<第5章> Before Dawn. 04
数分の抱擁を経てもなお僕たちの昂まりは、抑えることができなかった。むしろ心臓の鼓動は加速していく。
今ひとつにならないと、永遠に取り返しがつかないことになる気がする。だから僕たちは無言のまま繋いだ手に力を込めて、ネオンライトが作る幻想の街に歩を進めた。
そこは僕たちの知らないもので溢れていた。高松にこんな場所があったのか目を見張る。スパンコールを織り込んだタキシード、目を覚ますほど煌びやかなドレス、鮮やかな口紅、点滅するピンク色の蛍光灯。もちろん新宿の歌舞伎町には見劣りするけれど、それでも僕たち高校生にとっては、じゅうぶん異世界のようなところだった。
「あっ、3240円!」
斎藤厘は看板を指差して、同時に僕と繋いでいる手をぎゅっと握った。その手はこれまで感じたことがないくらい熱く、火照っていた。誘っていることくらい一瞬でわかった。それに応えるように僕も握った手に力を込める。
問答はそれで終わり、中に入った。
鍵を受け取ると僕たちは薄暗いエレベーターに乗り込んだ。互いの汗で湿った手のひらはなんとも不快だったのに、それでも厘も僕も、離そうとはしない。エレベーターは僕たちを別の星へ連れて行っているのではないかと思うほど、長い間上昇を続けた。
「まるで世界に僕たち二人だけみたいだ」
「まるで世界に私たちだけみたいですね」
「「え?」」
互いに顔を見合わせる。彼女も僕も、同じことを考えている。
そのことが嬉しくて、また繋いだ手に力を込めた。
長い時間をかけたのにも関わらず、たった3フロアしか昇らなかったエレベータを降りて、僕たちは鍵に書かれた番号のもとへ向かう。
『335号室』
「ROOM335……か」
独り言をポツリと呟く。
「なんですかそれ?」
「ラリー・カールトンだよ」とだけ伝え、僕は持っていた鍵を錠に指す。最初は鍵穴に合わず、裏返して再び錠に挿し込む。今度は錠の中の油が足りないのか、型は合っていたが、なかなか奥まで入らない。それはまるでこれからの僕たちを暗示しているみたいだった。
その光景を眺めていたあいつも何か察したのだろう。「あっ……」と声を漏らすとすぐに「いうえお」と取り繕い、ほんのりと赤く染まった顔を俯かせる。
まったく、お前下手くそなんだよ、そういうの。
扉を開け、照明のスイッチを押す。それでも部屋全体をほんのり明るくする程度だった。
敢えてこういう風にしているのだろう。
斎藤厘は部屋の奥まで進んでカーテンを開けると、窓の外を眺めていた。
「夜景は見えないですね」
「3階だからね」
僕は冷蔵庫を開け、中を漁る。
何か飲みたかったのだが、どうやら別料金らしい。
諦めて僕は自分のカバンの中から水筒を取り出す。が、やはり中は空っぽだった。
「あれだけ長い間乗っていたから、てっきり月まで行ったと思ったのに」
ベッドの淵に腰を下ろした斎藤厘は、そのままだらんと背中からベッドに沈んだ。
「……ねえ、先輩?」
「なに?」
「来て」
「……」
一歩一歩彼女の待つベッドに近く度に、心臓が飛び跳ねるような感覚に駆られる。
ベッドの淵、彼女の隣に腰掛けた僕を厘は首だけ起こして見ると、そのまま両腕を僕の首もとに巻きつけ、ベッドに倒した。
「えへへっ」と笑う彼女。
一瞬何が起こったのか分からない。
頰に感じる柔らかい感触と、ほんのりと暖かい熱。そして彼女の心臓の音。その全てが彼女は今生きていることを僕に伝えてきた。
「緊張、しています」
「うん……」
気の利いた言葉が思いつかない。
僕たちの上で稼働する空調の唸る音だけが部屋に響いた。
「……先輩、とりあえず頭どけてもらっていいですか。お腹重いので」
自分でやったことだろう。
僕が頭をどけると、彼女も起き上がった。暗い中で爛々と輝く紺碧の瞳が僕を捉えて離さない。首筋から汗が流れ落ちるのを感じる。
もはや僕たちの間に言葉のやり取りはいらなかった。目と目を合わせながらお互いの唇はかつてないほど近づいていく。
そして――
「あ、あの! お風呂入ってきます!」
厘は唐突に立ち上がると、自分のカバンを持ってそのまま浴室の向こうへと消えてしまった。
しばらくすると水が流れる音が聞こえてきた。
彼女が出てくるまでの間、手持ち無沙汰になった僕はベッドのサイドテーブルに置かれたリモコンを操作して、テレビを点けてみたが、チャンネルを変えてもそういう内容のものばかりで、むしろ有り余る衝動を膨張させるばかりだった。
それから数分も経たないうちに斎藤厘が浴室から出てきた。
カバンを両腕で抱えて、どこか俯きがちでこちらまで戻ってくる。
「どうしたの?」
「先輩、あの……来ちゃいました。だから、その……今日はできないです」
ごめんなさい、と寂しそうに呟いて頭を下げる彼女。
「いいよ、そんなの君が謝ることじゃない」
「でも、口でなら――」
「いや、今日はやめておこう。こういうのって無理に早るものじゃないだろう」
僕はベッドから立ち上がると、ソファに置いた自分のカバンを取った。
「帰ろう。もう暗いし家まで送るよ」
「はい……」
僕たちは30分も経たず部屋を後にした。
下りのエレベーターは上りと同じくらい鈍足で、僕たちはまた長い間箱の中に閉じ込められた。
けれど今度は手を繋がず、僕の背中に額を押し付けてすすり泣く彼女の声が聞こえるだけだった。
「もう……時間ないのに」
声を震わせて放ったその言葉が、妙に僕の心を捉えて離さなかった。