<第2章> Grow Up into My Angel. 02
たったったった……とリズミカルな音が聞こえる。
「おにーちゃん、髪乾かして」
タオル一枚を巻いて斎藤霖がこちらに走ってきた。
やっぱりそうなるか。
彼女が通った後にポツリポツリと水滴が滴っている。
「そろそろ自分で乾かすことを覚えないと」
「なんでー?」
「なんでって」
「それもジョーシキ?」
「うん、常識」
「じゃあ、りんはこれから自分で髪を乾かすね」
「うん」
「でも今日はおにーちゃんが乾かして」
「はいはい、わかったよ。そこに座って」
僕は浴室から乾いたタオルを一枚取ってくると、居間に座る彼女の後ろに膝をついた。
彼女の頭にタオルを乗せゴシゴシ動かし始めると、「キャキャ」と奇声をあげた。
動きに任せて首を左右に揺らしている。
「気持ちいいの?」
「うん、おねーちゃんの方が優しいけど」
そりゃ、どうも。
「はい、終わったよ」
「あーと」
そう言ってすっと立ち上がると、たったったっ……とまたどこかに走り去って行った。
小学生は朝から元気がいいな。
つけっぱなしのテレビからは今日もどうでもいいようなニュースが流れている。
どのチャンネルも、同じものを手を変え品を変えて放送している。
そんなことしか伝えることはないのかよ、と思いながらも、こうして毎日誰かの不幸を目にして、自分よりも可哀想な人間がこの世にいることに安堵している僕がいる。
「そんなことをしている自分が一番可哀想だっつーの……」
天井を見上げてポツリと呟いた。
「おにーちゃん! ちょっと来てー」
どこからか霖の声が響く。
「ねえ、おにーちゃんってば!」
「わかりましたよ、いま行きますとも」
リモコン片手に電源を切ると、重い腰を上げて声の主の方へ向かった。
「ねーえっ! 早くー」
「まーだだよ」
どうやら声は二階かららしい。
浴室の反対側に備え付けられた階段を登って二階に行く。
ミシミシと音を立てて登ると、そこには三つの部屋が広がっていた。
階段手前の部屋のドアが開いていて、そこに彼女はいた。
「おにーちゃん、見て! かわいい?」
膝まで隠れる丈にノースリーブの白いワンピースを纏い、腰回りに水色のベルトを巻いて彼女は立っていた。
よく見ると壁の四方に備え付けられラックに服が吊り下げられている。
ナイトドレスのようなものから、カジュアルなTシャツまで。
衣装部屋なのか?
「ねえ、見てて」
バレリーナのようにくるっとその場で周り、それに合わせてワンピースの裾がふわっと膨らむ。
もう一度正面をむくと、右足を一歩引いて裾の両端を恭しく摘み上げた。
「どう?」
「うん。きれい、きれい」
全く、自分の髪の毛も拭けないのに、そんな仕草どこで覚えたんだよ……。
本当? と飛ぶように喜ぶ彼女。
「おにーちゃんとのおデートだから、ママの借りちゃった」
ママ?
彼女の足元に転がっていたビニールの包装とハンガーを拾い上げる。
ハンガーの先にはホッチキスで止められた紙タグが留められていた。
クリーニング済みのハンコ。
日付は……二年前の春。
「そっか、あいつのなんだ……」
「勝手に着ちゃまずかった?」
不安そうに見つめる彼女。
「いや、問題ないよ。さぁ、お出かけしよっか」
踵を返して部屋を出ると、その先の部屋はなるべく見ないようにして階段を降りた。
玄関前まで行くと、上がり框に腰掛け、靴紐を結んだ。
こんな格好に革靴とは、またなんともチグハグだな。
全てが中途半端。僕にお似合いじゃないか。
すると、「つんつん」と奇妙なオノマトペを発して霖が僕の背中を突いてきた。
「どうしたの?」
「りん……それ持ってない」
「え?」
「お靴、持ってない」
僕の足元を恨めしそうに指差して答える彼女。
靴を持っていないだって?
