<第5章> Before Dawn. 03
「なあ、斎藤。お前の好きな物ってなんだ?」
いつもの帰り道、並んで帰る僕と斎藤厘。普段はあいつから話題を振ってくるのだけど、今日は僕の方から質問してみることにした。それは僕があいつのことをあまりにも知らないということに気がついたからだ。
価値観、思想、ポリシー、その他諸々の言葉で形容される、おそらく交際するにあたって一通り理解しなければならないことを、僕たちはすっとばして世界とか能力とか、そんな話ばかりしてきた。
だから改めて、初めましての気持ちで彼女のことを知ろうと思った。
結局僕は世界を救おうとしているのに、その対極に位置する彼女の心は何一つ分かっていなかったのだから。
「おや、珍しいですね。先輩が私に興味を持ってくれるなんて」
「まぁな。たまには高校生らしい話もいいだろう」
そう応えると「ふふふっ」と笑う彼女。
「私の好きなものは、何を差し置いても先輩ですよ。そりゃもうお金で買えちゃうくらい」
お金で買えるのか。お前にとって僕への愛は換金できるものなのか。
「ちなみに幾らくらい?」
「消費税込みで3240円ってところでしょうか、もうすぐ10%に上がりますから3300円ですね」
思っていた以上にずいぶん安かった。
「いえいえ、高校生にとって3000円ってなかなか大金だと思いますよ。ほら、うちの学校ってアルバイト禁止ですし」
「そのくせ学校主催のボランティアには強制参加だよな」
「ええ、確かに」
あいつがまたクスッと笑う。そうだこういう日常を僕は望んでいた。
世界だとか能力だとか、一介の高校生には背負いきれないものじゃなくて、もっとささやかで、儚い一瞬のきらめきをずっと守っていける。そう言ったものを僕は望んでいたんだ。
幸せ……なのか。これが幸せ。頭のてっぺんから足の指先までが発熱している。
まるで本当に心が燃えているみたいだ。
「先輩は……」
そう言って斎藤厘は歩みを止め、僕の制服の袖を強く摘んだ。
「え?」
「先輩は、私にいくら払えますか?」
やはり、そう来るよな。
「そうだな……」
こうしている間にも、斎藤厘は不安そうな目で僕を見てくる。改めて考えてみると、こういう時ってどう答えれば正解なんだ? 天文学的な数字を出せば、ただのバカップルの会話に成り下がってしまう。それもいいけれど。別にそれでも構わないけれど、年上の僕としてそれは些か威厳がなくなってしまう気がする。
もちろん、低い額をいうのは論外だ。積めるだけ高く積んでおいて損はないだろう、ただし常識の範囲内で。
「じゃあ40年、ローンを組むっていうのはどうだろう。それで毎年僕が得るお金の半分を払う。もちろん僕が将来どれくらい稼ぐ人になるのかは分からないけれど、1000万は硬いんじゃないかな」
そう言葉にした瞬間、自分がどれだけ恥ずかしいことを平気で口にしているのかを理解した。僕は一体何を言っているんだ。初めから分かっていたじゃないか。どう答えたところで、この手の話は後手が必ず負ける。それは先手がより低いラインを設定すればするほど、後手の考える範囲が広がるからだ。そして何より模範解答がない。結局僕は、一人でチキンレースをやっていたってところなんだろう。負けたよ。まったく、僕は最初から彼女の手のひらで踊っていたんだ。
それを知っていて、隣の斎藤厘は僕から顔を反らして肩を微かに揺らすように震えている。
「ふっ! 先輩、自分が何言っているのか、分かっているんですか」
「分かっているつもりだよ」
本当情けないくらいににね。
「40年って……ふふっ、それプロポーズのつもりですか?」
「…………」
「ちょっと何か言ってくださいよ! こっちが恥ずかしいじゃないですか」
「僕も十分恥ずかしいよ。でも――」
思い出すのは、あの光景。
僕の腕の中で眠るボロボロになった少女。まだ慎ましい胸のすぐ下に刺さるナイフはたった今僕が穿ったものだ。だんだんと冷たくなっていく体温。それでも懸命に息を吸おうと膨張する体。何より彼女の目は安らかだった。眠りにつくように静かに睫毛を濡らしながら、瞼は落ちていく。穏やかな唇が徐々に紫色に染まっていく。
僕が愛したもの全てが、音もなく壊れていくその惨状を、ただ見ているしかなかった。
世界のために彼女を殺す。それは英雄的行為でもなんでもない。
ただの生贄だ。
代わりなんていない唯一無二の斎藤厘を殺した世界で、それでも僕は生きていく。
その苦しみを避けるために、僕はここにやってきた。
あの小さな少女を犠牲にしてやってきた。
だから、
「――世界が終わるまでは、君のそばに居れたらいいなって。そう思っている」
だから僕は世界の呪縛から君を救ってみせるよ、厘。
「はい……末長く」
自然と溢れた涙をそのままに、斎藤厘はとびきりの笑顔でそう答えた。
これでいい。
きっと、これで未来は変わる。僕はそう信じて彼女の手を握った。
暖かい。その当たり前が奇跡のようで、嬉しかった。
そのまま彼女の背中に腕を持っていき、抱きしめる。
僕たちがたどり着ける最も近い距離まで迫りたかった。
今はまだ、ここまで……。
「ねえ、先輩?」
「なに?」
「こういう時は――」
「だいすきって、言うんでしょ?」
「はぃ……」
まさか、僕が本当に言うとは思っていなかったのだろう。
彼女は少し拍子抜けた具合に返事をした。
「大丈夫、大丈夫だから」
まるで自分に言い聞かせるように、僕は何度もそう呟いた。
その度に彼女は「うん。うん」と応え、背中をポンポンと優しく叩く。
いつまでもこんな時間が続いてくれればと、僕は思った。




