<第1章> Boy meets Girl (After 2 years' absence) 02
市街地を南北に貫く大通りの西側。
そこは市内有数の一等地として多くの富裕層が住まいを構える住宅街だった。
そして、その真ん中に建つ邸宅こそ斎藤家である。
屋根の上に黒々とした瓦が整然と並ぶ古き良き日本家屋。
周りは石垣とその上に編まれた竹藪で囲まれている。
質素な門構えの横に『斎藤』と表札が掲げられていた。
彼女が吸い込まれるようにその中に入っていくシーンを、僕は何度も見てきた。
そこまでは二年前まで見慣れた光景。
けれど、ここからは……
零さんはハンドルを微調整して方向を定めると、いったん車を停止させた。
シフトレバーを『B』に入れて、後方を確認する。
「見てろよ」
アクセルペダルをベタ踏みして、一気にハンドルを切った。
あまりの遠心力に生命の危機を感じたのか、僕は咄嗟に天井近くにあるつり革のようなグリップを掴んでいた。
それでもシートベルトに体が打ち付けられる。
彼女は針の穴を通すように車一台分しか通れないような門を過ぎると、すぐに切り返し車を中庭のすぐ手前で止めた。
「はい、到着!」
満足げな顔で彼女はエンジンを切った。
今すぐ免許返納しろ。
シートベルトを外して外に降りてみると、後輪は中庭にある池の淵に接していた。
マジでギリギリじゃねえか。
……っ!
胸と首を強く打ち付けられたような感じがする。
別に痛みには慣れているけれど、不意打ちは流石に体がこたえる。
そういうのに疎いだけで、不死身ではないのだから――。
「あっ!」
零さんは、後頭部を掻きながら声を出した。
「どうしたんですか?」
「お前の荷物、トランクの中じゃん。どうする、池に落とす?」
「なんでそれで許されると思っているんですか」
免許を持っていたらと初めて後悔した瞬間だった。
ていうかちょっと池の淵、崩れ始めている気がするのだが。
ーーその時だった。
「おねーちゃん遅すぎ!」
僕は突然聞こえた、鈴を転がしたような声の主に目を向けた。
居間の窓を開けて、縁側に勢いよく出てきた少女を見て言葉を失う。
初夏の風に踊る黒髪、ビー玉のような青い瞳。
白い肌の上に必定のごとく配置された目、鼻、口。
どんな巨匠の人物画も到底及ばない洗練されたその顔立ち――。
「斎藤……厘?」
「あれ? おねーちゃん、この人だーれ?」
縁側に立つ少女は、久々に会う親戚に向けるような少し距離のある目線を僕に向けてくる。
「覚えていないのか」
「むむ?」
首をかしげる彼女。
僕は助けを求めるように、零さんの方に振り向いた。
「零さんこれは――」
「ちょっと待って。池が決壊しそうだから」
必死で池周りの石垣を直していた。
あれだけビタビタに止められるんだったら、もう普通に駐車しろよ。
「ふぅ……とりあえず、こんなもんか。あとで庭師を寄こそう」
「あんた仕事した感出していますけれど、全部自業自得ですからね」
なんで、僕まで池の中に入っているんだよ。
膝のすぐ横を鯉が泳いでいく。
地元に帰ってきてまで一体何をやっているんだ、僕は。
「まぁ、お前のバッグは後で取るとして、まずは上がれ。話はそれからだ」
そう言うと、彼女は玄関から、家の中に入って行った。
どれだけ自分勝手なんだよ、この人は。
兎にも角にも、こうして僕は初めて斎藤家の敷居を跨いだのだった。
意外とも言うべきか当然とも言うべきか、外見とは裏腹に家の中は現代風にリノベーションが施されていた。
フローリングが丁寧に敷かれている。玄関から入って突き当たりの一番奥の部屋が先ほど斎藤厘が飛び出してきた縁側に続く居間で、畳敷きの和室だった。まさに和洋折衷。
真ん中にある長方形の机の長辺に、僕と斎藤厘が座る。
こう、30センチくらいの距離で改めて彼女を見ると、ほんと斎藤厘そのもの。まるで生き写しみたいな――。
『みたいな。じゃなくて、あいつは正真正銘、妹の生き写しなんだよ』
『勝手に僕の心の中に入ってこないでください』
零さんは現在、駄々をこねた彼女をなだめるため台所で昼食を作っている。
こうして、顔を合わせないで喋ることができるって言うのは確かに便利なのだけれど、どうも僕の心の中を全て見られている気がしてあまり好きではない。
実際彼女にはすべてお見通しなんだけど……。
しかもメールのような着信拒否機能がない。一方的に侵入されて、彼女の都合で消えて行く。
潜られる側の人間は本当に疲れる。
『生き写しってどういうことですか?』
『どういうことって、そういうことだよ』
『あいつが、自身の生き写しを作ったってことですか?』
『まぁ、正確には分霊っていうのが良いのかもな。自分の命を分けたんだろう』
命を分けたって、そんなこと可能なのか……体中の力が自然と抜けていく。
いつの間にか僕は、畳に手をついて、体を支えていた。
そんなことができるなら、どうして……。
「おにーちゃん、大丈夫? 麦茶飲む?」
彼女が2ℓのペットボトルを両手で大事に抱えて僕の顔をのぞいてくる。
「ちょっと黙って」
「うえぇ……おねーちゃん! この人怖いよぉ……」
「おいおい、そいつ泣いたらなかなか泣き止まねえんだからな」
