<終章> I'll be invisible (5 minutes before The World End). 05
――たすけて……ください。
斎藤厘は僕の顔を見上げてそう言った。
彼女を助ける。僕はその方法を知っている。
零さんも言っていた。この世界は斎藤厘の作る箱庭のようなものだと。
彼女の心象風景が具現化した世界。
ならば彼女の心と、この世界の繋がりを断ち切ればいい。
それで彼女を破滅の道から救うことができる。
僕が与えられた力は、事実を無かったことにするものなのだから。
彼女が神様だった事実を、無くして仕舞えばいい。
「ダメです!」
突然斎藤厘が叫んだ。
「それはダメです。だって私が神様だったという事実を無かったことことにしたら、この世界そのものが消えてしまいます」
「違う。君が神様だったという事実を消しても、この世界は消えない」
「どうして、そんなこと分かるんですか?」
「だって、世界っていうのは人が人に影響を与える範囲をいうんだから。お終いにするのは、君と僕の二人だけの世界だ。大丈夫。この箱庭の外側にも、きっと世界は広がっている」
彼女が作る箱庭は、あまりに極端すぎた。
僕と君の関係が世界の行く末を決める。
まるで共依存のように、全てが内側で自己完結される世界。
それは堅牢のように見えて、実に脆弱だった。
だって心を開いて、外を見ればそこには無限の可能性が広がっているのだから。
閉じられた世界に未来はない。
それを教えてくれたのは誰よりも人の心を知る、あの人だ。
「僕たちは悪い夢を見ていたんだ。けれど目が覚めると全て終わる。悲しい思い出も、怖かった出来事も全て無かったことになる。だから安心して」
斎藤厘は、流れる涙をよそに首を左右に振っている。
「先輩はそれでいいんですか? 先輩との楽しかった思い出も、全部夢になっちゃいます。もしかしたら目が覚めた時、それがどんな夢だったのか覚えていられないかもしれない」
「それでも僕は――」
思えばここまで来るのに途轍もない道のりだった。
彼女が死んでからの2年間を無為に過ごし、ある日斎藤厘と瓜二つの少女と出会った。
霖との共同生活は確かに精神的に来るものはあったけれど、それでも楽しかった。
斎藤霖というもう一人の少女のことが好きになって、けれどやっぱり厘のことが忘れられなくて、彼女を救うために僕はこうしてあの時に戻ってきた。
何度も死にそうな思いをして。
文字通り何度も死んで、そこまでしてこの時をやり直してきた。
全ては、斎藤厘を救うため。
――だから。
「僕は、君に生きてほしい」
涙腺が決壊した彼女は胸に飛び込んで来ると、大声で泣いた。
「ごめんなさい……助けてくれなんて言って、無責任なこと言って、ごめんなさい。全部私が悪いのに。責任をとるべきは私なのに。先輩にばかり押し付けて、私が死ねば全て解決する。それでも……死にたくないって思うのは、強欲ですか?」
「分かっている。分かっているから」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」と何度も言う彼女の頭の後ろに手を回して、先ほど切ったばかりの髪の毛を軽く撫でる。
「ごめんね、下手っぴで。髪の毛、ギザギザになっちゃってるね」
「先輩、一つお願いしてもいいですか?」
「なに?」
「外の世界でも、私を見つけてください」
顔を上げ、僕に訴える彼女。
「怖いんです、一人でちゃんと歩いて行けるのか。だから探してください。私も先輩のこと、必ず見つけますから」
斎藤厘は瞳をうるうるさせ、不安そうにこちらを見つめた。
雷が鳴る。
粉塵が舞い、地響きがする。
こうしているうちに、刻一刻とこの世界が崩壊に向かっていた。
「時間だ……」
空を見てそう呟くと、彼女がぎゅっと僕のシャツを握る手に力を込めた。
僕は彼女と同じ目線にまで腰を曲げると、右手を厘の頭の上にそっと乗せ、撫でる。
「大丈夫。必ず会いに行くから」
その時、僕は果たしてちゃんと笑えていたのだろうか。わからない。
けれど彼女の表情が緩んでいく。それだけで十分だ。
「さよなら、だね」
「はい、さようならです。大好きでしたよ」
「僕もだよ」
斎藤厘はとびきりの笑顔を僕に見せた。
僕たちは指と指を絡ませ、互いの吐息が感じられるほど近づいていく。
その白い肌も、長い睫毛も焼き付ける間も無く、僕は目を閉じた。
そして唇を重ねる。
――りん、と風鈴の鳴る音が聞こえた。
雲が四散し、その隙間から太陽が顔を出した。
荒れていた海は穏やかになり、砂塵が舞う街は元通りの姿に戻る。
全てが何事もなかったかのように修正されていく。
いや、これは拡張だ。
僕たちの箱庭が外の世界へと繋がっていく。
世界の拡張――それが僕たちの出した答えだ。
僕の体に僅かな重さがかかる。
「こんなに軽かったんだな……」
指先で突けば倒れてしまいそうなほど線が細いのに、それでも心臓は一生懸命脈を打っている。
生きたいと強く叫んでいる。それだけで自然と涙が湧いてきた。
僕の顔を思い出せなくてもいい。名前を忘れてしまってもいい。
透明人間でいい。
それでも、君が僕と同じ世界で生きていてくれるなら、それだけで僕は救われる。
「幸せになれよ」
指先で、彼女の睫毛に溜まった雫をそっと払う。
彼女の前髪をそっと掻き上げ、その小さな額に口付けをした。