「お外出たことないの。だから」
おいおい、本当に監禁していたのかよ。
そう言えば、この子は今日も昨日もずっと裸足だ。
上は着飾っているのに、靴下は決して履いていない。
「ねえ、りん、どうしたらいいの?」
心労のためか自然とため息が溢れる。
「わかったよ。途中で靴屋にでも寄ろう。僕もスニーカーに履き替えたかったし。ご飯まだ我慢できる?」
「うん!」
僕は背中を丸め、両腕を後ろに出す。
「おんぶするから、乗って」
首筋に霖の腕が巻きついてくる。
その感触、その温度。
あの時のあいつのものと同じだ。
そんな単純なことで心のどこかが少し踊ったり、悲しんだりする。
だから、帰って来たくなかったんだよ……。
なんて恨み節を飲み込んで、僕の腰を挟む彼女の太ももを挟むように掴むと、腰を上げた。
軽い。本当に、風が吹いたら飛んでいってしまうんじゃないのかと思うほど軽い。
それでも確かにそこある、彼女の小さな体温を背負って僕は戸を開けた。
鍵は――まぁ、掛けなくてもいいだろう。
どうせ何も盗むようなものはないし、何かあったら全部零さんのせいにすればいい。
「さて、どこに行ったものか……」
免許を持っていない僕は郊外にあるショッピングセンターに行くにはあまりに遠すぎるし、彼女を背負ってそう遠くまでは歩けない……。
まぁ、どうせこの時間じゃお店なんてほとんど空いていないだろうし。
なんとなく気の向いたままに歩いてみようと思う、と言っても東に向いた時点でおそらく心は商店街に決まっていたんだろうな。
けれどもここからが大変だった。
初めての外の世界に触れた霖は、身を乗り出すように前のめりになって、様々なものを指差すのだ。
「あれなにー?」って。
何度危うく転びかけたことか。
三歩歩けば指を差し、そのため逐一説明しているため全然前に進めない。
牛歩だ。牛歩のプロだ。
そして、すれ違う人がみんな微笑ましく見てくるのが、またなんとも辛い。
見た目中学生くらいの少女をおんぶしているんだぞ?
東京じゃ間違いなく職質レベルだ。平和すぎるだろう、高松。
それともどっかの結婚式から花嫁を奪ってきたとでも思っているのか?
おいおい、今日は月曜日でしかも仏滅だぞ……。
――閑話休題。
それから、だいたい30個目くらいの質問から僕は答えなくなった。
気温はとっくに25度を超えて、いくら軽いって言っても中学生くらいの女の子を背負ってこの行脚はかなり来るものがある。
汗がダラダラ、腕はプルプル。
ほんと、どうしてコンビニに靴が売っていないんだよ。と理不尽な怒りをぶつけながら僕たちはなんとか商店街の辺りまでやってきたのだった。
僕がこの街を離れた二年のうちに、商店街はすっかり様変わりしていた。
老人の口元のように歯抜けだらけだった軒先はすっかり若返り、今やシャッターを下ろしている店なんかひとつもない。
アーケードの入り口は大規模改修されて、今や見る影もなくなっていた。
一階から三階まで吹き抜け構造をしたショッピングモールには、有名なセレクトショップが入り、CDショップが入り、そしてスポーツブランドまで入っている。
さらにその上にはなんと分譲マンションが二棟建てられている始末。
「すごいね、おにーちゃん」
「そうだね、ちょうど三階にスポーツブランドが入っているみたいだし、そこで靴買おうか」
「おにーちゃん、おにーちゃん」
僕の目の前に伸びた小さな両手が頰をぐいっとツネってくる。
「はに?」
「りんは、はらぺこあおむしなのです」
「はいはい、お腹空いたのね」
さっきコンビニに入った時にパンでも買って与えておけばよかった。
「おいおい、サイゼまで入っているのかよ」
案内表示を見て驚く。
一体高松はどこに向かっているんだ。
「サイゼ?」
「ファミレスの名前」
「ファミレス?」
「ファミリーレストラン。ご飯食べられるお店」
「うん。いく!」
単純でよかった。