<第3章> Confession. 02
「おにーちゃん、これ」
「あぁ、塩江のほたる祭りか」
パンと目玉焼きが乗った皿の下に敷いた新聞を見ていた霖は、そこに挟まっていた広告を僕に見せてきた。
それは高松市の南部、塩江で行われるほたる祭りの広告だった。
「あれ? でもほたる祭りって確か6月の頭だったような」
「今年はその時期が梅雨だったから、来週に延期になったんだって」
霖が広告に書かれた文章を指差して僕に見せてくる。
「ねえ、おにーちゃん。ほたるってなに?」
「虫だよ。夏の虫。夜になると光を発するんだ」
「おにーちゃん、見たことある?」
「……そういえば、ないな」
東京じゃ見られないし、高松に住んでいた時も塩江まで見に行ったことはなかった。
「じゃあ、見に行こうよ。私もほたる見たい!」
「ここから塩江って結構距離があるぞ。歩いていける距離じゃないし」
僕は免許を持っていないから、車も出せない。
「つんつん」
彼女は広告の一番下を指差してきた。
ご丁寧に高松駅からのアクセスの仕方が載っている。
「バスで一本なのか」
「行こうよー、おにーちゃん。おにーちゃんもほたる見たいでしょ?」
「別に僕はそこまでほたるに興味はないんだけど」
「霖は見たいの! お願い連れてって!」
「…………」
「お願い!」
恨めしそうに僕を見上げる彼女。
本当、そういうところはどんどん厘に似てきているな……。
「はいはい、わかりましたよ」
「ほんと⁉︎ いいの? やったぁー」
飛び跳ねるように喜ぶ霖。
そんなことで一喜一憂している彼女の姿が微笑ましい。
僕は、もっと彼女に外の世界を知って欲しかったのかもしれない。
あいつが遺したこの世界を知って、大きくなって欲しい。それが、厘への贖罪だから。
目の前にいる彼女そっくりの少女を育てることが、僕の彼女へ対する唯一の罪滅ぼしだと。
もちろん、そんなことはただの自己満足で、途方もない勘違いだってことくらいわかっている。
わかっているけれど。
ーー今の僕はこれ以外のやり方を知らなかった。
「おにーちゃん、どしたの? ぼーっとして」
「いや、別になんでもない」
「ふーん」
僕の目をじっと見つめながら食パンをかじる霖。
何か落ち着かない。
昨日まではただの子供だと思っていたけれど、こうして自律している様子を見ると、限りなく厘に見えてしまう。
何か話を変えないと……。
「そういえば、この家バスの時刻表とか置いてある? 東京と違ってバスの本数少ないから、確認しておかないと」
「うーん、おねーちゃんなら知っているだろうけど」
「いま居ないんだよな」
あの人、いつ帰ってくるんだよ……。
「でも、パソコンならあるよ」
「どこに? 居間には見当たらなかったけれど」
「ママの部屋」
おう……。
「ていうかおにーちゃん、自分のケータイ持ってないの?」
「一応スマホは持っているけれど、そういえば東京に置きっぱなしだった」
「ダメだよ、ケータイはちゃんと携帯しないと」
使い古されたネタを言って、霖は「にっしっしっ」とひとり笑った。
「私も、ケータイ欲しいなぁ……」
僕に聞こえるか、聞こえないかの声でポツリと呟く彼女。
そして、ちらっと上目遣い。
そういう処世術は天賦の才だな。
「あのね、そういうのは保護者にお願いするんだよ」
「おにーちゃん、霖の保護者じゃないの?」
「君の保護者は零さんだろ。僕はあくまでも彼女の代わりだよ」
「私だって、ママの代わりだよ……」
彼女の発したそのセリフに、空気の流れが変わった気がした。
まただ。
霖の背中から暗い靄のようなものが浮遊している。
なんだ、これは。昨日はこんなもの見えなかったのに……。
「おい、霖……」
「ううん、なんでもない」
俯いた顔を上げ、笑顔でトーストを頬張る彼女。
それが気丈に振る舞っていることくらい僕にも分かるのだけど、なんて声をかけてやれば良いのかは、分からなかった。
「なあ、霖」
「ん? なに?」
目玉焼きを口に含んだ彼女は僕を見ると、うどんを食べるようにずるるっと啜った。
「いや、やっぱりいい」
「……なにそれ。変なおにーちゃん」
「ごちそうさまでした」と手を合わせた彼女は食器を水につけると、「おにーちゃん、私洗濯物干してくるから」と言って居間を後にした。
僕も残ったトーストの欠片を口に入れると席を立った。
水を溜めたシンクの中に沈む皿を洗っていると、彼女の足音が天井に響く。
二階に行ったのだろう。
しばらくすると、たったった……と彼女のリズミカルな足音が頭上を鳴らした。
「洗濯物干してきたよ」
「うん、ありがとう」
洗った食器を布巾で拭きながら、そう言うと少し恥ずかしそうな表情になる霖。
「なんか初めて褒められた気がする」
「初めて褒めたからね」
霖は僕の言葉に頰を膨らませた。
「もう、ほんとそういうとこだよ!」
え?
「……今の」
「ちょっ、え? おに……」
怒るときにいつもそう言っていた厘の姿が、彼女と重なって見えた。
――ほんと、そういうところですよ!
体は自然と動いていた。
「おにい……ちゃん? ちょっと、おにーちゃん。……苦しいよ」
僕の背中をポンポンと叩く彼女。
……!
ハッと我に返る。
いつの間にか僕は彼女に抱きついていたのだった。
両腕を解いて、ゆっくりと彼女から体を離す。
「ごめん……」
「また、ママと重なったの?」
彼女の顔を直視できない。
コクリと頷く僕を見て、霖は何も言わなかった。
「ちょっとパソコン触ってくるよ」
「うん……」
それきりで会話を切り上げて、僕は逃げるように居間を出た。
足早に二階まで上がるとそこで壁にもたれた。どっと疲労感が押し寄せてくる。
前髪をかきあげながら、息を大きく吐いた。
きっとこれから先、彼女はもっと厘に似てくる。
その時、僕はどうすればいいのだろう。
霖と厘の区別がつけられるのだろうか……。
そういえばテレビの中の天気予報士は、夕方から雨が降ると言っていた。