<第3章> Confession. 03
二階の一番奥、そこが厘の部屋だった。
ドアノブを回してそーっと扉を開ける。
おそらく二年前のあの日のままなのだろう。
机の上のノートパソコンは少し埃が積もっている。
ベッドには灰色のパーカーが無造作に置かれていた。
ぺちゃんこに潰れた座布団が敷かれた椅子に腰掛けて、僕はノートパソコンを開く。
画面は真っ暗のまま何も反応しない。
「充電切れかよ」
黒いコードをパソコンとコンセントに繋ぐ。
奇妙な電子音が鳴りライトが点くと、プログラムの更新が始まった。
ぐるぐると時計回りに渦を巻くカーソルは、二年間の空白を埋めるように勢いよく回り続けていた。
――更新12%
なかなか終わらない更新がじれったい。
いや、それよりも僕はこの部屋の匂いが耐えられなかった。
ほのかに甘い花の香りが部屋全体に充満している。
こんなことなら、霖が言っていたようにきちんと携帯しておくべきだった。
――更新17%
それにしても手持ち無沙汰だ。
彼女の部屋を勝手に荒らすのはよろしくないし……。
一度居間に戻るか。
席を立ち、部屋の外に出た。
最後にちらっとパソコンの画面を見る。
――更新20%
まだまだかかりそうだ。
「あ、おにーちゃん。どうだった?」
「まだ、パソコンの更新に時間がかかりそうだった」
「ふーん」
テレビからはお昼のニュース番組が流れている。
「市内に出入りする全ての道が通行止めだって、電車も止まっちゃってるみたい。どうしちゃったんだろうね」
霖は独り言のようにそう漏らした。
「交通事故か何か起きたんだろう」
居間に置かれた机を挟んで、僕も腰を下ろす。
「でも全部の交通機関が封鎖されているんだよ?」
「確かに、それは変だよな。一つの道ならまだしも、全部が通行止めって」
あと他に考えられるのは凶悪事件による検問――くらいか。
しかし、テレビからはそんな不穏な空気は流れていなかった。
どういうことなんだ?
画面から流れるコンテンツに飽きたのか、胡座をかいてテレビを見ていた霖はテレビを消すと、くるりとこちらに向いた。
「ねえ、おにーちゃん。ママってどんな人だったの?」
しまったと思った。
僕は居間に戻って来るべきではなかった。
いや、そもそもこの街に帰って来るべきではなかった。
彼女があいつと関わりのある人物ならば、いつかこんな時が来ること自体分かっていたじゃないか。
「ほら、私全然知らないからさ。どんな人だったのかなって」
「どんなって、君と同じだよ」
「外見はそうだけどさ、私が言っているのは中身の方なんだよ」
居間を流れる空気がどんよりと重くなって、そして止まった。
この感覚、厘が僕に自分の力を話したあの時と似ている。
全ての物質が止まり、僕自身も意識はあるのに体は金縛りにあったかのように自由に動かせない。
霖も、あいつのような能力を持っているのか?
「ねえ、おにーちゃん。教えてよ」
純粋無垢な彼女の瞳が、尖った刃のように僕の胸を貫いて来る。
僕は重く蓋をした唇をゆっくりと開けた。
「分かったよ」
その言葉と時を同じくして、縁側から生ぬるい風が居間を走り抜けていった。
外からの風のおかげで、居間の底に停滞していた重苦しい空気が対流を始めたのがわかる。
あれ?
体が軽くなった気がする。
縁側に頬杖をつく霖は唇の端をにゅっと釣り上げ、目を細めた。
その表情、あいつが何かを謀った時の顔と同じだ。
「さぁ、おにーちゃん。教えてもらおうじゃあないか」
「分かったよ、別に教えたくないわけじゃないんだ。ただ、あいつの話は僕にとって重い話題なんだよ」
そんな僕の思いとは裏腹に、向かい側の霖は腰を上げ、顔をこちらに突き出すような格好で目を大きく見開いている。
――まるで犬みたいだ。
「……名前は、厘。斎藤厘」
「りんは私だよ」
「うん、そうなんだけど……ちょっと待ってて」
リビングの電話台の脇にあるクリップで留められていた裏紙の束と、ボールペンを持って居間に戻る。
『霖』
一番上の紙には、先日僕が彼女にあげた字の筆跡がうっすらと残っていた。その上をなぞる。
「私の名前!」
それを見て、霖が嬉しそうに指を差す。
「そう。この字は、長く降り続ける雨って意味。それでこっちがあいつの名前」
『厘』
「これも、りん?」
首をかしげる彼女。
やはり成長はしているとは言っても、書き方の練習はしていないから読み書きはまだできないみたいだ。
あとで幼稚園児用のドリルでも買ってあげようか。
「そうだよ。こっちは100分の1って意味。『りん』って漢字自体はいっぱいあるのに、どうしてこの字を当てたのかは親御さんじゃないと分からないな」
霖は、並んだ二文字に顔を寄せてじーっと眺めている。
そして首をヒョイっとあげると、案の定痛いところを突いてきた。
「それでおにーちゃん、何で同じ名前、私につけたの?」
「それは……」
「それは?」
「…………」
再び、生ぬるい風が居間の中を駆け抜けた。
ただ、今度の風は少しジメッとしていて、そして……。
「雨?」
「あぁ! 洗濯物!」
霖は立ち上がると、急いで二階に上がっていく。
忙しいやつだ。たったった……と小刻みな音が響く。
そして居間に取り残された僕は、ホッと息をなでおろした。
もしも、あのまま問い詰められていたら、僕は一体なんて答えたのだろう……。
そうだ、そろそろあいつのパソコンの自動更新終わっているんじゃないのか?
重い腰を上げて、僕も階段をのぼる。
二階の一番奥の部屋の扉を開けると、暗闇の中、電源が入ったパソコンの光だけが浮遊していた。
『こんにちは、斎藤厘さん』の文字が映る。
幸いなことに、ログインに必要なパスワードはポストイットのようなものでキーボードのすぐ上に貼り付けられてあった。
『********』
パスワードを入力してログインする。
またカーソルがくるくると回り、画面が切り替わった。
「こんな写真いつ撮ったんだよ」
モニターには、ポケットに手を突っ込んであくびをする僕の姿が映っていた。
明らかにカメラに気がついていない、自然体の僕。
「こんにちは、サイトウリンさん」
いきなり響く声に背中がビクッと震えた。
「AIの自動音声か……」
「未送信のメールが一件ございます」
未送信?
メールを開いて中身を確認する。
流石に二年も放置しているから、受信ボックスには滝のような勢いでメールの通知が続いている。
そのすぐ下、『未送信』のボックスには『1』とだけ表示されていたところを開く。
『先輩、ごめんなさい。
それと、大好きです』
それだけだった。
日付は二年前――彼女の命日。
「どう……いう、ことだよ。……あれ? 何で、僕」
両頬に伝うものをさっと指で払う。
涙を流したのなんていつ以来だろう。
キラキラと輝く指先を見つめる。思い出が蘇ってくる。
初めて会った時のこと。
初めて二人だけでどこかに出かけた時のこと。
初めて彼女の体に触れた時のこと。
そして、最後に彼女を殺した時のこと。
「どうして、死んだのがお前なんだよ……どうして、僕じゃないんだよ」
全身の力が抜けていく。いつの間にか僕は机に突っ伏すような形になっていた。
それでも一度堰を切った涙は止めることができない。止め方がわからないのだ。
窓の外の雨の音が酷くなる。
僕はただ、この降り続ける長雨のように止むのを待つことしかできなかった。




