三人組。そんな獅子身中の虫を飼っていては、万能執事トガも、騎士ノインもフォローしきれなかったのだ。
だから……本来の歴史ならば、もっと最初の段階で亀裂平定の旅はなしえないと国王に判断され、王都へと召還される。
そのあとで登場する事となる聖人、あるいは聖女の力を持った主人公は、旅を成功させていく訳なのだが……色々と邪魔をするのがロザリンドというわけだ。自分は早々に失敗した旅を、下賎な平民が成し遂げているというのが面白くないわけで。
そして彼女の配下として、自分ことトガも中ボスとしてたびたび登場するのだ。
……しかし、かつて遊んだゲームの内容から大きく逸脱している。
ロザリンドは曲がりなりにも亀裂平定をある程度成功させていた。
「それもこれも……みんな糸の力のせいか」
トガは指の間に伸びる糸を見つめた。
相手の位置を事前に察知する索敵能力。ワイヤートラップによる罠。筋繊維の精製によるパワー強化。
要するに、メンバーに足りぬ不足分を、この異能が補った。
主に成功を、栄誉を与えたいが為に、騎士ノインと共に奮闘し、優しい言葉ひとつ掛けられずとも忠誠を尽くし。
まるで報われぬまま、トガは主から難癖に近い理由で解雇され……そして掟に忠実なために自ら死を選んだのである。
自分がアメイジングなアイツに憧れたが為に、新しい人生を台無しにしてしまうなんて。
森の中、息を潜めながら、虫より遅い速度で匍匐前進。
その身を隠すのは迷彩マント。
糸を操る能力は本当にびっくりするほど便利で、トガはその指から色のついた糸を伸ばして蜘蛛の如く布を編み、ギリースーツのように周囲の風景に溶け込む事ができるのだ。
……『僕』が『俺』になって、既に一ヶ月ほどが経過している。
『僕』は主であるロザリンドに絶対の忠誠を捧げていた。
しかし『俺』はあの我侭で高慢で、かつての『僕』に優しい言葉ひとつ掛けてくれなかったあいつが嫌いだった。
フォローをしていたトガを自ら解雇した事で、亀裂平定の旅は恐らく中断しているだろう
アーヴィング老は……あの厳しくも優しくあった祖父には会いたい。
しかし、自分は主に解雇されたにも関わらず、自害する掟を拒んでいる。
孫に対する祖父の情愛が、果たして一族の掟を厳守せんとする頭領の立場を押さえ込めるか?
厳正で、公平であるゆえに、孫である自分が掟に従わず自害していないと知ったら……殺し屋を送られるかもしれない。
どの道、もう王都には戻れまい。
腕の上を百足が這い、虫に噛み付く姿を横目にしながらも、微動だにしない。
花に身を偽る白い蟷螂が、蝶を大鎌の如き両腕で捉える生命の営みを見ながら……じっと身を伏せる。
トガは、万能執事として鍛えられた斥候の技量を生かし、狩人じみたことで生計を立てていた。
周囲には地蜘蛛の如く糸を張り巡らせ、獲物の僅かな震動を捕らえて位置を探る。飛びはね追いかけるのではなく、じっと身を伏せ獲物が間合いに入るのを待つスタイルだ。
至近距離に来るまで待ち伏せし、一撃で仕留めるやり方は動物の毛皮に傷がつきにくく、高値で買いとって貰える。
あの我侭な主も、余計なお付の三名もいない。足手まといがいないなら自分の穏行を見破れるものはいない。半分意識を眠りに似たまどろみに浸しながらも、獲物が間合いに入れば本能のまま狩るのだ。
「……ん?」
意識が乱れ、僅かに穏行が解けて己の存在に気づいた兎が走って逃げていく。
トガは張り巡らせた糸の振動レーダーにおかしなものを感じ取った。
ひとつは獣。四足歩行ではない。一番近いのは熊だが、それにしても、大きい。
対するのは人間の足音。二名ほど。
大地に張り巡らせた蜘蛛糸に響く振動が、死闘の最中である事を物語っていた。
(……助けるほどの義理はない、が……)
他人に関わるのが億劫で、面倒を避けようようと思った時……規則的な振動を感じる。
転がるような響き、馬車の類であろうか。
トガは偽装を解除し、立ち上がる。トガのようなハンターは命の危険も多いゆえに、同業者の危機を見つけた場合、助けることが定例になっている。
走り出した。
大きいな。
トガは小さく呟いた。
3メートル近くの見上げるほどの体躯。緑色の皮膚はざらざらしていて分厚く、ちょっとした皮鎧程度には頑丈だろう。
足の腱を守るように生えた剛毛、腕には丸太をそのまま削りだしたような無骨な棍棒。そして頭部の中心にある巨大な単眼。
サイクロプス。
間違いなく亀裂を通ってこちら側の世界に侵入してきた魔物の類だろう。
交戦している二名にも視線――長身の美男子が一人、小柄な体に大きな戦斧と鎧を身に着けた少女が一人。
動きはなかなかいい。美男子が攻撃の狙いを足や手に限定して痛みを与え、相手の大振りを誘い――そこにカウンターでサイクロプスの腕に重い戦斧の一撃を叩き込んでいる。
戦いなれている。少なくとも、あの三人組よりは遥かに手練だ。
