<終章> I'll be invisible (5 minutes before The World End). 02
霧吹きを頭全体に吹きかけられ髪の毛が湿ると、斎藤厘は毛並みを整えるように櫛を通して行く。
「先輩、今日はどういう風の吹き回しですか? あれだけ嫌がっていたのに私に髪の毛切らせてくれるなんて」
嬉々とした声をあげた斎藤厘はそうしてまた櫛を動かす。
「たまにはこういうのも良いだろ」
プラスチック製の小さな椅子に腰掛けた僕。
あいにく美容室で被らされるクロスはなく、家にあったレインコートで代用した。
鏡の向こうには制服の袖をまくり、どう料理しようかと様々な角度から僕の頭を眺める斎藤厘がいる。
「先輩、あの……今更なんですが、失敗したらごめんなさい」
「おいおい、勘弁してくれよ」
とっさに後ろを振り向こうとした僕の首を彼女は両手で掴むと、力を加え前方へ戻す。
「はいはい、危ないので大人しくしておいてくださいねー」
斎藤はビニール袋をゴソゴソと漁り、買ってきたばかりの散髪用のハサミを取り出した。
「なぁ、頼むから前髪は慎重にやってくれよ」
「わかってますよ」
そして彼女はまた僕の後ろの髪の毛にすーっと櫛を通すと、今思い付いたとばかりに「あっ」と声を上げた。
「先輩、じゃあゲームしませんか? 先輩が私に質問する。私はその質問に答えながら先輩の髪にハサミを入れる。先輩がまだ髪の毛を切って欲しいのであればまた質問する。で、私が髪を切りながら答える……。先輩はちょうど良い髪型になるまで質問してください」
「別に構わないけれど、なんでそんな手間のかかることするんだ?」
僕の質問など想定したいたかのように彼女は答える。
「だって、先輩。私に聞きたいことたくさんあるでしょ?」
鏡の中の彼女は目を細めて笑っている。
「じゃあ行きますよー」
ハサミを動かして空を切る斎藤厘。
今更だが本当に切らせて大丈夫なのだろうか……。
けれど、これは僕に取って願ってもない好機だ。彼女に質問ができる。
そして彼女はそれに答えないと僕の髪の毛を切れない。十分なギブアンドテイクが成立していた。
「じゃあ、まず。名前は?」
「斎藤厘」
耳の後ろでハサミが入る音がする。
足元に黒い髪の毛の束がひらひらと落下した。
「家族構成は?」
「父と、血の繋がっていない母と姉」
――ジャキっ。
「お姉さんとは仲が悪いの?」
「いえ、そんなことないですよ。家庭円満です。先輩にまだ紹介していませんでしたっけ? じゃあ今度うちに来た時に紹介しますよ。ついでに両親も」
そしてまたハサミが通る。
そうか、厘は僕と零さんがつながっていることを知らないのか。
「好きなものは?」「先輩」
――ジャキっ。
「嫌いなものは?」「先輩」
――ジャキっ。
僕のことが好きでもあるし、嫌いでもあるって、
「どっちなんだよ」
鏡の中の斎藤厘は櫛の持つ手を腰に当て、ハサミを持つ手を宙で振ながら得意顔で諭し始めた。
「先輩、女の子は一度好きになるとその人にどんな悪いところがあろうと『あの人にはコンプレックスがあるだけなのよ』で済ましちゃうのですよ」
「サリンジャーの受け売りだろう」
「正解!」
そしてまた足元に僕の髪の毛が落ちる。
残念ながら僕はコールフィールドのように純粋無垢ではない。十分にこの世界の黒いところを吸っている。
否、誰しも彼のようには生きられない。大人になるということはそういうことだ。割り切れない心を無理にでも割り切って、次第にそんな苦しみにも慣れてきて、いつの間にか平然と人を裏切るような人間になって行く。
きっと、ライ麦畑の先にある崖から誰かが落ちそうになっても僕は誰も救わないだろう。
――甘えるな。
そう言って崖の淵から落下する誰かを見下ろす。そんなタイプの人間だ。
ほんとつくづく自分の醜さに辟易する。
「先輩?」
「ああ、ごめんちょっと考え事してた」
「危うくバリカンで丸刈りにするところでしたよ」
笑顔でスイッチを入れる彼女が恐ろしい。
というかそれは僕の髭剃りだ。
「じゃあ、次。さっき僕に悪いところがあるって言っていたけれど、それって何?」
「…………」
僕の頭の真ん中ほどで櫛が動きを止める。
「いや、別に単純な好奇心からなんだ。僕に何か悪いところがあるなら直すし」
斎藤厘はしばらく何も発しなかった。浴室の中は換気扇の回る音が響く。
この閉鎖空間でどれだけの時間が経ったのか分からない。
もしかしたら2、3分の出来事だったかもしれない。
けれどその時の僕にとっては、まるで永遠のように永く感じた。
「……ほんと、そういうところですよ」
やっと口を開いた彼女の声は震えていた。
「先輩は……、あなたは私に優しすぎる」
斎藤厘の両腕は力なくうなだれている。そして彼女はそのまま椅子に腰掛ける僕の丸い背中に額を擦り付けた。
すー、はーと響く彼女の息遣い。鼓動を早める僕の心臓の音。
今度こそ本当に、世界に二人だけのような気がした。
彼女はレインコートから露出する僕の右手にそっとハサミを手渡す。
「今度は私が質問する番です。先輩、あなたはこの世界の人ではないですね」