<第2章> Grow Up into My Angel. 01
首筋の痛みで目が覚めた。
モヤがかかる視界が徐々に鮮明になっていき、状況を把握する。
どうやら僕はあのまま寝てしまったらしい。
彼女の髪の毛を拭いたタオルが机の上に無造作に置かれている。
その横には両腕を枕にスヤスヤと眠る霖の寝顔。
何かを食べている夢を見ているのか時々口元をモグモグと動かしている。
胡座を組んだ僕の足の間にすっぽりと収まる小さな体、こめかみから汗が吹きでいていた。
まだ六月の末の朝だというのにそんなに暑いのか……。
自分のシャツの袖に鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。確かに少し汗臭い。
目元にかかる前髪を指先でそっと耳にかけてやると、彼女を起こさないようにゆっくりと胡座を解き居間の隅に転がるボストンバッグから着替えとタオルと取り出す。
それを持って僕は浴室に向かった。
玄関から入ってすぐ右側、その一室が斎藤家の浴室になっていた。
乾燥機能付のドラム式洗濯機と大きな鏡面の洗面台。そしてその奥が風呂場になっている。
プラスチックのカゴにタオルと着替えを入れて洗濯機の上に置く。
昨日までずっと着ていたブルックスブラザーズの白シャツのボタンを丁寧に外していく。
それを洗濯機の中に突っ込むと風呂場のドアを開けた。
赤色の印がついた蛇口をひねる。
勢いよく飛び出した熱湯が、暑さも寒さも感じない欠落だらけのこの体に殴りかかってくる。
シャワーのノブを調整して頭に当てる。
ある程度湿ったことを手で確認すると、シャンプーのノブを二、三回押して、それを頭にこすりつけた。
泡が立っていく。
同じ香り――。
あいつと同じ香りが、広がる。
まるであいつに後ろから抱きつかれているような心地になって、
それが気持ち悪くて、
僕はそれをシャワーのノブを緩めて、まるで滝行のように急いで洗い流した。
最後に待っているのが絶望なら、初めから期待させんなよ……。
湯気で曇った鏡の向こう側の自分があまりにも醜くて、僕はそっと手を払った。
「無様だな、全く」
ポツリと言葉を残して僕は風呂場を出た。
「あ、おにーちゃんおはよ」
Tシャツとジーンズという格好に着替えて居間に帰ると、斎藤霖は目を覚ましていた。
梅雨が開けた初夏の高松は、朝から焼けるように暑い。
僕のジャケットは居間の隅にしわをつけて投げ捨てられていた。
テレビから朝の特撮ヒーローと魔法少女もののアニメが流れている。
あれ、今日は木曜日じゃないのか?
リモコンで器用にCMを早送りしているのを見ると、おそらく録画番組なのだろう。
「どうする、朝ごはん食べる?」
「いえーい。朝ごはん! 朝ごはん!」
「そんな大したもの作れないけどね。トーストと、スクランブルエッグとか」
「すくら?」
「炒り卵。普段朝なに食べているの?」
「これ」
斎藤霖はトコトコと台所まで歩いていくと、横の棚からあるものを取り出した。
「カロリーメイトじゃん」
「お姉ちゃんが戦う戦士の食べ物だって」
「受験生の、ね」
零さん、一体どんな生活させているんだよ。
別に悪い食べ物ではないんだけど――。
冷蔵庫を開けてみる。
「一応、それなりに揃ってはいるのか」
「お昼はね、お姉ちゃんが帰ってきて一緒に食べるんだよ」
あぁ……零さん、いま市役所で働いているんだっけ?
「夜ご飯は?」
「食べないよ。夕方には寝ちゃうもん」
そうだった。
昨日も髪を乾かしたらすぐに寝ちゃったもんな。
起こすのも忍びなくて、朝までその場から動けなかった――結局僕も落ちたんだけど。
「ねぇねぇ」
Tシャツの袖を彼女が引っ張る。
「なに?」
「お外でご飯たべたい」
「え?」
「ん」
彼女が指差したテレビ画面からは戦いを終えた女子高生たちが、ファミレスでご飯を食べているシーンが映されていた。
「外でご飯食べたことないの?」
「お外は危険がいっぱい」
過保護なカクレクマノミじゃないんだから……。
これじゃあ飼い慣らしじゃないか。
可哀想だ。
…………可哀想だ?
おいおい、僕にまだそんな感情が残っていたのか?
そりゃまた随分皮の厚いやつだ。
それとも立場が弱い人間に対する慈しみの気持ちでも湧き上がったのか?
母性本能ってやつか?
けれど所詮はそんなもの美辞麗句に過ぎないじゃないか。
結局、人は一人で生きていくしかないのだから――。
そんな感情、ただのお節介だ。
「分かってる。分かってるよ、そんなこと……」
「ん?」
「なんでもないよ。外でご飯食べにいくのは構わないけれど、シャワーを一度浴びたほうがいいね。汗で髪の毛だいぶベタついているし」
「お風呂はいったら、お外連れてってくれる?」
目を輝かせて霖が迫ってくる。
外に何があるっていうんだよ……。
「うん、いいよ。連れてってあげるよ」
「やった! じゃあ40秒で入るね」
すると、僕の目の前で突然、服を脱ぎ始める彼女。
Tシャツの袖を掴んで一息で脱ぎ散らかし、ショーパンのボタンに手をつけたところで、僕はやっと反応できた。
「いや、ここで脱いだらダメだよ」
「なんで?」
本気でわかっていないのか、じっと僕の目の奥を見てくる。上半身裸で。
別に見慣れた体だし、何も思わないけれど。
ツンとした汗の匂いが鼻につく。
「なんでって、常識だから……かな」
「ジョーシキ?」
あぁ。小学生に常識なんて言っても、分かるわけないか。
「とにかく、お風呂はいってきな。服はちゃんと脱衣所で脱ぐんだよ」
「はーい!」
そう言うと、彼女はバタバタと走って行った。
まったく、しっかりしろ僕。
これじゃあ、この先持たないぞ……。