<第2章> Grow Up into My Angel. 05
聞きなれない鼻歌を歌いながらスキップする霖。
どうやら買ったばかりのサンダルが気に入ったみたいだ。
これでやっと家に帰れると思うと少しホッとした気持ちになる。
靴を買いに行くだけがこんな大事業になるとは、誰が思っただろうか。
「おにーちゃん! おにーちゃん!」
前を歩く霖が振り返って僕を呼んだ。
「なに?」
「あのマーク知ってる。おねーちゃんがいつもアニメ借りてきてくれるお店のマーク」
彼女は指差した方向を僕も眺める。
あぁ、レンタルビデオショップか。
「借りたいの?」
「うん」
まぁ、テレビ見ているうちは大人しいから僕もゆっくりできるからいいだろう。
「はいはい」
嬉しそうに飛び跳ねて嬉しさを爆発させる彼女。
――単純だな。
しかし次の瞬間、僕は冷水を浴びたような心地がした。
彼女がそのまま横断歩道を渡ろうとしたのだ。
人通りの多い三車線に、彼女は一歩踏み出して。
赤信号に気づかずに横断歩道を渡ろうとしていた。
……っ!
体は言葉よりも先に動いていた。
全ての物語がスローモーションで進行していく。
差し出した手のひらから感じる彼女の少し高い体温。
握る手に力を込める。
近くで鳴るクラクション。タイヤが擦れる音。
一瞬、彼女の体がボンネットの上で、水揚げされた魚のように跳ねる映像が見えた。
ボンという鈍い音。彼女の体を中心に凹むボンネット。そこから流れる赤い血潮。
――なんだこの感覚……。
りん、と風鈴が鳴る音が聞こえた。
コマ送りだった時の流れが速度を上げていく。
我に返った僕は全体重をかけて彼女の腕を引っ張る。
彼女の体がぶつかる衝撃で僕は腰を打った。
そして僕のつま先の寸分先を、車が勢いよく通り過ぎていく。
胸元に抱きかかえる感触を確認してホッと胸をなでおろした。
此の期に及んでようやく事の重大さを把握した霖は、目の焦点が合わずにひたすら口をパクパクさせている。
「はわ……はわわ……」
「何してんだ! 危ないじゃないか!」
「ご……めん、なさい」
流石に肝を冷やしたのか、少し萎縮する霖。
そのまま抱えていた両腕に力を込める。
そんなこと柄でもないかもしれないけれど。
僕は彼女の温もりが、恋しかったのかもしれない。
彼女の感触が恋しかったのかもしれない。
何かがじわっと胸の奥で広がっていのを感じる。
今朝浴びたシャワーですらふやけなかったものが、ゆっくりと弛緩していく気がした。
「君に何かあったら、僕は――」
――厘にどんな顔をすればいいんだ。とは言わなかった。
言えるわけがない。
今、僕の両腕の中にいるのは間違いなく『りん』なのだ。
厘の見た目をした、しかしまったく別の存在。
霖と言う名の一人の少女なのだから。
「……ごめんなさい……ごめんなさい」
必死で何度も謝る彼女は、僕の腕の中で震えていた。
「もういいよ。ほんと、怪我しなくてよかった」
「でも、おにーちゃん怪我してる」
「え?」
右肘を見ると、擦り切れて血が出ていた。
そして信号が青に変わる。
路傍に腰を下ろす僕たちは、まるで川の真ん中に佇む岩のように、人の流れを阻んでいた。
「いいよ、これくらい。唾つけたら治るから」
霖が心配そうに見つめてくる。
彼女を起こしてから立ち上がり、ズボンの尻を二、三度払う。
「これに懲りたら、信号はしっかり確認しないとダメだよ」
「……うん」
そして正面を向く。
「……あっ」
青信号は点滅を始めてしまっていた。
「もう一回待つしかないか」
車道側の信号が青に変わり、止まっていた車たちが音を上げて動き始めた。
ふと指先に何かが触れた気がした。
霖が顔を前に向けたまま左手を僕の右手の方に伸ばしている。
少し頰を赤らめて、差し出した側の腕は僕たちの間を右往左往している。
「……ほら」
両手を添えて無理やり彼女の左手と僕の右手を繋ぐ。
すっぽりと僕の手の中に収まる彼女の小さな手。
意味がわかった霖の顔がほろほろと柔らかくなる。
「はわ……はわわ……」
僕は小っ恥ずかしくなってそっぽを向いてしまった。
「霖はちょっと目を離すと何をするか分からないから……」
付け焼き刃の言い訳だってことくらいわかっている。恐らく霖も。
それでも彼女は嬉しそうに、繋いだ手をブンブンと振り子のように振る。
「おにーちゃんだいすき!」
「はいはい、僕も大好きだよ」
そんなことを平気で口にできる僕が恨めしい。
嘘か本当かわからない言葉を、平気で口にできる僕が恨めしい。
そんな僕が預かった、たった一つもの。
厘から受け継いだ彼女そっくりの少女。
霖のためにできることを、厘にしてやれなかったことを、僕は頭の中で指を折りながら数えていた。
信号が変わる。
「おにーちゃん、いこっ」
彼女がこちらを向いて笑う。
今度こそ、それに応えようと懸命に笑顔を作る。
霖が僕を見て一言、
「おにーちゃんの笑顔って変だね」
僕は「久しぶりだからね」とだけ返して繋いだ手に力を込める。
彼女もそれに応じて握り返してくる。
人と人が触れ合うことがこんなにも心地よいものだと感じたのは、いつ以来だろうか。
いや、もしかしたら初めてかもしれない。
「行こうか」
「うん」
――そして、僕たちは一歩踏み出した。