「いや、この子メンタル弱すぎませんか?」
斎藤厘そっくりの成熟し切っていない小さな体躯にこの性格。
まず16歳には見られないだろう。
せいぜい中2か、はたまた小学生。
「まぁ、体は完全コピーなんだけどな、精神的な部分は社会環境で磨かれる面が強いから、あまり成長していないんだよ。ほら、飯できたぞ」
皿を片手に零さんが戻ってきた。焼きそばの上に目玉焼きが乗っている。
「やったぁー」
目の前のご馳走に目を輝かせた彼女は、フォークを握ると勢いよくかき込んでいく。
「ほらな、単純だろ? 精神年齢は小学校低学年程度ってところかな。これでもだいぶマシにはなった方だ。最初の方は飯の食い方から服の着替え方まで、何も知らなかったんだから」
たしかに、五本の指でフォークの柄をがっちりと握る彼女の姿と、机の上にポロポロと溢れる状況を見るととても女子高校生の所作とは思えない。
「そもそも零さんは、彼女をどこで見つけたんですか?」
零さんは、くくくっと笑って、人差し指を唇に当て言った。
「禁則事項です」
「きんそくじこうです」と園児斎藤が零さんと同じポーズを取り、後に続く。
うん、絶対意味わかっていないよね。
「つまり、彼女をここで保護していると?」
「保護っていうか監禁だな」
そんな恐ろしい言葉を言いながら、彼女は園児斎藤の口元をウェットティッシュで拭いている。
側から見ると子育てにしか見えないけれど。
「誰がバツイチだこら!」
言ってない。
「こいつに妹同様の能力があるのかどうか今の段階ではわからないからな。保護観察対象ってところだ。そこでお前に頼みがある」
その時、僕は直感的にいやな予感がした。
「お断りします」
なんとなく彼女のペースでここに連れてこられて、
目の前には斎藤厘とそっくりな欠落した少女がいて、
零さんが僕に何かをお願いする。
間違いなく、面倒臭い案件だ。
しかし零さんは、そんなことなど御構い無しといった感じで話を進めていく。
「実は、しばらくこの街から離れなくてはならなくなって――」
「何も聞いていませんから」
耳を塞ぎ、そっぽを向いて知らないふりする。
……あっ。
すぐに胸の奥が熱くなって、自分の失態に気づく。僕は相手を見誤っていた。
かつて『人の心を食うバケモノ』と呼ばれていた彼女の能力を、
強欲なまでに自分の都合を通す彼女の性格を、
ーー僕はすっかり忘れていたのだ。
『これなら、無視できないだろう?』
僕の今日何度目かのため息が、部屋中に響いた。
「簡単な話だ。この家であいつの面倒を見てくれればいい」
「言うのは簡単ですよ」
「やるのも簡単だろう?」
「学校あるんですけど」
「私立文系だろ? あんなの四年分の学費払っていれば、卒業させてくれるって聞いたぜ」
さすが地方。私文蔑視が甚だしいな。
なんとなく、お互いそれからしばらく口を開かなかった。
空いた皿の縁を園児斎藤がスプーンでガチャガチャと鳴らす音だけが空間にこだまする。
「食べ終わったなら風呂に入ってこい。お前、昨日も入っていないんだからな」
「あらほらさっさー」
彼女は右手を掲げて敬礼の真似をすると、駆け足で今を去って行った。
全く元気がいい。
「彼女を外してナニを始めるんですか?」
「そんなの恋バナしかないだろ」
零さんはひとり、ふっと息を吐くように笑った。
「どうやら、お前はまだ自分が普通の人間だって思っているようだな」
「以前、反対の言葉を言われたことがあります」
――先輩は、自分が特別な存在だなんて思っているんですか、と。
「それで、なんて答えたんだ?」
「答えられませんでした」
「どうして」
「どうしてって――」
そこで、行き詰まった。
自分が特別な存在だなんて思ったことは一度もない。
しかし、その一方で普通なのかと言われると、それもまた承認し難いものだった。
死に損ないで、
出来損ないで、
感情が欠落した僕は、どう考えても普通ではない。
では一体、僕は何者なんだ。
「違うね、全然違う。的外れもいいところだ。何が、感情が欠落しているだ。お前は感情が欠落しているんじゃない、感情を表に出そうとしていないんだ。怖いんだろう? 笑うのが、泣くのが、怒るのが、悲しむのが。そんなことをしている自分が、怖くて、怖くて仕方がないのだろう? 二年前に彼女を殺した自分が何不自由なく喜怒哀楽を表現できちゃうことに戦慄しているんだろう? それでもまだ人間している自分が気持ち悪いんだろう?」
…………。
「だから、お前は自分に暗示をかけた。いや呪いだな、こりゃ」
……あんたに、あんたに何がわかるんだ。
「私は全部知っている。人の心を食うバケモノなんだぜ? いいか、お前のその考えは間違っている。大いに間違っている。甚だ勘違いで、全くの見当違いだ」
違う……。
「自己否定っていうのは、楽だろう。誰にも責められることがない結界を張っているんだから。でもそれは可能性を否定するのと同じなんだぜ?」
違う……。
「ほら、そうやってすぐ否定する。心を閉じるな! 世界を閉ざすな! ちゃんとしろ! 自分で自分の可能性を潰すほど愚かなことはないだろ」
違う。
違う、違う、違う!
