<第4章> Da capo. 02
死を怖いと思ったことは一度もない。
厘が死んでからのこの世界はあまりにも無味無臭が過ぎて、自分の所在地すらもあやふやな感覚だった。
心が何度壊れても僕は死に切れなかった。
強いて言うなら「念の為」。
明日は何かあるかもしれない。そう思ってこの2年間、生に執着してきた。
そして出会ったーー。
彼女はまるで鳥籠の中の小鳥のように、外の世界というものを知らなかった。
彼女がどんどん大人になっていくのを見ていると、僕も少しずつこの世界のことが好きになっていった気がする。
けれど、それと同時に霖と厘が僕の中で重なっていく。
それはまるで厘との思い出が上書きされていくみたいで、僕にとってはとても耐えきれるものではなかった。
だから、僕は彼女と距離を置こうとした。僕はあくまで保護者の代理だ。
けれど霖にとって、僕はただの保護者の代理ではなくなっていた。あの夜が来るまで僕はそれに気がつかなかった。
否、気がついていても、知らないふりをしていたのだ。問題を先送りにした結果、このザマだ……。
いいさ、そのツケは堂々と払おう。けれど、霖が厘と同じ能力を持っているとわかってしまった以上、彼女をあのまま放っておくわけにはいかない。
『枷は外れた』
零さんが言った言葉が僕の心に反響する。
僕の背筋を凍らせるにはそれで十分だった。
もしも、霖が暴走したら、彼女も厘と同じ道を辿ったら、
――僕は間違いなく壊れる。
それだけは分かっていた。足は思っていたよりも軽い。
暗い森の中、方角も分からず僕は声を荒げながら走り続けた。
「霖! 霖! どこにいるんだ、返事してくれ!」
四方八方に僕の声がこだまする。けれど一向に彼女の姿は見えない。
初夏の森はジメッとしていて、足を止めると毛穴という毛穴から汗が吹き出してきた。Tシャツはとうに水没していて背中にべったりと張り付いている。きっと下着も同じような状況だろう。それでも、僕は足を動かした。
たったひとつ、これだけは失いたくない――その思いが今の僕の唯一の燃料だ。
『伏せろ!』
零さんの声が突然響き、とっさに身を伏せた。
閃光と轟音が地面を揺らす。
まさか!
揺れが収まってからあたりを見ると、世界は一変していた。
さっきまで森にいたはずなのに、僕が今いる場所は植物が生きていくには適さないほど、荒廃した土地だった。
『暴走しやがった』
「そんな、たった一瞬で森を消すだなんて……」
『まるで2年前の時みたいだな』
どうして、僕が口に出すのを憚ったことを、彼女は平然と口にするんだ。
奥歯がギシっと音を立てる。
『あー、もうこの世界はダメだな。誰かあいつを殺さないと』
なんでそんな呑気に宣えるんだよ。
「誰かって、誰ですか?」
当たり前のことを聞く。
『お前しかいないだろ』
当たり前のことが返ってくる。
その言葉がプツンと音を立てて、頭の中の何かを切った。
「あんたはいつもそうだ。人の心に勝手に入り込んでは、いつも高みの見物だ。たまには自分でなんとかしてみろよ!」
口が勝手に動くというものを初めて経験した。
『ほーう、言うようになったじゃないか。じゃあ、私がやってやるよ』
そう言うと、零さんはすーっと僕の心から消えていった。
………っ!
いや違う。この感覚は――。
手足の感覚が、僕から離れていっていることに気がついた時には既に遅かった。
「――お前の体でな」
僕が言う。いや、それは僕の体であって、僕の心ではない。
人の深層心理に潜り込むことができる彼女の能力、《深層潜水》の真の使い方。
彼女が『心を食う化け物』と言われていた起源を僕は忘れていた。
彼女は人の深層意識において、体の命令系統を乗っ取ることができる。
それは一種のマインドコントロールのようであり、まるでパソコンがハッキングされるのに似ている。
持ち主のアクセス権は破棄され、体は僕の言うことを聞かない。
『やめろ! やめてくれ!』
いつの間にか深層段階まで押しつぶされた僕の心が叫ぶ。
「今さら遅い。こうなっちまった以上、あいつは世界の敵だ。ならこうするしかないんだよ」
僕の唇が彼女の意思によって動かされる。
足はまるで自分のものとは思えない速さで疾走する。
意識の違いでここまで運動能力は変わるものなのか。
「なぁ、知ってるか?」
零さんによって動かされた僕の唇が開く。
「2年前、この世界を再生したのは妹ではないんだぜ?」
は?
『あいつの能力は破壊と創造でしょ? だったら』
「だから「破壊と創造」なんだよ。創造と再生は別物だろ」
確かに、創造は0から1を生み出すのに対し、再生は元々あったものを元どおりに直すものだ。
『じゃあ、誰が……』
いや、そんなことは聞かなくても分かっていた。
2年前のあの空間に生き残っていたのは、二人しかいない。
斎藤厘と、もう一人は……。
「つーわけで、ちょっと痛むから歯食いしばれよ」
零さんがそう言った時、目の前に霖の姿が見えた。
頭から足まで土で汚れた彼女は、僕の姿を見るとニヤリと笑って腕を突き出し――
「さよなら、おにーちゃん」
――そのまま僕の胸を穿っていく。
「うっ……」
口から血が流れる。けれど、痛みは感じない。
「クッソ、痛えじゃねえか、このガキ!」
僕の口調とは思えない言葉が僕の口から出て、指先は霖の首筋を貫いた。
『……え?』
まるでスローモーションのようだった。
首筋にぽっかりと空いた穴から、彼女の鮮血が勢いよく飛び出る。
「お、にー、ちゃん?」
目を丸くして倒れこむ霖。まさか返り討ちに遭うなんて思ってもいなかったのだろう。
首筋からは止め処なく赤が流れていく。
指先は二、三度ピクピクと痙攣して
――そして動かなくなった。




