<第4章> Da capo. 01
きらい、きらい! だいっっっきらい!!
あれから、どれくらい経ったのだろう……。
湿った土の冷たさが、服を通しても伝わってくる。
月明かりもないこんな夜だから。
自分が目を開けているのか閉じているのかさえわからないほど暗い闇の中、僕はまたあの人の声を聞いたのだった。
『あーあーあー、ホント何やってんだか。お前はやることなすこと全部中途半端なんだよ』
そんなこと、言われなくても分かっている。
すぐ近くに生えていた植物の茎を掴み、引っこ抜く。
途端、もわんと土の香りが広がった。
『だいたいよ、お前はあいつに2年前のことを言って、どうしたかったわけ? 拒絶されたらされたで落ち込んで、赦されたら赦されたらで今度はお前が拒絶する。結局、あの話はお前にとってあいつから離れるためのダシに過ぎなかったんじゃないのか?』
「それは――」
零さんは、僕に申し開きをする余地を与えず畳み掛けてくる。
『お前はいつだってそうだよ。結局自分が一番可愛いんだろ。不幸の中に身を置いている自分に酔いしれて、不幸を甘んじている自分のことを誰かに可哀想だと思って欲しいんだろう』
「違う!」
暗闇の中に僕の声がこだまする。
『違う? おいおい、お前のここ数日の行動がすべて物語っているだろう。あいつに名前つけて、甲斐甲斐しく世話しているって思ったら、据え膳食わないんだから』
「零さんが僕に頼んだんでしょう。あの子の面倒みてくれって」
『私はこの家で面倒を見ておいてくれって言ったんだよ』
「同じでしょう」
『全然違うよ。それはお前も分かっただろう? あいつに外の世界を見せてどうなったのか』
そうだ。霖は外の世界を知って、成長を遂げた。
今や普通の少女と同じくらいの知能、精神年齢を備えていると言ってもいいだろう。
『その結果、あいつにも妹と同じ兆候が見え始めた』
「――――」
『お前も気がついているはずだろ。あいつの背中から出てくる黒い靄のことを』
「あれはいったい……。一昨日まではあんなのなかったのに」
あれが見え始めたのは昨日からだ。
霖の気分が落ち込んだりした時、その靄は背中からすーっと立ち昇っていく。
『あれは、いわばストレスの具現だな』
「ストレスの具現?」
『だから、外には出したくなかったんだよ』
零さんの恨み節が胸の奥で響く。
『お前も気がついただろ? 妹の生き写しってことは、そういうことだって』
自然と唇が動く。
「成長することで、能力が発現する」
霖に《二項対立》の力が芽生えたかもしれない。
そのことは僕も気がついていた。
あの能力は爆弾と同じだ。持ち主の些細な心の揺らぎで、この世界を壊しかねない。
それなのに僕は、それを看過していたのだ。
――霖が厘になっていくことが嬉しかった。
あいつは、もう生き返らない。
そんなことは分かっている。
分かっているけれど、もしも2年前のやり直しができたら……。
心奥にひっそりと眠っていた後悔が、僕にそうさせたのだ。
「じゃあ、今市内を覆っているあのドームは」
『ああ。おそらく霖がやったんだろう。それも無意識に』
「つまり、彼女は自分の力が制御できていない?」
『というよりも、制御する必要がなかったんだよ。安定していたから、本人も気がついていなかったんだろう。いつの間にか自分が神に匹敵する力を備えていたことを』
…………。
…………。
………っ!
じゃあ、今の霖が2年前のあいつのように、暴走したら……。
口から出かけた言葉を寸前で飲み込む。
もちろんそんなもの、零さんの能力には通用しない。
彼女は無情にも僕に現実を突きつけた。
『枷は外れた』
――霖――
「ぅあぁああ……うぁああ……」
すすり泣きの声と草木を踏み潰す足音だけが響く。
自分がどこに向かっているのかわからない。それでも、もう私には居場所なんかない
――それだけは分かっていた。
どうしてあんなことをしたのか自分でも分からない。
気が付いた時には手のひらがじんわりと熱を帯びていて、少し遅れて自分がしたことに気がつく。
**は、私のことを見ようとはしなかった。
ただその場に座り込んで痛みを受け入れていた。
こんなはずじゃなかった――。
**と私のオリジナル、斎藤厘との間に何があったのか、大方見当はついていた。
だって私は彼女が自身の魂を切り分けて作った、いわばクローンなのだから。
彼女が魂に刻みつけた彼との思い出もすべて知っている。
目をつぶり、夢を見ると、その光景がフラッシュバックしてくる。
どれだけ厘が満たされていたのか。彼女のそばにいる彼もどれだけ安らいでいたのか。
直接的な愛情表現が苦手な人だったけれど、その行為一つ一つには真心がこもっていた。
私の目の前に映る**と、夢の中で投影される**は全くの別人と言ってよかった。
だから、私は察した。
あぁ、この人はきっと斎藤厘を殺したことに苛まれている。赦しを求めている。
そして同時に理解する。
――彼を赦す事が出来るのは、厘の生き写しである私しかいないと。
それなのに、それなのに、どうしてあんな……。
――お前、気持ち悪いよ。
彼の言葉が鼓膜からこびりついて離れない。
「あぁぁぁ……あぁぁぁ!」
それを消すように、髪の毛を掻きむしる。
どうして、どうして……。
サラサラだった黒髪は乱れる。
掻きむしれば掻きむしるほど、私の頭を撫でてくれた彼の手のひらの感触が蘇る。
どうして、どうして私じゃダメなの?
足に力が入らない。
地面が突然ぱかっと開いて、そのまま奈落の底にまで落ちていっている気がする。
「ねえ、何が違うの?」
雲に覆われた夜空に話しかける。
「りん、頑張ったんだよ。ちゃんと**のこと赦してあげたのに、なんでりんのことは……」
雲の隙間から月光が差し込む。黄金色の穏やかな光。
それまで際限なく流れていた涙はさらに水量を増して溢れてくる。
「これからどうしたらいいんだろう……」
そう呟くと力が抜けてその場に座り込んでしまった。
「……何あれ?」
微かに視界の隅に黄緑色の光を捉えた。
首をその方角に曲げるとそこには、何か無数の浮遊物が飛んでいた。
「綺麗……」
そっと手を伸ばす。
人差し指の先にその光源が飛来した。
「見て、綺麗だよ。これが蛍? ほら、おにーちゃん!」
後ろを振り返る。いつものように無邪気に、そして察した。
――もう、彼はいない。
小さな肩が力なく落ちる。
さっきまで泣き続けた疲れが一気に噴き出した。
まぶたが重い。
首を前に折るように彼女は眠りについた。
…………。
…………。
…………。
どれくらい眠っていただろう。霖は首を起こして目を開ける。
彼女が見る景色は、黒く染まっていた。
さっきまで見ていたあの幻想的な風景も、モノクロの世界に一変している。
「そうだ。私、おにーちゃんに捨てられたんだった……」
人差し指の先がくすぐったい。何かが動いている。
今の彼女には、それが求めていた光だということすらわからない。
霖にとってそれは、ただ鬱陶しいものに変わっていた。
だから……。
「もう――こんな世界いらないや」
最後の光を親指と人差し指で潰しながら、彼女はそう呟いた。