ちくしょう、黙って聞いていれば好き勝手言いやがって……。
「いい加減に――」
その時、再び家の中にドタドタと足音が響いた。
バスタオル一枚を胸元に巻いて園児斎藤が帰ってきたのだ。
「おねーちゃん、髪乾かして!」
いくら性格が小学生低学年レベルとはいえ、体はそれなりに成長している。
スレンダーではないけれど、腰回りは丸く、豊かではないけれど、それなりに胸元は膨らんでいる。
バスタオルのせいで余計に強調されたシルエットから、僕は脊髄反射の速さで目をそらした。
なんだか、すごく人間としての品格を問われているような気がしたのだ。
「ロリペド野郎!」
「ちゃんと目をそらしましたけど」
「それでも見たことは見ただろう」
「おう……」
「ねえ、おねえちゃん、髪――」
園児斎藤が不安そうな目で彼女を見つめる。
「明日から、あいつがお前の面倒見るから」
「まだ引き受けてないですよ」
それを聞いた園児斎藤は、唇を尖らせ、両手を両頬に添えるとこう叫んだ。
「アッチョンプリケー」
……って、これは完全にアウトだろ。
「面白いだろ。小さい時のあいつもそれ好きだったんだよ」
そう言うと零さんは腰を上げた。自ずと僕は彼女を見上げるような形になる。
「認めたくないならそれでいい。それでもいつか決めなきゃいけない時がくる。
本当に感情を失うのか、それとも押し殺した感情が爆発するのか。少なくとも今みたいな中途半端には生きられない。世界はそんなに甘くないぞ」
「その時は、僕の死ぬ時です」
「あっそ……」
零さんは、園児斎藤の頭をポンポンと軽く叩くと、そのまま横を通り過ぎていった。
「じゃあ、頼んだよ」
『これはお前のためでもあるんだから』
部屋を出る直前に零さんが言った言葉が胸の奥を抉っていく。
「言ってくれんな、ホント」
僕の独り言に園児斎藤は、ん? と首をかしげている。
「おいで。髪を乾かしてあげよう」
そう言うと、嬉々とした表情でやってきた。
胡座を組んでいた足の中に腰を下ろすと胸元に巻いていたバスタオルと彼女は自ら剥ぎ取り、僕に手渡してくる。
「はい」
背中越しだし、セーフだよな。
なるべく見ないように、彼女の髪を拭く。バスタオルの中から時々笑い声が聞こえてくる。
「ところで、名前なんていうの?」
「名前?」
「名前、ないの?」
うん。と目の前の園児斎藤は頷く。
そうか、零さん自身まだこの子のことをうまく飲み込めていなんだ。
自分の妹と瓜二つの彼女は果たして斎藤厘と呼べばいいのか、それとも別人として扱えばいいのか……。
「じゃあ、僕が付けるよ」
「ホント?」
「うん」
彼女は、ばっとこちらに反転した。
首元も、胸も、腰も、その先も、彼女の全てが僕の視界の中に収まる。
ほくろの位置まで、全部あいつと同じだった。
両足の間にいる彼女を避けるように立ち上がり、僕は電話台に落ちてあったメモ帳を取り出すと、ペンで一文字を書いた。
ずっと前から決めていた。いつか付けたかった名前。
「りん……音は同じだけど、字はこれ」
僕は、彼女にその紙を掲げた。
「私の名前はさいとうりん?」
「そう、さいとうりん」
「うん、さいとうりん! さいとうりん!」
初めてもらった宝物を彼女は胸元に抱え、飛び跳ねながら何度も何度も叫んだ。
『斎藤霖』
こうして僕と彼女の不思議な共同生活が始まったのだ――。