5 隕石とモンスター
◇北海道猟友会所属・鹿納仁之助視点
「隕石でしっちゃかめっちゃかなのに熊まで出よったか!」
鹿納老人はセダンのハンドルを握りながら毒づいた。
支笏湖とは別に、占冠村の西の山中にも問題の隕石が墜落していた。
人口の少ない村のさらに外れの山中であり、さいわいにして墜落に巻き込まれた者はいなかったようだ。
だが、その山中から熊が出たと、住人からの通報があった。
そこで、たまたま近くに居合わせた鹿納老人が熊狩りの要請を受けることになったというわけだ。
「熊もあれにゃ驚いたんじゃろう。わしもあんな恐ろしいもんを見るのは戦時中以来じゃ」
終戦時に鹿納老人は東京にいた。
米軍の空襲によって都市が焼け野原になっていくさまを、震えながら見ていたことを思い出す。
今回の隕石群の墜落はそれすらも軽く凌ぐ規模のものなのだが、若き日の鹿納老人の目に映った光景は、実物以上の地獄絵図として老人の心に深く刻み込まれているのだった。
老人は、山の中の道を法定速度など無視して突っ走る。
こんな車通りのない道で検問をやってる警察官がいたら、税金泥棒以外の何ものでもない。
通報のあった集落には、一度行ったことがあった。
その時も、熊が出たといわれて様子を見に行き、山から降りてきた熊をズドンとやった。
だから、熊が出たと聞いても驚きはない。
「たっしかこの辺に⋯⋯あれじゃなぁ」
林の中の道を折れ、しばらく行くと、問題の集落が見えてきた。
高齢者ばかりが住むいわゆる限界集落は、圧倒的な緑の樹木の中に押し込められ、今にも窒息しそうに見える。
「年寄りばかりじゃからな。熊が出た言うても逃げる足もあらん」
セダンのトランクから猟銃と弾薬を取り出しながら鹿納老人がひとりごちる。
もし逃げる「足」のある集落だったら、隕石が降ってくるこの折に、わざわざ熊を撃ちにはやってこない。テレビでは墜落地点の予測などをまことしやかに報じているが、戦時中の大本営発表が嘘ばかりだったと知る老人は、こんな時の報道は信じるに値しないと思っている。できれば、頑丈な建物の中に隠れていたかった。もっとも、いくら頑丈な建物であっても、宇宙から降ってくる隕石が直撃すれば、さすがに助かる見込みはないのだが。
老人は慣れた足取りで、猟銃を肩に担いで集落に向かう。
「集落」と言っても、人が住んでいるのは三戸しかない。
「出迎えにもこんか。耳が遠くて車の音が聞こえんかったか」
自分も、この集落の住人も、歳を取ったということか。
そう思い、気にせず進む鹿納老人だが、民家に近づいて眉をひそめた。
「なんじゃ、荒らされておる」
窓ガラスが割れているのは、隕石墜落の衝撃かもしれない。
だが、玄関の扉がへし折れているのはおかしかった。
金属製の扉は中ほどで折れ、上のほうの蝶番がもげている。
そんな扉が、下のほうの蝶番でかろうじて枠に引っかかっているのだ。
「まさか⋯⋯熊が?」
そんなことがあるのだろうか?
ヒグマは大きいものでは体長3メートル近くにもなり、その力は猛烈だが、金属製の扉をへし折ったりするものだろうか? 体重にものを言わせて押し破る、というのなら、まだわからなくもないのだが……。
疑問に思いながらも、鹿納老人は肩から猟銃を下ろし、両手に構える。
「熊が扉ばへし折って押し入った⋯⋯? そげなことがあるもんかい?」
熊退治の依頼は数え切れないほど受けてきたが、こんなケースは初めてだ。
熊が家屋に侵入することはないでもないが、窓や普通の戸を破って、あるいは、不用心にも開けっ放しだった戸口から、ということがほとんどで、頑丈そうな金属製の扉を正面からへし折って、というのは尋常ではない。
鹿納老人が連想したのは、むしろ、戦時中大陸にいた時のことだ。
敵軍や賊に荒らされた村には、こんなような気配があった。
老人は、玄関に銃を向けながら、ゆっくり弧を描くように移動する。
家の中への視線と射線を確保しつつ、中にいるかもしれない「モノ」を探す。
家の中から、ぐちゃっと、何かが潰れる音がした。
続いて、玄関から、何か白くて丸いものが飛び出してくる。
「うっ⋯⋯!」
それは、老婆の生首だった。
鹿納老人の漏らした声に、家の中で、何かが動くのがわかった。
ずし、ずし、と足音を立てて、朽ちかけた廊下を巨大な何かが歩いてくる。
薄暗い廊下の中で、その何かの目だけが光っていた。
その目は、鈍い紫色をしていた。
「なん、じゃ⋯⋯!?」
外から射し込む光で、「それ」の胸から下が現れる。
大きい。たしかに大きいが、
「熊、か」
老人にとっては見慣れた、熊の身体だ。
一瞬拍子抜けした老人だったが、すぐに気を引き締める。
闇の中からこちらを睨むその紫の目は、熊のものではありえない。
老人の長い人生の中でも、またテレビなどで間接的に見聞きした中でも、紫の目をした動物など存在しない。
では、何か? と聞かれても、老人には答えがないのだが。
老人は、知らず、あとじさりをしていた。
自分のセダンを停めた位置を思い出し、熊を刺激しないよう、じわじわとセダンのほうへと移動する。
