<第5章> Before Dawn. 05
「じゃあ、また……」
そう言って彼女が斎藤邸の門をくぐってから、僕たちの距離は急速に離れていった。朝の待ち合わせの場所に彼女は来なくなり、夕方は正門の隣で僕を待たずに一人帰っていく。あの日から、まるで僕など居ないかのように振る舞う彼女の姿に、次第に僕の心も彼女から離れていった。
「おい、お前ら最近どうなってんだよ」
零さんも僕たちの様子に見兼ねている。
以前彼女と会った本屋が僕と零さんの情報交換の場になっていた。
「わかりませんよ。あいつが妙にそっけなくて」
「いつから?」
「それは……」
曖昧な返事をする僕を彼女は見逃さなかった。
「そういえば、先週妙に帰りが遅い日があったんだよ」と零さんが僕に揺さぶりをかけてくる。
「何があった?」
「実は――」
僕はあの日のことを話した。おそらく僕たちの心が最も近づいたほんの数時間の出来事を。
そして洗いざらい話した僕を、零さんは平手で応えた。
右の頬が痛む。
「これは私の分だ。なに人の妹をホテルに連れ込んでんだよ!」
そして今度は腹に一発、拳を見舞われた。
「そしてこっちはあいつの分だ」
後ろによろめく僕の前髪を鷲掴みすると、そのまま本棚に僕を押し付ける。
「これだからお子様の恋愛は大っ嫌いなんだよ!」
肺を圧迫された僕はヒューヒュと懸命に空気を求め、喉を鳴らしている。
「お前は優しすぎるんだよ。あいつがなにをしても許してしまうし、なにもしなくても認めている。それがあいつにとってどれだけ息苦しいものか考えたことあるか!」
「ど、どういう……こと、ですか」
殺気を纏った目がぎらりと僕を睨みつける。
また腹に衝撃が走る。
「その優しさは全く優しくない。ってことなんだよ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「とりあえず、なんとかしないとまた同じ事になるぞ」
彼女の言葉に一瞬身震いする。
彼女が世界を滅ぼすとされた日まであと一週間しか残されていない。
「私が取り持ってやるよ」
零さんは後ろ髪をかきむしるようにしてそう言った。
次の土曜日、僕は指定された喫茶店で斎藤厘が来るのを待っていた。
2杯目のアイスコーヒーはすっかり氷が溶けて、紙のコースターは限界まで水を吸っている。
古いスピーカーは掠れた声でノクターンを歌う。
カランとドアに備え付けられたベルが鳴る。入り口にはあの白いワンピースを着た彼女が立っていた。
僕の姿を認めるとこちらに向かって歩いてきた。僕の前に座る。
袖口から伸びる彼女の白い腕は細く、顔立ちも少し痩せたように見える。
「久しぶり」
「はい……」
斎藤厘はずっと俯いていて、僕の方を見ようとはしない。
長い沈黙が漂う。
「先輩、あの……ごめんなさい。その色々と迷惑かけて」
「うん」
今日の僕たちの言葉のキャッチボールは素直に進まない。
お互いが一球投げるごとに途轍もない時間を要し、また相手はそれを返そうとはしなかった。
もう、元には戻らない――僕はそう直感した。
お互いに表皮をなぞるだけの応酬が続く。おそらく僕たちはお互いに同じ言葉を考えていた。
あとはどちらがそれを言うか……。
スピーカーから流れる音楽はラフマニノフに変わっていた。ピアノ協奏曲第二番。
冒頭、ピアノの和音が響くと店内の雰囲気が暗澹としたものに変わった。
誰かがカップを乱暴に皿の上に置く音が聞こえる。新聞をめくる音。ミルで豆を挽く音。
けれど僕たちは口を開かない。彼女の注文したラテの泡はとっくに消えてしまっていた。
ホルンが高らかに冒頭部の終わりを高らかに宣言し、表題に突入したのと同じタイミングで僕は決心した。
「ねえ……別れよっか」
彼女は一瞬顔を上げ、目を開いたが、すぐにまた下を向いた。
それが泣いているのだということくらいすぐに分かった。
ピアノ協奏曲は終わりに差し掛かっている。最後の一音が響き、余韻が店を包む。
次の曲が始まる前に僕は店から出ていった。
最低だ。
あれだけ、彼女を救うと決めておきながら、僕は自ら彼女の手を引きはがしたのだ。
別れたら彼女がどうなるのかくらい分かっていただろう。間違いなく、彼女の能力は暴走する。
それでも僕はこの道を選んだのだ。
結局、僕にとって世界も彼女もその程度だったって事なんだろう。
ほんと、最低だよ。
ほら、こんなことをしておきながら僕の目からは涙ひとつも溢れてきやしないんだから。
溢れてきや、しないんだから……。
奥歯をこれでもかと噛み締める。
家に帰る足取りはどことなく重い。交差点で信号を待っている間僕は空に浮かぶ雲を眺めていた。
西から東へ、何かに駆り立てられているかのように急いでいる。
きっとそうやって涙が流れないように自制していたんだろう。
だから、後ろから迫る足音に気がつかなかった。
「先輩なんて、作らなきゃよかった――」
斎藤厘の声が耳に響く。
背中から腹へ貫通する彼女の細い腕。
あの時、霖が僕の胸を穿った光景が蘇ってくる。
「さようなら、先輩」
痛みは感じない。ただ眠るように意識が遠のいていった。