<第3章> Confession. 05
――彼女に愛着を持ってはならない。
そんなこと、初めから分かっていたじゃないか。
あいつは厘の代わりだ。厘にそっくりなだけでそれではない。
彼女に愛着を持って、僕は何をしたかったのだろう……。
二年前の罪滅ぼしのつもりだったのか、それともただ自己満足の陶酔に浸っていたのか。
どちらにしろそれは僕の独りよがりで、結局霖を霖としては見ていなかった。
零さんが彼女に名前を付けなかったのも、この家にずっと閉じ込めていたのも、彼女が厘と重なるのが怖かったからだろう。
あの人は初めから知っていたんだ。
もしも少しでもあいつに気を許すと、彼女は厘を悠々と超える存在になることを。
それなのに、そうと知っておきながら、僕は開けた。
――パンドラの箱を、開けてしまった。
「はい。ええ、それじゃあお願いします」
通話終了を知らせる電子音が鳴り、僕は受話器を固定電話に置いた。
「何の話をしてたの?」
洗濯物を敷き詰めた居間の中央に正座する霖は、ダイニングの方に首を向けた。
「あぁ、塩江の宿を取っていたんだよ」
「宿? お泊まりするの?」
「うん。上りの終バスが6時半なんだよ。だからまぁ、せっかくの温泉街だし、一泊ぐらいなら……」
どうしても語尾が曖昧になってしまう。
昨日だっておとといだって一緒だったのに、どうしてもこう今の彼女と泊まりに行くと考えると、胸の奥に変な痞えが生まれる。
そんな僕とは対照的に、霖は一泊二日の小旅行に出かけることを知って喜んでいる。
屈託のない笑顔を僕に見せてくる。胸の奥がずきりと痛む。
「お泊まりなんて、初めてだよ」
だろうね。
「とりあえず、服の着替えは準備しておいて、東京からもってきた僕のボストンバッグにまとめて詰めるけどいいよね。それと明日は駅前のバスターミナルに10時半に行くから少し早く起きて――」
そこまでを一息で言い切ると、
「じゃあ、風呂入ってくる」
とだけ言って僕は居間を後にした。
「あ、おに――」
居間を出る直前、彼女が咄嗟に声を挙げたように聞こえたが、構わず風呂場へと向かった。
脱衣所に鍵を閉めると、洗面所に冷水を溜めて、顔を洗う。
少し冷静になりたかった。鼓動の高まりを抑えたかった。
「何なんだよ、一体……」
――ねえ、おにーちゃん……ママのこと思い出すのやめない?
なんで、そんな悲しい目で、そんなこと言うんだよ……。
――そんなに辛いならさ、無理して思い出そうとしないでいいよ。それに……。
それに、何なんだよ。チクショウ。
冷水を両手で掬うと、そのまま顔にかける。
顔面全体が無数の針で刺されたような痛みを感じた。
今回の小旅行は、決してバカンスではないんだ。
それなのに、そんな笑顔を振り撒かれたら、罪悪感が芽生えるじゃないか……。
頼むから――
――僕に優しくしないでくれ。
居間に帰ると、霖はテーブルの上に服を並べて、考え事をしていた。
「ねえねえ、こっちと、こっち。どっちがいいと思う?」
青と白のギンガムチェックのシャツと、淡いオレンジ色のポップなTシャツ。
「どちらでもいいと思うけど」
僕の返事にムッと頰を膨らませる彼女。
「じゃあ、おにーちゃんの好みはどっち?」
「強いて言うなら、右かな。霖にはそう言った爽やかな格好が似合うと思うけど」
「えー、わたし的にはこっちのTシャツも捨て難いんだけどなぁー」
じゃあ、聞くなよ。
「泊まるんだから、どっちも持って行けばいいんじゃない?」
「そっか!」とポンと手を打つ彼女。
「じゃあ、行きはこっちにして、帰りはこっちにしよ! はい。これと、あと下着の替え、バッグに入れておいて」
「はいはい。じゃあ僕はもう寝るよ。霖も早めに寝るんだよ」
肩にかけたタオルで髪を乾かしながら言う僕の袖が引っ張られるような心地がした。
「なに?」
「おにーちゃん、もう寝るの?」
「うん。明日は8時に起きなきゃいけないからね」
嘘だ。たとえ8時起きでもこんな早くから寝る必要はない。
そもそもこんな体、多少の徹夜をしても問題ないはずだ。
それなのに、どうしてか今の僕は彼女からなるべく避けることしか考えていなかった。
「霖が寝るまで待っていてくれないの?」
「もう、その歳になったんだから、一人で寝られるだろう? 僕は零さんのベッド使わせてもらうから、霖は――」
「わたしも、おにーちゃんと寝る」
「あれは一人用だよ」
違う、論点はそこじゃない。
「やだ。おにーちゃんと寝る」
「ダメだよ、何でも一人でできるようにならないと」
「怖いの……」