なんとなくではあるが――老人は気づいていた。
この「熊」には勝てないかもしれない、と。
「熊」が、ようやく玄関から外に出る。
日に晒されたその姿を見て、老人は思わずうめいていた。
「こりゃけったいな⋯⋯」
「熊」は、胸から下は、たしかに熊だった。
体毛が紫がかっていて、筋骨が普通の熊より角ばってはいるが、かろうじて、熊の範疇であろう。
だが、「熊」の肩から上はそうではない。
巨大な猛禽――鷹によく似た頭が生えていた。
もっとも、サイズを考えれば、それは鷹でもありえない。あくまでも、鷹によく似た何かである。
「隕石ば驚いて、妖怪まで出くさったか。長いこと生きてきたつもりじゃが、こんなろくた日は初めてじゃ」
油断なく猟銃を構える老人に何かを感じたか、「熊」は警戒して足を止めた。
「よし、よし。動くんじゃねえぞ」
鹿納老人は額に冷や汗をかきながら、ゆっくりと車に向かって下がっていく。
集落の住人たちを助けてやりたかったが、とてもではないがそんな余裕はなさそうだ。
あるいは、既に住人たちは全滅しているかもしれない。
老人は、なんとかこの場を逃げ切ることに意識を集中する。
さいわい、さっき停めたセダンは、帰りのことを考えて、車道に頭を向けてある。
乗り込み、エンジンをかけ、発進できれば、「熊」の追撃はかわせるだろう。
じりじりと下がり続ける老人に、「熊」が焦れた様子を見せた。
鷹のくちばしをカチカチと鳴らし、両手の爪を伸ばして前に構える。
その爪は、一本一本が日本刀のような鋭利な「刃」を持っているようだった。
「そげな爪、どうやって手の中ば引っ込めておったんじゃ?」
老人は冷たい汗を誤魔化すようにつぶやいた。
あと数歩、というところで、ついに「熊」が動き出す。
四つん這いになって走る普通の熊と違い、この「熊」は短い後ろ足で器用に駆ける。
一見ユーモラスだが、突進速度はかなりのものだ。
鋭利な爪を伸ばした両手を天高く掲げている。加速の勢いであんなものを振り下ろされてはひとたまりもない。
老人は後ろに跳びのきつつ、猟銃の引き金を引いた。
ドン、という反動とともに銃弾が発射される。
老人が猟銃に込めていたのはライフル弾だ。
普段なら命中精度を優先して胸を狙うところだったが、老人はとっさに「熊」の頭を狙っていた。
自分の銃ではこの「熊」の厚い胸は貫けないと直感したのだ。
――ギオッ!?
着弾とともに、頭をのけぞらせる「熊」。
同時に老人は「熊」に背を向け、セダンに駆け込んだ。
差しっぱなしだったエンジンキー(誰がこんな場所で車を盗むのか)を回す。
その直後、車をすさまじい衝撃が襲った。
セダンの天井を飴のように裂いて、「熊」の鋭い爪が老人の目の前に現れる。
「こりゃたまげたわ!」
老人は爪から顔を逸らしつつ、アクセルを思い切り踏み込んだ。
だが、
――グギイイイ!
「わや! ついてくるんかい!?」
車に爪を突き刺したまま、「熊」が加速する車の横を並走する。
さすがに車と同じ速度は出ないらしく、短い足で地面を跳びはね、時に引きずりながら食らいつく。
古いセダンの天井が剥がれ、運転席横の窓が砕け散る。
車内に食い込んだままの爪が、老人の頬に赤い線を刻みつけた。
「このっ⋯⋯! くらわんかい!」
老人は、猟銃の先を突き出し、運転席のすぐ横に迫っていた「熊」の紫の目を突いた。
戦争では一度も使わなかった銃剣で突く動きだが、半世紀以上もの時を経て役に立つとは皮肉なものだ。
――グギャアアッ!
「熊」が痛みで目を押さえようとし、車体から爪を引き抜いた。
老人はすかさず、ハンドルを切りながらアクセルを踏む。
「熊」が車から振り落とされ、林道のはるか後ろへと流れていく。
老人は激しく左右に揺れる車体をかろうじて立て直すと、速度を緩めず、山中の道を一目散に走り去った。
「⋯⋯ひい、ふう⋯⋯。なんじゃありゃあ⋯⋯年寄りにはちと荷が重すぎるわい」
ただの熊とはまるで違う、と思った。
熊は、獲物を求めて、あるいは危険を感じて、人間を攻撃するものだ。
さっきの「熊」はそうではない。
「まるで戦争じゃ」
あの「熊」は、敵を殺すことそのものを目的に動いていた。
その意味では、猛獣というよりも敵兵に近い。
そうなると、もはや老人の手に負える相手ではない。
普通の猟師や、ひょっとすると、警察の手にも余るだろう。
「ただの獣狩りのつもりでおるとえらい目に遭うぞ⋯⋯」
無事逃げ切った鹿納老人は、警察に起きたことをありのままに説明した。
だが、警察はそれを老人の作話だと考え、まともに取り合おうとしなかった。
老人は紙切れのようにズタズタにされたセダンを警察に見せたが、担当した警察官は「力の強い熊だったのだろう」という「常識的な」判断を下した。
結果、隕石の多重墜落という異常事態の中で、この「熊」への対処は遅れに遅れることになった。
鹿納老人とホークベアの遭遇戦は「モンスター」と人間が戦った最初期の例の一つであったが、「モンスター」の存在が世間に認知されるまでには今しばらくの時間が必要となる――




