Insertion.
「先輩、スクラップアンドビルドって言葉知っていますか?」
「あぁ、確か既存の建物を壊して新しい建物を建てることだろ。それがどうしたんだ?」
「それが私の能力なんです」
「は?」
斎藤厘がまた、おかしなことを言い出した。
「私は万物を創造し破壊することができます」
「神様かよ」
「神様です」
「…………じゃあさ、見せてよ……能力」
これで「じゃあ、世界を消してご覧に入れましょう」なんて言われたら僕はカタストロフィーの引き金を引いた戦犯になるのだけれど……。
そう思った途端、僕の前で屈託のない笑顔を向ける彼女が不気味なものに見えた。
音数が減った気がする。
生唾を吞み込む音がしっかりと聞こえた。
風に乗ってバルコニーから店内に通り抜ける波の音と、天井で旋回するプロペラの稼働音がかろうじてこの世界が動いていることを担保していた。
「別に、創造と破壊は誰でもできるんですよ?」
例えば……。と言って腰を浮かせた彼女。
破裂音がこだました。
……え?
音がしたところに左手を添える。
熱を帯びていくのが分かった。
「今、先輩のほっぺを叩きました。どう思いました?」
「い、いきなりのことでびっくりしています」
なんで後輩相手に敬語になっているんだよ……。
「嫌いになりました?」
「ちょっと」
「それは困りましたね」なんて言って目を細める彼女。
絶対思っていないだろう。
「ちょっと、ちょっと」
猫のように手招きをして僕を呼ぶ。
「なんだよ」
僕もまた腰を少し浮かせた。
……!
今度は右頬に肉々しい音が響いた。
頭が真っ白になる。
またそこに手を持っていくと、少し湿っている。
「これはどう思いました?」
「……よ、よかったです」
もはや僕の口は脳を介さずに動いていた。
「私のこと好きになりました?」
「……はい」
それを聞き届けると、彼女は満足げな顔で腰を下ろした。
「つまり、こういうことなんですよ」
「どういうことなんです?」
そんな『まだ分からないのか、こいつ』みたいな目で僕の方を見るのをやめてくれ。
ただでさえ一分間のうちに両頬に受けた衝撃と癒しの二項対立に、脳の処理速度が追いついていないのだから。
「要は何かを生み出したり、壊したりするというのは、あまりにも単純な行為なのですよ。
先ほど私は先輩の心の中に微かな嫌悪感と耐え難い幸福感を創り出しました。
別にこれくらいは誰だってできます。ただ、私はその力が強く表に出てしまうだけ」
「強く表に出るって?」
「先ほど私が先輩を叩いた時、先輩の顔の筋肉がわずかに収縮しました。
平たく言えばムッとした顔になった。それはつまり嫌悪感の表れですよね。
逆にその……ほっぺに……」
なぜか急にもじもじし始める厘。
「ん? ほっぺに?」
……っ!
脛を思いっきり蹴られてしまった。
「ローファーの先って結構硬いんだよ」
「は? なんのことですか?」
間違いなく確信犯だ。
「それで、なんだっけ?」
「ほっぺに……ほっぺにチューした時は……」
顔を紅潮させて恥ずかしそうに言う彼女を見ていると、こっちが恥ずかしい気分になってしまう。
共感性羞恥と言うやつか。
別にそんなの初めてじゃないだろうに。
「その時は……わずかに先輩の口元がニヤニヤしていました」
「してない」
「いいえ、してました。
まあ、それは置いといて。
つまり口角が緩むっていうのは、そういった感情の表れなんですよね。
国語の授業じゃないですけど、登場人物の表情から気持ちを読み解く。
逆に言えば心情が表情を作る」
「心情が表情を作る……」
「私の場合はそれが強いってことなんです。
望んだものをなんでも生み出すことができ、望んだものをなんでも壊すことができる。
要は私の心ひとつなんです」
彼女が放った言葉の残響が減衰すると、また店内の音数が減った気がした。
秒針がカチカチと時間を刻み、そしてボーン、ボーンと6時の鐘が鳴り響いた。
「もうこんな時間ですね。出ましょうか」
そう言って彼女は、隣の椅子に置いていたスクールバッグを肩に下げ、席を立った。
「先輩、行きますよ」
「あぁ、うん……お会計しないと」
そう言えば、注文は全て済んでいるはずなのに伝票をまだもらっていなかった。
「お会計なんかしないでいいですよ。それより早く帰りますよ」
「お、おい……」
彼女に手を引っ張られる形で僕たちは店を出た。
「なあ、食い逃げはまずいって」
「食い逃げ? 先輩、私たち何か食べたり飲んだりしましたか?」
「え? だってさっきまでカフェに――」
「カフェになんかいませんでしたよ。ほら」
彼女が振り返る。それに連動して僕も後ろを見た。
そこには……。
「何も――ない?」
荒れ果てた更地だけが広がっていた。
「これが私の能力、《二項対立》です」
望んだものをなんでも生み出し、なんでも壊す能力――。
彼女はそれを目の前で実践したのだった。
まさか、僕がさっきあんなことを言ったから?
――じゃあさ、見せてよ……能力。
彼女の言葉を信じなかったから。
神様の不興を買ったから。
彼女はこの店を壊したというのか……。
怖い――。
玉のように大粒の汗が額から湧き出ている。
雪女に背筋を撫でられたような心地がしてぶるっと震えた。
「君は、君はその力を使って何をする気なんだ?」
「何をするって?」
「なんでも創ったり、壊したりできるなら世界を破滅させることだって――」
「そんなことしませんよ」
彼女はそう言って僕の話を遮った。
「今のところはしません、だから安心してください。
私はこんな能力こそ持っていますけれど、平穏に生きていきたいんですから。
今日のはただのデモンストレーションです。
今はただ先輩の隣に居られれば……」
そう言って僕の腕に抱きついてくる彼女。
「へへへっ」と屈託のない笑顔を僕に向けてくる。
それはよく知る、いつもの厘の顔だった。
ホッと息をつく。
「先輩」
「なに?」
「だいすきですよ」
「……うん」
すっかり日が落ちて、僕たちの頭上には夜の帳が下りていた。
一寸先の闇の中に僕は、赤く染まった顔を隠し、言葉を隠し、心を隠した。
何気ない日常。
左腕に感じる彼女の体温。
こんな毎日がいつまでも続けばいいと――僕は思った。