<第4章> Da capo. 03
目の前の現実を理解するまで、僕はしばし放心状態でその場に立ち尽くしていた。
そして僕の胸にも激痛が走って体が力む。
再び体の所有権が僕に移ったのか――。
零さんの意識が深層段階まで沈み、代わりに僕の意識が表層へ浮上する。
足の感覚がなく、ふらふらとその場に倒れ込んだ。
「あんた……何がしたいんだ?」
指先から徐々に寒気を感じ始めた。
それでもまだ唇は動く。
『2年前の話をしよう。2年前、お前は妹を殺したトラウマで感情を失ったと思っているようだが、実はそうではない。お前は感情を失ったんじゃない、使い切ったんだよ』
「使い切った?」
『能力っていうのはな、タダじゃない。感情がエネルギーなんだ。私の場合は、潜り込んだ相手の感情を食って誰かの心に潜り込む。そうやって潜水を続ける。だから《深層潜水》。対して妹は、自身の感情を消費して創造し、エネルギーを得るために破壊を続ける。だから、《二項対立》なんだよ。そんで、お前は――』
「僕は……」
『お前の能力は自身の感情を使うことであらゆるものを修正する。街一つ修正するくらいのエネルギー量だ。そんなものを放出したら空っぽになるのも同然だろう』
いきなりそんなことを言われても、僕は自分に能力があるなんて自覚、これっぽっちもない。
『じゃあ、風鈴の音に心当たりはないか?』
風鈴の音……。
僕はかつて、二度それを聞いたことがある。
一度目は、2年前のあの日。厘の心臓が止まった時。
そして、もう一度は。
「――商店街で、霖が轢かれそうになったとき」
一昨日、商店街で霖が信号無視をして横断歩道を渡りかけたとき、僕の脳裏には嫌な光景が浮かんだ。そして風鈴の音がりん、となって、彼女を抱きかかえて後ろに尻餅をついたのだが、まさか……。
『お前が見た光景はおそらく間違いない。霖はあのとき車のボンネットに体を打ち付けられて死んでいる。それをお前の修正能力で時間を戻したんだ。ほんの少し、あいつの手を掴む一瞬だけ、無意識に』
「あんた、どこまで見ていたんだよ」
『言わずもがな。私を誰だと思っている』
「…………」
『さて、そろそろ体の芯から寒くなってきたんじゃないのか?』
「…………」
『そうか、唇を動かす気力すら残っていないか……』
もはや彼女の言葉も僕はよく聞こえない。
瞼はほとんど開かないし、手足の感覚はとうになくなっている。
それでも懸命に動いている心臓も徐々に活力がなくなってきた。
『なあ、お前本当に死んでいいのか? 人は死の直前に走馬灯を見るらしい。さて、お前は何を見る? その景色には、誰が写っている?』
そんなの言わずもがなじゃないか……。
『お前の能力は世界の修正だ。ならば、やることは一つじゃないのか?』
「――――!」
もはや自分が何て言っているのかすら聞こえない。
奥歯を噛み締めて、閉じかけていた瞼をこじ開ける。
光が見える。
それが何の光かわからない。けれど、徐々にそれは僕の体を包んでいく。
これが、死ぬということなのか?
最後の力を振り絞って、僕は叫ぶ。
カラカラの喉が震えて、もはや音にならない言葉が口から出る。
けれどそれで十分だった。
その一言で、僕の体に活力が戻ってくる。
手足が動く。いつの間にか傷口は塞がり元どおりになっていた。
『妹を頼んだ』
零さんの声が聞こえる。
いつもは男勝りな性格な彼女が、初めて僕に見せたその弱々しい声を僕は聞き届ける。
任せてくれ、だなんて言えない。
けれど、僕は――。
「僕は、厘を救いにいく」
その瞬間、僕は光の中に包まれて、意識が途切れたのだった。
…………。
…………。
…………。
声が聞こえる。
「先輩、おーい、先輩」
鈴を転がしたような声。先輩という呼称が懐かしい。
そっか、僕は彼女がまだいる世界に戻ってきたのか。
「先輩、寝てるってことは何をしてもいいってことですよね? おーい……。本当に好きにしちゃいますからね?」
右の頰に柔らかいものが当たる。しっとりとした彼女の柔らかな手のひら。久しぶりの温もりだった
「3……2……1……」
パンっ! という破裂音とともに、僕は左頬に衝撃を感じた。
後からズキズキと痛みに襲われ、一瞬で目が覚める。
「……え?」
目の前には豪快にスマッシュを決めて、したり顔の斎藤厘がいる。
「本当は、起きていたんでしょ?」
そうだとしても起こし方というものがあるだろう。
「先輩がいけないんですよ、私がちょっと目を離した隙に寝ているんですから、久しぶりのデートだっていうのに」
まったくもう、と頰を膨らましてこちらを睨んでくる。
間違いない、彼女だ。
「本物だ……」
「はい?」
「本物の斎藤厘だ」
「はい斎藤厘です、ていうか私の偽物ってなんですか……ええ!? ちょっと、どうしたんですか?」
「……会いたかった」
机ひとつ分。
僕たちを隔てるその障壁を、僕は体を前のめりにさせて乗り越えた。
彼女の首元に自分の両腕を持っていき、肩に顎をのせる。全身で彼女を感じる。
「……なんか今日の先輩変です。普段はそんなこと絶対に言わないのに」
「うん、知ってる。ごめん、すぐ治るから……今はじっとして」
はいはい。と優しく僕の背中を叩く彼女。
心の奥の凍えたところがゆっくりと溶けていく気がする。
寒い冬の日に、湯船に浸かるような、そんな感覚。
でも、いつまでもこうしてはいられない。
僕がここに戻ってきたのは、二年前のあの日のやり直しのためなのだから――。
「うん。ありがとう。もう大丈夫」
そう言って、僕は再び机ひとつ分、彼女と離れていく。
そのわずか30cmの距離が愛おしく、憎らしい。
一体どうしちゃったんだろうな、僕。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを見てくる彼女。
「うん。大丈夫」
なるべく笑顔で答えてみるけれど、大丈夫なわけがない。
ここに戻ってきたということはぼくは再びあの日を迎えるということで、それをなんとか回避しないとまたあの地獄に逆戻りしてしまう。
もう、彼女を殺したくはない。
ーー僕は深呼吸をひとつすると、制服のズボンを強く握りしめた。