僕のTシャツの袖をつかむ力が強くなる。
「え?」
「怖いの。おにーちゃんがどこかに行っちゃいそうで、不安で……」
俯く彼女の背中から、また黒い靄のようなものが立ち上っている。
それが、あまりにも不気味で。
このまま彼女がその黒いものに覆われてしまうのではないかと思うと、身震いを起こした。
「わかったよ、わかったから」
袖をつかむ彼女の手に自分の手を重ねて、そっと解く。
その小さな手がほんのちょっとだけ震えているのに、僕は気がついた。
「先に行っているから。寝ないで待ってるよ」
「うん、ありがと。じゃあ、お風呂入ってくるね……」
彼女は一度も顔を上げないまま、足早に風呂場に向かった。
その背中からはもう黒い靄のようなものはなかった。
彼女が居間を去って僕だけが取り残された。
音が消え、心臓の鼓動だけが空気を震わせている。
…………。
おいおい、まるでこれじゃあ逢い引きしているみたいじゃないか。
ほんの少し顔が熱くなるのを感じて、コップに水を汲む。
夏特有の生温い液体が喉を伝う。
階段を上がる。衣装部屋の隣、零さんの部屋の前で僕は一つ大きく息を吸う。
「まさかと思うけど、まさかだよな」
ドアを開けて僕は彼女の勉強机に備え付けられた椅子に腰掛けた。
机の上に置いたボストンバッグに二人用の荷物を詰める。
そこでふと、あの黒い靄のことが脳裏によぎった。
「あれは一体何だったんだ……」
明らかに昨日はそんなもの見えなかった。
それにあれが見える時、いつもあいつは暗そうな顔をしている。
そこで、僕はあいつのあの言葉を思い出した。
――心情が表情を作る。
――私の場合はそれが強いってことなんです。望んだものをなんでも生み出すことができ、望んだものをなんでも壊すことができる。
ならば、霖から出ているあの黒い靄は……。
そこまで思考をめぐらせいた僕は、ドアのノックする音で現実に引き戻された。
「お、おにーちゃん? お風呂は入ってきたよ」
「あぁ、うん」
ドアを開ける。
上下同色のパジャマを着た彼女が立っていた。
そのまま彼女を招き入れる。毛布をめくって、ポンポンと手で示した。
素直に寝床に入った彼女の横に腰掛けると、そっと毛布をかける。
「霖が寝るまで、ここにいてあげるから」
「おにーちゃんも寝ようよ」
「大丈夫、昨日みたいに縁に腕を組んで寝るよ」
「それで今日寝不足気味だったじゃん。だめ! 明日は大事な日なんだからちゃんとベッドで寝て」
体をよじらせて半分スペースを作ると、彼女はポンポンとそこを叩いた。
「いいよ、僕は」
「だめ!」
「あのねえ……」
「なんで? なんでそんなに霖と一緒に寝るのが嫌なの?」
「それは、霖は女の子だから――」
「だから? おにーちゃんも男の子だから? 保証ができないから?」
どこでそんなの覚えてきたんだよ。
昨日はスーパーで買った食玩の付録で喜んでいたじゃないか。
「そ、そんなことはない。それくらいの自制はできる」
「じゃあいいじゃん」
「――――」
「それに、私は、別に……」
そこまで言ってほんのりと顔を赤らめた彼女は僕に背中を向けた。
それでも、僕を離すまいと右手で僕の服を掴んでいる。
どこまでませているんだよ……。
落ち着け、寝るだけだ。僕は何もしない。
自分に暗示をかけて、寝床にそっと潜り込んだ。
くるりと体を回して僕の方に向く彼女。
目が合う。
こんなに近くで顔を見るのは、いつ以来だろう……。
暗闇のなかでお互いに見つめたまま時間だけが過ぎていく。
先に負けたのは僕だった。
彼女との微妙な距離感がじれったくて体をひねって背を向ける。
つい先ほどかけた暗示が切れそうだった。
その背中を、彼女がそっと包んでくる。
首筋に霖の小さな息が当たる。柔らかな二つのものを背中に感じる。
限界だった。
「霖、それ以上は――」
「いいよ。**くんなら――いいよ」
一度も教えたことがない僕の名前を、彼女は呼んだ。
それを聞いて僕の心臓の音は、助走をはじめる。
否、もとより僕の方はとっくに走り始めていた。
今、僕の耳で鳴っているのはもう一つ――霖の鼓動だ。
徐々に早くなる彼女の鼓動はまるで僕の心臓に追いつかんと、足を早めている。
言葉はいらない。
目隠しのための暗闇と、シャンプーの匂いと、ほんのすこしの衝動があれば十分だった。
どうして彼女が僕の名前を知っているのかなんて問いは、すでにこの時の僕の頭からはすっかり抜け落ちていた。
僕はただ、お互いの鼓動を合わせることに注力をしていたのだった。
――こうして僕はまた、自分の体に罪を刻みつける。




