Insertion.
「先輩は、卒業後の進路って、もう決めました?」
「とりあえず進学かな。大学行って面倒なことは4年後に先延ばし。厘は?」
って、君はまだ1年生だよな。
「私は、美容師になりたくて、高校卒業したら東京の専門学校に行こうと思っています」
初耳だ。
厘が美容師に憧れていたなんて、知らなかった。
思えば彼女と付き合っていながら、僕が知っていることといえば、あの能力と姉がいることくらい。
「それで、ちょっとお願いがあるのですが……」
僕の横を歩く彼女は、右手と左手の指を交互に編み込んで僕を見上げる。
「…………」
その上目遣いは反則だ。
「先輩の髪、切らせてくれませんか?」
ニコッと歯を見せて笑い、右手の中指と人差し指で作ったピースサインをハサミの如くチョキチョキと動かす彼女。
「嫌だよ。そんな素人の腕前なんて、どんな髪型にされるか分かったもんじゃない」
「えー、そこをなんとか! こんなこと先輩にしか頼めないんですよ?」
「髪を切らせてくれるモノ好きは、他にもたくさんいるだろう」
彼女の話に乗らないように一歩先を歩く。
あいつの困ったと言う作り顔を見ると、断り辛くなることは今までの経験からわかっているから。
「じゃあ、いいんですね。私が先輩以外の男の子の髪の毛切っても」
「髪を切るだけだろ」
僕は好きにやってくれと言わんばかりに、片手をひらひらと振る。
「あーあ」という彼女の声が聞こえてから、クスクスっと笑い声が響く。
「なに?」
「先輩って何もわかってないですよね」
後ろを振り向くと、涙を浮かべながらまだクスクス笑う厘の姿があった。
なにがそんなにおかしいのだ?
「先輩、私他の男の子の髪の毛切るんですよ? 嫉妬しないんですか?」
「…………しない」
そんなことでいちいち気を揉んでいたら持たないだろう。
それに将来美容師になるんなら何人のお客さんの髪の毛を扱うわけで、その中には当然男もいるんだから――。
「まぁ、先輩の考えていることくらいは大体わかりますけれど。『俺はそんなことで嫉妬狂うほど小さい男じゃない』なんて思っているんでしょ?」
そういって唇の端を釣り上げる彼女。
あいつがこの笑い方をするときは基本的によからぬことを考えている。
「ちっちっち」と厘は僕の目の前で指を振った。
色々と思うこともあるが我慢……。
「先輩、普通髪を切るってなったらどこで切りますか?」
「美容室とか、床屋さん?」
「まあ、それが一般的ですよね。じゃあ、素人は? 例えばお父さんがお母さんに髪の毛切ってもらっている姿とか昔見ませんでした?」
素人が髪を切る場所……。
「あっ」
「やっと分かりましたか。先輩は私が他の男の子と浴室で二人きりになるのを平気でオッケーしているんですよ? まあ、もちろんそんなことにはならないとは思いますけど。私自身も心懸けますけれど。若い男女が親のいない家で二人きりですからね。しかも浴室」
「それこそ、君の問題だろう」
「『僕の彼女はそんなことしないって信じている』とでも?」
髪の毛から覗く本来青色の瞳は、夕焼けの色を取り込んでうっすらと紫がかっていた。
「…………」
「甘いなぁ、先輩は。甘々のあまちゃんですよ。私だって女の子なんですから……それなりにアブナイこともしたくなるんですよ」
ボソッと最後に呟いた言葉を僕は逃さなかった。
「僕に不満なの?」
思っても見ないセリフだった。まさか自分がこんなことを言うことになるとは……。
彼女も僕から目をそらさずじっと見つめる。
夕日を飲み込んで変色した彼女の紫瞳の中に浮かぶ僕は、あまりにも弱々しくて、そんな自分にひどく腹が立つ。
秋の匂いがする風が二人の間に通り過ぎ、思わず目を閉じてしまう。
「危険な芽は早めに摘み取れって言っているのですよ、はい」
再び目を開けたとき、彼女は両腕をこちらに広げていた。
その表情はいつも通りの柔和な笑顔に戻っている。
「人前なんだけど……」
「私は今欲しいって、言っています」
「いや。流石に――」
「神様は今欲しいって、言っています」
そうしてまた目を細めて笑う厘。
こう言うときに、そういう言葉を出すのはやはり反則だ。
左右に首を振って人がいないことを確認すると、僕は彼女の方に向かって一歩踏み出した。
僕を受け止めるように、彼女は僕の背中に腕を回し、ぎゅっと力を加える。
そして僕も……。
僕の右耳に囁くように彼女の声が聞こえる。
「いち……にい……さん……」
もうすぐでまた、僕は一人になる。
その温もりが名残惜しい僕は、彼女の背中に回した腕にそっと力を込める。
だが、そうやって彼女に近づけば近づくほど、彼女のすべてにはなれないということを思い知り、そしてまた少し腕に力を込める。
「よん……」
胸が暖かい。背中が暖かい。
それは、綿が詰まった学ランの温もりではない。
どんな有機物にも敵わないものが、今僕の体の中を燃やしている。
「よーん……」
「二回目だよ」
「……ふんっ!」
荒い鼻息とともに盛大に僕のローファーのつま先を踏んでくる厘。
彼女もほんの少しこの時間が名残惜しいと思っているのだろうか?
もしそうなら、この右足に受けた鈍痛も快く受け入れよう。
そう思っている自分を客観視して、改めて彼女へのご執心ぶりに自然と笑みがこぼれる。
「最後の掛け声は、先輩がしてくださいよ」
「……はいはい」
そうやって君は、残酷なところはいつもすべて僕に押し付けるんだね……。
まぁ、それでもいい。
君がいつまでも綺麗なものに囲まれて生きることができるならば、僕はいつだってその闇を被ってやる。
肺に息をいれる。そして唇を震わせる。
「……………………」