が……肩で息をしているのが見えた。大きな戦斧を抱えた少女が攻撃を、青年が囮を引き受けているのだが――青年の負担が大きい。
狼や亜人程度の相手なら少女の鎧は実に有効だから、その場合は役割を交換するのだろうが、サイクロプスは体格に見合わぬ俊敏な動きで、それに対応するため青年は常に全力で動くことを強いられている。
トガはそのまま糸の能力を用いて、片腕に使い捨て筋肉を纏わせ、もう片方の手で小石をサイクロプスの肩に投げた。
こんっ、と何かが肩にぶつかった感触に気づいてか、サイクロプスがこちらに向いた。
十分だ。
「くらえっ!」
ぶちぶちと筋繊維の引き千切れる異音と共に、倍加した腕力で投じた投擲用ナイフが一直線に飛ぶ。
耳を劈く爆発的な音が響き、壮絶な運動エネルギーを蓄えたナイフは狙いを過たず、サイクロプスの単眼を刺し貫く。
それでも目を潰された激痛で憎悪の声を撒き散らし、腕を振り回し、棍棒をめちゃくちゃに叩きつける生命力は凄まじいが――トガには恐ろしいとは思えない。
それは熟達した戦士が放つような命に届く狙い澄ませた一撃ではなく、手負いの獣が暴れているだけにすぎない。
振り回される腕を避けながら、足に糸を引っ付け、地面に縫いとめる。突如として強靭な抵抗に合い、糸を振りほどこうとするものの、矢継ぎ早に仕掛けられる糸の罠はもがけばもがくほどに強く食い込み、獲物の体力を奪い去っていく。
しばらくすれば、まるで蜘蛛糸に絡め取られた昆虫のように身じろぐことも出来なくなる。
「刎ねて」
「あ、あぁ、うん」
鎧姿の少女に話せば、戸惑いつつも頷き――戦斧を高々と振り上げて、頚椎へと振り下ろす。
……脊椎が一番筋肉が薄く、首を断ちやすいとはいえ、仮にも巨人種を一撃で刎ねるところを見ると腕も思い切りも良い。メンバーは少ないが、なかなか実力のあるパーティーだ。
そう考えていると、美青年のほうが話しかけてくる。戦斧の少女が一歩引いた位置に動くあたり、同格の仲間ではなく主従関係なのかな? と推測できた。
しかし……美青年と評したものの、トガは内心困惑している。
顔立ちの造形はなるほど、大変に美しい。しかしその美しさという言葉の上に『男性的な』美しさか、『女性的な』美しさか、どちらをつけるべきかと聞かれると……大変に困惑するのだ。
強いて言うなら、二次性徴前の少年をそのまま大きくしたかのような、なんとも言えない美しさがある。
なんでこんなイケメンがこんなところでサイクロプスなんかと白兵戦をやっているのだろう、トガは考えたが、どうせ行きずりの相手の事など考えても無駄だと思い直し、考えるのをやめた。
「助かったよ、ありがとう。ええと君の……」
「今回はたまたま運が良かったが、次は上手くやれよ」
名前を聞きたそうな空気を感じて、トガは先手を取るように言う。
しかしそのまま去ろうとした背中で、隠す気ゼロの密談の声がする。
「なぁなぁ若様……あの人、噂のハンターさんじゃね?」
「え? 本当かい、エステル」
「あの人誘うべし。実際ウチらのパーティーも若様とウチの二人じゃ限度あるじゃん。ああも巨大な相手だと、弱点が頭と分かっていてもなかなか弱点突けねぇし。身軽で射撃もある人を仲間に引き込もーよー。若様のその男だか女だか良く分からん顔使ってさー」
「……相変わらずキツイ事言うね、エステル」
「片田舎の男爵家の陪臣なんて野の獣に毛が生えた程度の礼儀作法しかねーの。いいじゃんいいじゃん、若様は聖人の力を持ってるんだし、成功の暁には膨大な報酬が約束されているって空手形切れるじゃん。別に全くありえない可能性じゃないっしょ?」
トガは、最後の一言に耳をそばだてた。
聖人の力。世界に開かれた亀裂を補修し、魔物を弱める選ばれたものにしか授かれないはずの力。
その力の持ち主が、この彼だと言うのか?
「聖人? 聖人だって? 亀裂を補修する力は――聖女ロザリンド様お一人と聞いていたはずだったが」
そんなトガの言葉に、小柄な少女が胸をそらして自慢げに言う。
「へっへーん。こちらにおわすをどなたと心得る。生まれは田舎、育ちも田舎、しかしざまみろよ都会の奴ら、亀裂を塞げるその力をありがたがって土下座しひれ伏せ、聖人ミカエリス=ロージン男爵とはこの人だぁ!」
「え、エステル……ちょっと恥ずかしいよ、その田舎モノの僻み根性全開の台詞」
堂々と名乗るお付らしき少女の言葉とは裏腹に、その美男子は少し困ったようにしている。
だが、トガはその名前を聞き、記憶に引っかかりを覚えた。
ミカエリス=ロージン。その名前にはどこかで聞いた覚えがある。今世、そして前世を含めた全てを思い出し――トガは頭の中から沸きあがる記憶と衝撃のまま叫んだ。
「み、ミカエリス……ロージン?! ……まさか、あんたが噂の公式ホモ!!」
もしかしなくても凄い失礼な台詞。ミカエリスの眉間に、ぴしりと青筋が立っても仕方なかったろう。